何やら近くのテントが騒がしい。一番近いのは、私たちが過ごしているテントとは別の女子テントだ。イケイケ女子グループのテントともいう。
騒がしさに目が覚めて、体を起こす。私以外の生徒も続々と起き出しており、困惑に顔を染めながら目を合わせて、「何があったの?」と誰かから事情を聞こうとする。しかし別テントでの騒ぎだ、様子を見に行かないことには事情を知るも何もない。
櫛田さんも起きて、困惑しながら「ちょっと様子を見てくるね」とテントを出て行った。その後を数人の女子生徒が追う。
「……なに……なにがあったの?」
気怠げに、隣にいた堀北さんが起き上がる。起きたばかりでまだ舌がうまく回っていない。
堀北さんは自分の体を抱きしめるように二の腕を掴んで、ゆっくり腕を摩っている。
その様子から視線を外し、テントの外を見やった。
「さあ……でも、きっと良いことじゃないな」
軽井沢さんの下着が盗まれた。犯人は男子以外あり得ない。
篠原さんが女子を代表して、起き出してきた男子を糾弾する。平田くんが懸命に落ち着かせようとするが、女子は男子を犯人と決めつけて譲らないし、男子は疑われて徐々に機嫌が悪化していく。
それから始まった男子の荷物検査は、最後尾の山内池清隆くんで多少の滞りはあったものの、問題なく終える。
しかしココで矛を収められたなら、最初から揉め事にはならないのだ。
「あのさ平田くん。もしかしたらポケットとかに隠してるかも知れないよね? さっき池くんと山内くん、それから綾小路くんがコソコソ話してたのも気になるし」
さらに始まる身体検査。疑われている山内、池、清隆くんの順番で平田くんが隈なく確認する。
全然関係ない話だけど、目を瞑って平田くんからの審判を待つ清隆くんには思わず笑いそうになった。笑っていい状況ではない。
身体検査の途中、清隆くんと平田くんが一瞬視線を合わせる。それだけで、清隆くんが下着を持っている……持たされていることは確実にわかった。どうやら結局貧乏くじを引かされたらしい。
一度荷物を片付けてくるから、と平田くんが言って、男子がそれぞれ荷物を置きに行く。清隆くんはテントの中に戻り、その後を平田くんが続いた。
他の男子も動いているから、誰もその行動を怪しんでいない。きっと今頃二人はテントの中で……と謎の空白を作ってみれば、なんか妙な雰囲気にできるよね。後で清隆くんに言ってみるのも悪くないかもしれない。頭小突かれるかな……。
くだらないことを考えているうちに、清隆くんと平田くんが戻ってきていた。平田くんが呼びかけて、再びDクラスの生徒が集まってくる。今度は軽井沢さんもいる。
真っ赤に目を腫らしている様子は、直前まで泣いていたのがよくわかった。
「男子は信用できない。このまま同じ空間で過ごすなんて絶対無理……!」
「でも、男女で離れて生活するのはちょっと問題じゃないかな……。試験はもう少しで終わる。だからこそ、僕たちは仲間なんだから信じ合い、協力し合わないと」
「……それは、そうだけど。でも下着泥棒と一緒の場所なんて耐えられない!」
平田くんがなんとか説得を試みるも、被害者は軽井沢さんなのだ。これ以上彼女に妥協するように言うのは二次被害に当たる。
平田くんも重々承知なのだろう。それ以上言うことはなかった。
それから話はとんとん拍子で決まっていく。
男子と女子でエリア分けをすること。男子テントと女子テントを離すこと。そして、女子テントを移動するのに平田くんが手伝うこと。後の男子は信用ならないとの言である。
ここまで順調(?)だったのだが、ここで異を唱える人物がいた。
「ちょっと待って。あなたたちに異議を唱えるわ。特に軽井沢さん」
冷め切った空気の中、それを意に介さず声を上げる堀北さんの精神はさすがであった。
軽井沢さんが訝しげに眉を寄せて、堀北さんを見る。
「なによ堀北さん。今の話に不満あったわけ?」
「男女で生活区画を変えるまでは構わないわ。犯人が見つかっていない以上、その可能性が高い男子から距離を取ることは間違いじゃない。だけど私は平田くんを信用してないもの」
つまり堀北さんが言いたいのは、みんなが認める平田くんも下着泥棒である可能性は除外できないということ。そして平田くんだけが特別に女子のエリアに入って構わないというルールを作るのは納得がいかないということだ。
それを聞いた軽井沢さんの顔色が変わる。憤怒から目を吊り上げ、堀北さんに詰め寄った。
「平田くんがそんなことするわけないでしょ。それくらいわかんない?」
「それはあなた個人の考えでしょう? 私にまで同じ考えを強要しないで」
徐々に彼女たちの言い合いがヒートアップしていっていることがわかる。堀北さんの言い方は、軽井沢さん以外の女子も不快な思いにさせられている。
男子だって女子の鼻を明かせて今は良い気分かもしれないが、堀北さんの矛が自分たちに向いたら不快な思いにさせられるはずだ。
頭は良いが、対人関係には難がある。堀北さんの弱点が、今この状況においてもろに出ていると言っていいだろう。
「平田くんが犯人なんてこと絶対にない。彼氏どころか、まともな友達もいないあんたにはわかんないかも知れないけどね」
「何度も同じ事を言わせないで。彼一人じゃ納得しかねると言ってるのよ」
「じゃあ聞くけど、平田くん以外に信用できる男子なんて───!」
あーあ、これからもっとヒートアップしていくんだろうな〜とか明後日の方向を向いてトマトのことを考えていたときだ。
「平田くん以外に……信用できる男子なんて……」
軽井沢さんの言葉が急に尻すぼみになった。さっきと同じセリフを繰り返しているのも変なのに、勢いだってまるっきり変わっている。
視線と一緒に明後日に飛ばしていた思考が戻ってくる。……あれ? なにこの展開。
「いるでしょう。ほら」
シーンと静まり返った場には、堀北さんのそんなに張っていないはずの声もよく響く。
Dクラスの生徒の視線が一点に集まっていた。私もその視線の先を追う。
「…………え?」
清隆くんが自分を指さして、心細そうな声で「オレ……?」と言っている。え……? 清隆くん……?
誰かが言った「解散」の一言で、集まっていたDクラスの生徒がバラバラに散って行った。私と清隆くんだけがその場に留まっている。
二人しかいないため、当然目が合う。そしてもう一度心の底から「「え……?」」と言い合った。
え……? 何この展開……?
§
清隆くんと平田くん(途中平田くんが女子に呼ばれて抜けたため、実質清隆くん一人)が頑張って女子テントの移動が終わる。これで女子と男子の完全なる分断が完成された。
額の汗を拭い、疲れたように息をついている清隆くんのもとに労いに行こうとして、それより先に伊吹さんが向かったのが見える。足を止めて、少し悩んだが踵を返すことにした。
今の時刻は10時をまだ回っていない。昼までは釣りをしようと、釣り道具を取りに行く。
川辺へと向かえば、もはやこの場所では見慣れた姿が先に釣り場にいることを確認し、いつものように声をかけに行く。
「佐倉さん、今日も釣りに精出してるね」
「あっ、水元さん! うん、釣りって慣れると楽しいね」
本当に楽しそうな様子を見ると、最初に誘ってよかったな〜と思う。楽しいなら何よりだ。
少し間隔を空けて、隣に座る。今日の目標は……昨日よりも釣り上げること。つまり、五匹以上ッ!
やる気に満ち溢れている私を見て、佐倉さんが楽しそうに笑っている。
「そういえば水元さん、昨日綾小路くんと釣り勝負してたよね。確か……」
あっ……という顔をする佐倉さん。できるならその話題を出す前に気づいてほしかった。
釣り糸を川に垂らしながら、フッ……と笑う。
「ギリギリで負けたんだよね……四匹と五匹は誤差だと思うんだよ、私」
「え……で、でも、水元さんすごく頑張ったと思うよ! だって最初全然釣れてなかったのに、昨日は四匹も釣れてたもん!」
本人には一切悪気がなく、純粋な気持ちからの褒めとちょっとしたディスり(事実なだけ)が入るので、喜べばいいのか悲しめばいいのか分からない。喜べばいいと思うよ。
佐倉さんが話題に出すから、昨日、私より多く釣り上げたことがわかったときの清隆くんのドヤ顔を思い出した。あれは絶対にドヤ顔だった。
「……今日は六匹釣り上げることにする」
「え? あ、そうだね。一緒に頑張ろう!」
これで昨日の清隆くんより釣って、昨日の清隆くんに勝ったということにする。本人に言えばまた再戦になることは想像に容易いので、黙っておこう。
佐倉さんと健闘を祈り合い、今度こそ釣りに集中する。
私だって学習したのだ。釣りは燃えすぎると魚が寄ってこない。ほどほどの気持ちですることが大事で……まってコレ魚じゃない!? 落ち着け落ち着け落ち着けよしよしよしゆっくりリールを巻いて───
あっ。
§
特別試験6日目。どうやら今日は朝からツイていない天気模様だ。重たい雲が空を覆っており、色も灰色と不穏な雰囲気を醸し出している。この分だと、雨が降るまでそう時間がかからないだろう。
しかし地面を見れば、所々水溜まりがあったり泥濘んでいたりと、雨自体はとっくに降っていることがわかった。昨日みんなが寝静まった深夜から早朝まで降っていたんだろう。本当に嫌な天気だ。
だが、私たちにとって好都合なことも確かだった。
Dクラスの雰囲気は落ちに落ちている。一昨日までは男女協力し合い、和気藹々とまではいかないが順調に絆を育みつつあったというのに、すごい落差だ。6日目にして初日に返った感がすごい。
昨日、どうやら堀北さんは清隆くんにイケイケ女子グループが申請した快適寝グッズをリークしたようで、その後なぜか私が清隆くんに怒られる羽目になるということがあった。両頬をつまんで遠慮なく伸ばされまくるという理不尽な目に遭ったのだ。でも仕方なくない? 制御できないものはできないよ。
いくら清隆くんに怒られても、私から言うことは何もない。イケイケ女子グループも黙って快適寝グッズ……扇風機を購入したことに罪悪感はあったのか、それともこちらのテントの誰かが不平不満をこぼしたのか。真偽は定かではないが、購入した扇風機のうちの一つを一昨日こちらに譲ってくれたのだ。
そのため私もさらに快適に寝られるようになったという恩恵を受けているのもあるし、あまり彼女たちを責める気にはなれない。やっぱり扇風機の存在は偉大だった。発明した人はすごいと思う。
その後扇風機の偉大さを長々と語ったからイラッとして頰を引っ張られた気がしないでもないが、恨むなら女子に生まれなかったことを恨んでほしい。清隆くんも女子だったら快適に過ごせたと思うよ。今から清隆くんも女子にならないか?
「葵」
「あ、清隆くん」
ぼーっとしていると隣に清隆くんがやってくる。並んで一緒に空を見上げていれば、清隆くんがポツリと「荒れそうだな……」なんて言葉をこぼした。果たしてどっちの意味で言っているのか。
そして、正確に言うならば荒らすのは私たちだ。実行するのが清隆くんだとしても、間違いなく私だって加担しているのだから。
平田くんの呼びかけでDクラスの生徒が集まる。今日を乗り切れば、明日は最終日のためポイントを使うこともない。自然と激励の言葉に力が籠っていく。
ひとまず今日の分の食料を確保するため、班分けが始まった。私は……今日こそはトマトを見つけたいので、食料探索班だな。一応どの班に所属するかは希望制なので、ありがたいところだ。
佐倉さんは釣り班がよかったようだが、すでに池や須藤といった男子に釣竿を取られており、入れなかったみたいだった。肩を落としているのが遠目に見える。
一番人数の多い探索班から、平田くんが指示を出して挙手制でグループを作っていく。清隆くんの班に入ると真面目にトマトを探しに行けないので、早々に手を挙げた。隣にいた清隆くんがギョッと私を見てくる。すまない、私にも譲れないものがあるのだよ。
最後まで手を挙げることなく残った余りものメンバーは、清隆くん、堀北さん、佐倉さん、櫛田さん、山内といった愉快なメンツとなっていた。楽しそうでいいと思う。
「葵……」
「健闘を祈る」
同じ班の子に呼ばれている。清隆くんには良い笑顔でサムズアップを返してから離れた。
今日こそトマトが私を呼んでいる!
探索を開始して、しばらく歩いてのことだ。予定外のハプニングが起こった。
昨日の雨で泥濘んだ地面で足を滑らせ、同じ班の一人がそのまま傾斜を滑り落ちてしまったのだ。
しかし滑り落ちたのが崖じゃなく、緩やかな傾斜だったのは幸いだった。これが崖だったら本当に危なかっただろう。傾斜を滑り落ちていった同じ班の子を追いながら、冷静に分析する。
傾斜を滑ることで摩擦によって衝撃が軽減され、地面に着いたときもそれほど痛みはなかったはずだ。滑った瞬間体が後ろに倒れたのが見えたから、これも好条件だった。頭から滑り落ちていったなら、傾斜の途中で無造作に生えている草木に目を傷付けられた可能性もある。
なんとか自分は二の舞にならないよう気をつけながら、慎重に後を追う。木を利用しながら、濡れていない固い地面や突き出した岩を探りつつ、それを足場にしてゆっくりと降りていく。……と、危ない危ない。
肩口が木に引っかかって、僅かではあるがシャツが破れてしまったようだ。このシャツはもう使えないだろう。もったいないことをした。
そうこうしているうちに、不安げな声が上から降ってきた。私が様子を見て来るからそこで待ってて、と落ちた子以外の班の子には頼んでいたのだ。
実は滑り落ちて行った子以外は女子というハーレム班だったりする。女の子を危険な目に遭わせるわけにはいかないと、勇ましく私が飛び出して行ったのがさっきのことだ。
大丈夫だよと声を張り上げて返事をしながら、少し移動するペースを早める。戻って来なかったら誰か呼んできてくれとも頼んだのだが、面倒な騒ぎを起こしたくない。この後の展開にズレが生じては困るからだ。
自分の着ていた服が否応なく汚れていっている。気にせず黙々と傾斜を下る。
……なんとか真っ平らな地面まで辿り着く。ふう、と息をついた。
周辺を見渡して落ちた子を探していれば、少し離れた先で呆然と突っ立っているのが見えた。何かを注視しているのはわかったが、ここからだと彼の視線の先に何があるのかわからない。
見た感じ、ちゃんと一人で立つことができている。服は当然汚れてしまっているが、重大な傷を負っているといった様子はない。ひとまず安心していいだろう。
上で不安になりながら待機している班の子たちに早く無事を知らせねばと、彼のもとに向かう。
「おーい、大丈夫? 怪我とかしてない?」
返事がない。ただの屍のようだ……と不謹慎なテンプレを心の中で垂れ流したところで、震えた声で名前を呼ばれた。
首を傾げる。彼の視線の先を追う。
……気づけば目を見開いていた。
だってそこには、ルビーの如き赤い輝きを見せる───
§
ホクホク顔でキャンプ地へと戻る。他の班の子たちが成果無しだったと落ち込んだ顔をしているのに対し、我らが班はみんな満面の笑みを浮かべて、英雄の凱旋のごとき堂々とした立ち居振る舞いであった。ついさっき班員が崖から落ちるというとんでもないハプニングがあったわけだが、全員すっかり頭から抜け落ちていた。
代表して、ルビー……もといトマトを見つけた班一番の立役者(※傾斜を滑り落ちた人)が、意気揚々と料理班に結果を報告しに行く。彼がリュックに詰まったトマトを見せた途端、一拍広がる静寂。
しかしすぐにワッと歓喜の声が上がって、静寂は一瞬で破れた。料理班が盛り上がるものだから、他のクラスメイトたちもなんだなんだとその場に寄って行く。
さらに盛り上がる場を、私は少し距離を空けて見ていた。満足げに息を吐いて、心地の良い達成感に浸る。
これでバカンスに思い残すことはほとんどなくなったと言えよう。
特に何をするというわけでもなくその場でボーッと突っ立っていると、ちょうど清隆くんと愉快な仲間たち班が帰ってくるのが見えた。しばらく何か話をしているようだったが、それも終えて、それぞれ解散となっている。
清隆くんはすぐにキョロキョロと辺りを見渡し、木のそばにひっそり立っている私に気づくと、迷わずこっちに向かってきた。
「葵」
「おかえりー、清隆くん」
「ああ………何があったんだ?」
距離が近づくごとに清隆くんの顔がしかめられていっているのには気づいていたが、私の真前まで来るとより顕著になる。
清隆くんは観察するように私の全身に目を走らせて、それから手を伸ばして肩に触れてきた。
「全体的に汚れているのも気になるが、この肩……怪我はない、か。でも、なんでシャツが破けてるんだ?」
「……あっ」
トマトを見つけた達成感ですっかり肩のことを忘れていた。そういえば服も汚れているんだった。
軽く頭を掻き、へらっとした笑みを浮かべる。誤魔化すための笑みとも言う。
「いやぁ、ちょっと救助活動みたいなことして……」
「救助活動? どういうことだ?」
当然逃してくれる清隆くんではなかった。間髪を容れず詳細を尋ねられると、言わなきゃいけない空気のようなモノが生じる気がする。
別段隠すようなことでもないのに、清隆くんの纏う空気が鋭い気がして妙に言い難く感じる。もごもごと答えた。
「えーっと……班の子が一人、崖から滑り落ちちゃったんだよ。それで私が後を追ったんだ」
「なんで葵が追うんだ」
「そりゃ私が一番動けたからだよ。落ちた子以外はみんな女の子だったしね」
清隆くんの顔はしかめられたままだ。合点はいったものの、納得はしていないというところか。
シャツが破けた箇所から清隆くんの指がするりと侵入してきて、露出した私の肩を撫でていく。……くすぐったいからやめてほしい。
「……あまり……危険なことはしないでくれ。葵がもし、怪我なんかしたら……」
「怪我なんか簡単にしないよ。今回のはただの事故だし、気にしすぎだよ、清隆くん」
「………それでも」
駄々をこねている子供のような言い草に、少し笑ってしまった。
俯き加減になった清隆くんの顔を覗き込む。本当なら頰でも撫でたいところだが、今は手が汚れているため触れることができない。
「前聞いてたから、わかってるつもりだったけど……相当トラウマになってるんだね。でも、もうあんな風に一方的に痛めつけられることなんてないよ。そろそろ安心してもいいんじゃないかな」
「……葵は、オレの立場じゃないからわからないんだ」
「まさか。私だって清隆くんの立場だったらトラウマになってたし、それ相応に引き摺ってたと思うよ。でも此処は違う。よっぽど下手を打たないと怪我のしようもない」
「…………」
不安定に揺れる瞳を真っ直ぐ見上げて、「大丈夫だよ。もうあんな風に傷だらけになることなんてない」と静かな声で続ける。
清隆くんの瞳は私の言葉を聞いてもなお不安定に揺れていたが、一度ゆっくりと目を閉じ、もう一度開けたときには落ち着きを取り戻したようだ。今は焦点がハッキリと定まっており、私が顔を覗き込む必要もなくなっていた。
ひとまず安心して、肩を撫で下ろす。改めて自分の体を見下ろした。確かにこれは……汚れているな。
自分の服の裾を摘み、うーんと悩む。
「着替えるのは当然として……体も綺麗にしてこようかな」
「川に行くのか?」
「うん。清隆くんも行く?」
「……いや。オレはやめておく。いろいろ差し迫っているしな」
「それもそうだね」
素直に頷き、じゃあまた後でと手を振って別れる。
水着に着替えにテントに戻ると、ベストタイミングというべきか否か。
中には白い水着に着替えた泥だらけの堀北さんがいて、同じく泥々仲間の私は親近感たっぷりに声をかけた。
「堀北さんも今から水浴び?」
「……水元さん……あなた、何をしたらそんな状態になるの?」
「いやそれブーメランだからね」
堀北さんが眉をひそめて「ブーメラン……?」と呟いている。ブーメランはブーメランだ。説明するまでもない。
私も手早く着替える準備にかかる。
「堀北さん、よかったら泥洗い落とすの手伝おうか?」
「……別にいいわ。泥を洗い落とすくらい一人でできるもの」
「でも、見た感じ結構髪に絡みついてるよ? 後ろとかちゃんと洗い落とせたか確認できないでしょ」
「………」
無言は肯定とみなす。
堀北さんの気が変わらないうちにと急いで着替え始める。堀北さんはどこかぼーっとしていて、私を注視しているわけではない。
神速と見紛う速さで着替え終わると、ぼーっとしたままの堀北さんの腕を取った。熱い、が、指摘するのも今さらだ。
テントの扉部分に手をかける。頭だけで振り返って、堀北さんに声をかける。
「髪は私に任せてよ。行こう、堀北さん」
「……ちゃんと泥を落とせていなかったら、承知しないわ」
幾分反応が遅いとはいえ、通常運転の堀北さんだ。
任せろ、と堀北さんに向かって大きく頷いたところで、今度こそ二人で川に向かった。
堀北さんの長い髪に、手のひらで掬った水をかけて、丁寧に泥を洗い落としていく。
泥々だった髪が徐々に元の艶やかさを取り戻していく様子は、なかなかにやりごたえを感じる。なおさら丁寧な手つきになるってものだ。
堀北さんが体を水に浸しながら、「まだかかりそうかしら……?」と尋ねてくるのに、こちらも「まだ綺麗に洗い落とせてないからダメ」と返す。
気怠げなため息をこぼした堀北さんが、億劫そうに口を閉じる。
………よし。もういいだろう。
もう一度確認するように、堀北さんの髪を手のひらで掬う。それから手のひらの上で毛先まで滑らせたところで、動きを止めた。
本当に艶やかな髪だ。堀北さんらしく、真っ直ぐに伸びて曲がらない。几帳面に手入れしていることがわかる髪。
………無意識に、思ったことが口からこぼれていた。
「───堀北さんは、短い髪が似合うよね」
あまりに突然言われたことで、堀北さんが「ぇ、」と気の抜けた声を出す。彼女のその反応を見て、私もあっとやらかしたことに気がつく。
「あなた、私のどこを見てそう判断したの……?」
もしかしてさっきの気の抜けたような声は幻聴だったんじゃないだろうか。
そう思ってしまうくらいジトッとした目つきで、訝しげに私を見てくる堀北さんに、とりあえず場を誤魔化すような苦笑を浮かべた。
私は、堀北さんが長い髪の姿しか知らない。私含め、周囲の人間みんなそうだろう。入学以来彼女は髪を短くしたことなんてない。なのに、私が短い髪の彼女を知っているかのような発言をしたのは、彼女にとったら違和感でしかないはずだ。
強い視線を感じながら、若干明後日の方を向いて「あ〜……」とぼやく。彼女の視線は全く緩まない。
緩まない視線に観念して、ポツポツと言葉を紡いでいく。
「……なんとなく、だよ。堀北さんは、長い髪も似合うけど……」
手持ち無沙汰に、彼女の髪をもう一度指で掬った。
「私の中で、堀北さんは……短い髪だって思ったんだ。なんとなく。本当にそれだけだよ」
あまりに抽象的だ。正直ちゃんとした理由にもなってない。だが、だからといって良い言い訳も思い浮かばなかった。鋭い堀北さんのことだ、変なことを言えば容赦なく追求されてしまうのはわかっている。
なら、やはり正直に答える以外ないだろう。すべてを明かしていないだけで、これも真実であることに違いはないのだから。
適当言ってへらっと笑ったように見える私を、堀北さんはしばらく静かに見つめていたが、ゆっくりと視線を逸らされる。
堀北さんは僅かな動きで波紋の生まれる水面に視線を落とし、冷めた声で言った。
「……本当に適当なことしか言わないわね。水元さん」
「私は常に真面目なんだけどな……」
「真面目な人は自分のことを真面目と言わないわ」
「いや、堀北さんも自分のこと真面目って思ってるでしょ」
「当然ね。わざわざ口にして言うまでもないことよ」
「……な、なるほどね……」
相変わらず口が回る。押し切られる形で頷いたところで、堀北さんが小さく身震いしたことに気づいた。
……そうだな。もうそろそろいいだろう。
「髪も綺麗になったし、堀北さんはもう上がっていいんじゃないかな」
「……あなたは?」
「私ももう少ししたら上がるよ。もしかして待ってくれるの?」
「待つわけないでしょう」
バッサリ一刀両断される。期待はしていなかったが、こうまで取り付く島もなく言い切られると傷つくものがある。
私を置いてさっさと川を上がる華奢な後ろ姿を見つめ、その後ろ姿が見えなくなってから。
私は一度天を仰いで見て、そのままザプンッと頭まで川に浸かった。
川の中で薄く目を開ける。雲に覆われた空からじゃ、水面に光は一筋も差さない。
………意味のない行動だ。
口を開けばコポコポと気泡が生まれ、水面に上昇していく。
それだけは、妙に綺麗に思えた。