試験は終了となり、解散の流れになる。最後までワーキャー騒いでいたDクラスだったが、先生にさすがに喧しいと注意され、みんな渋々大人しくなった。それから乗船すべく、他クラスに続いてぞろぞろと歩き始める。
この後2時間ほどは自由時間なようで、海で泳ぐも船上でのんびり過ごすもどちらでも構わないらしい。
実は海自体は以前、一度だけ近くまで見に行ったことがある。ホワイトルームが稼働停止となり、別荘に移送された後のことだ。その時、少しの間だけ外に出る機会があった。
監視付きではあったものの、数分という僅かな間だけ海の見える道を歩いたのだ。
その日は眩しいくらいの晴天で、見える景色何もかもが綺麗に映ったのを覚えている。
初めての外に内心でコッソリはしゃいでいた私は、当時はお互い距離を置いていたため離れて歩いていた清隆くんの隣を抜き去って、海に向かってパタパタと駆け足で向かった。海水に触れたいと思って、それで、もしできたら口をつけたりもしてみたいと好奇心のままに動いた。
しかしいざ海を目の前にすれば、太陽の光を反射してキラキラと輝く海があまりに綺麗で壮大で、私は海の向こうをひたすら見つめながら砂浜に立ち尽くすしかできなかった。
しばらくそのまま海をじっと見つめていたのだが、ふと思い出して振り返った。清隆くんの様子が気にかかったのだ。
この景色を前にして、彼はどんな顔をしているんだろう。どんな感情が湧き上がったんだろう、と。
清隆くんは砂浜に続くフェンスの前に立って、私と同じようにじっと海を見つめていたように思う。
逆光で顔がよく見えなかったから目線がどこにあるのかはわからなかったが、頭の向きからして私と同じ方向を見ていることはわかった。私越しに海を見ているのだろう。
あんなに熱心に海を見ているのに、どうしてこっちに来ないんだろうと思ったのだが、そういえば監視はフェンスよりもずっと向こうにいる。私の位置からでは見えないが、それは監視の立場からしても言えることだ。
一人ならまだしも、急に二人も姿が見えなくなったら不審な行動をするなと厳重注意を受けて、すぐに連れ戻され狭い場所に押し込められるに決まっている。
はしゃいでいたとはいえ、随分軽率な行動に出てしまった。状況が状況であることを思い出し、私は名残惜しく振り返りながら海を背にした。
───この時、結局海水には触れずじまいで、味を確かめることだってできていなかった。心残りしかない私の初海の思い出だ。いや、思い出と言えるほど満喫していないのだが。
なんにせよ、今回はあの日の無念をリベンジできるということである。
「ねぇ清隆くん。一度荷物を置いて、後で海行かない?」
「いいぞ。オレもちゃんと近くまで行ってみたかったんだ」
聞いてみればあっさり了承の返事をもらえる。
出航するのは2時間後だから、そう焦る必要はないだろう。
クラスメイトの最後尾につき、二人で乗船する。
クラスを包む興奮と混乱は未だ収まっておらず、船に上がってすぐに唯一詳しく事情を知っていると見られる平田くんがクラスメイトに囲まれ、説明を求められていた。こちらとしても、昨日のうちに説明すべきことは説明している。あとは好きに話してくれたらいい。
我関せずと遠目に見ていれば、デッキには高円寺くんと堀北さんが姿を現した。
ツヤツヤテカテカの高円寺くんが憎たらしく「1週間の無人島生活はどうだったかな? 私は体調不良で寝込んでいて、参加できなかったからねぇ」とか言うのに男子からも女子からも一斉に責められている。本当に高円寺くん自由でいいなぁと思う。
一通り不満をぶつけたものの痛くも痒くもない様子で平然としている高円寺くんに、疲れた一同が視線を外す。そうすると自然と次は堀北さんのもとに視線が集まった。
ここでようやく平田くんが説明を始めて、明かされる堀北さんの活躍。
軽井沢さんの下着を盗んだのは伊吹さんで、逃げ出した伊吹さんを問い詰めようと追い掛けた堀北さんは体調が悪化。軽井沢さんだけは先に平田くんから説明を聞いていたようで、その点についてぶっきら棒ながら素直に堀北さんに謝っている。
この時点で目を白黒させていた堀北さんだったが、さらに平田くんが追加説明を行い、堀北さんがAクラスとCクラスリーダーを当てていたということが明かされる。
堀北さんがハッとした顔で私たち───清隆くんを見たときにはもう遅い。
堀北さんはクラスメイトに囲まれ、ワーキャーと騒がれては持て囃され、完全にDクラス包囲網から抜け出せられなくなっている。あの様子だとしばらく離してもらえないだろう。
盛り上がる一同を横目に一度荷物を置いてから海に行こうと、清隆くんが私の手を引いて彼らから遠ざかろうとする。
そこで見計らったように姿を現したのは、茶柱先生だった。
「少し顔を貸してもらおうか」
「もしかして悪役って流行ってるの?」
「あれは悪役というより不良だ。役じゃない分よっぽどタチが悪いぞ」
「私はここで話を始めてもいいんだぞ?」
「「手短にお願いします」」
うっすら青筋を浮かべた茶柱先生に先導される形で、船の反対側まで歩いていく。
歩き進めるごとに人の姿が見えなくなっていき、海の音以外聞こえなくなっていく。
茶柱先生が振り返ったのを合図に、清隆くんが先に口を開いた。
「とりあえずこれで満足してもらえたと思っていいですかね」
「そうだな。まずは見事だったと言っておこう。素直に感心した」
「じゃあ今すぐ聞かせてください。『あの男』がオレたちの退学を要求した話は本当ですか」
茶柱先生は答えず、柵に背中を預けて空を見上げた。長い髪が風に揺れている。
清隆くんの声が低くなった。
「……その話が本当だと言い切れる根拠はあるんですか?」
「私がお前たちのことを詳しく知っている。それが何よりの理由だと思わないか。それに、他の教員たちはお前の本当の実力を知らない。疑ってすらいない」
「それは答えじゃない。なぜすぐ根拠を提示しない?」
私を置いて話が進む。清隆くんはわかるのだが、茶柱先生に関してはこれに限らず割と最初の方から私を話に入れる気がなかったと思う。
私自身そうなるように仕向けているとはいえ、こうも順調に放置されると茶柱先生ェ……となってしまうのは否めない。
茶柱先生が清隆くんの低い声を受け、密かに肩を揺らしたように見えた。空を見上げる姿勢は変わらないまま、茶柱先生がゆっくりと口を開く。
「……有名な神話の話は、お前も聞いたことがあるだろう。イカロスの翼だ」
「……それがどうかしたんですかね」
茶柱先生が一瞬だけ私を見た。すぐに視線を逸らされる。
「イカロスは自由を得るために幽閉された塔から飛び立った。しかしそれは一人の力ではない。父であるダイダロスが翼を作るように指示し、飛び立たせた」
「何が言いたいんですか」
「つまり自らの意思で飛んだわけではないということだ。……お前にそっくりだとは思わないか?」
「理解できませんね。それにあんた今、誰と誰を、どっちに当てはめて言ったんですか?」
茶柱先生が一瞬視線を目配せしたところを見逃さなかったのだろう。嫌悪を滲ませて、清隆くんが茶柱先生を睨んでいる。
茶柱先生はどこまでも清隆くんの質問に答えない。握られたままの手に力が籠っていく。
「あの男……いや、お前の父親はこう言っていた。清隆はいずれ自ら退学する道を選ぶ、とな。そして、水元葵は必ず帰ってくる、とも」
……なるほど。『先生』にはそう思われている、ということか。
清隆くんの前に出た。後ろ手に彼の体を押して、私の背中に隠すようにする。
それから呆れたような、やれやれといった口調で話し始める。
「イカロスじゃありませんよ。私も清隆くんも」
「……葵」
「以前言ったじゃないですか。神話は神話でしかない。内容が現実的じゃないんですよ。まあ神話だからって言われたら、それまでなんですけど」
「お前が───」
茶柱先生が顔を歪めて私を見ている。続く言葉はおそらく私の以前の発言を蒸し返すものだ。やだな、あれは揶揄っただけなのだ。深い意味なんてない。
口を開く。彼女が続けるはずだった言葉を遮る。
「茶柱先生」
彼女の口が閉じるのを見てから、清隆くんの手を引いて元来た道を歩き始める。
背中を向けた私たちに、茶柱先生が再び声をかけてくることはなかった。
人の気配が増えていくにつれ、騒がしい日常の音を取り戻していく。ついさっきまで海の音以外聞こえなかったのが嘘みたいだ。
清隆くんは私に手を引かれて歩いていたのだが、今は隣に並んでいる。
ほんの少し力を込めて握られて、私も同じ強さで握り返した。
「葵は、茶柱と何を話したんだ」
チラと隣を見る。清隆くんの目元には前髪がかかっており、色濃い影を作っていた。
いつ見ても不思議な色合いをした瞳だ。今は影の中で暗い輝きを宿して私を見ている。
私は嘆息して、やれやれと首を振った。
「茶柱先生ってイカロスの翼好きだよね。なんか思い入れでもあるのかな」
「……まあ、咄嗟には思いつかない話だとは思うが」
「先生ギリシャ神話好きなのかな〜。清隆くんギリシャ神話も網羅してるんだから、話が合う可能性無きにしも非ずだよ」
「万が一合ったとしても、話すことはない」
私の言葉を聞き、嫌そうに歪む顔を見て笑う。予想通りの回答だ。
少し落ち着いてから、先の質問に答えるために口を開いた。無視をするのも不自然だからだ。
「私たちも前に、イカロスの翼の話をしたんだ。神話と現実を当てはめて考えるなんてどうかしてるよね。願望って言われた方が納得できる」
「……願望、か」
「そう。まるで願ってるみたいだ。お前はイカロスなんだ。だからイカロスみたいに死んでしまえって」
私の勝手な思い込みだとは理解している。だが、理解していることと受け入れることは違う。だからこれは、きっと八つ当たりだった。
そんなことはさせない。そんなことにはならない。私が許さない。
誰であろうと、彼に手を出すことは許さない。傷をつけることは許さない。
意図せず、暗い声が出た。
「それに、相変わらず嫌な話だ」
清隆くんが私を見ている。
「葵は、そうだな。昔からこういう話、好きじゃなかったな」
「うん。悲劇は嫌いだ」
どうして本の中でも悲しい、辛い思いをしなきゃいけないのだ。私はそういうタイプの読書家である。
だから強制して読まされた本以外、私が自ら選び取った本ならば、その結末は最初から決まっているようなものばかりになった。
「ハッピーエンドで大団円。気持ちよく終われる物語が一番良いに決まってる」
清隆くんは私の言葉を聞いて、不満そうに若干眉をひそめた。
「推理小説にもハッピーエンドで終わる話はたくさんあるぞ?」
「なんで本の中でも推理とか、余分に頭を回さなきゃいけないの? 嫌だよ面倒くさい」
「今全世界の推理小説好きを敵に回した発言したぞ、葵」
「シンプルに申し訳ないとは思っている」
この辺は考え方の違いだ。だから私が好んで読むのは必然的にコメディ寄りになるというわけである。
───そういえば、そろそろ図書館に行ってもいい時期だろうか。
ちょうど本の話になって、思い出した。
まるで今思いついたかのように言う。話の流れとして不自然な点はないだろう。ベストタイミングともいえる。
「そうだ。私たち学校に来てから外に出てばかりで図書館とか全然行ってなかったし、バカンスから帰ったら行ってみるのもいいかも」
「オレは葵と外に出て、いろいろ見て回るのも好きだが……そうだな。たまには図書館とかもいいかもしれない」
「よし! じゃあ帰ったら図書館だ。一度しっかり見て回りたかったんだよね〜」
私自身最初の頃に、何度か学校探索で行ったっきり図書館には訪れていない。蔵書数がすごいことは覚えているのだが、いかんせんすべての背表紙を確認して回ったわけではないので、ジャンルごとの冊数を把握しているわけでもない。
図書館に行ったら、本を選び終えた清隆くんが席に座って読書している間に、私は図書館内をふらふら探索することにしよう。図書館は蔵書数が多いだけでなく、展示の仕方や内装にも工夫や趣があった。この機会にじっくり見て回るのも良いと思う。
それでその間に、清隆くんと───椎名さんがファーストコンタクトを果たしているだろう。図書館といえば椎名さんだ。そして椎名さんといえば図書館である。
私が図書館を心ゆくまで探索しなかったのには、彼女の存在が主な理由にあった。
清隆くんより先に彼女と知り合うことに、違和感が……罪悪感があるのだ。これは彼女に限った話ではないのだが。
それに私は、あまりミステリー系は嗜まないから。そんな私とは違って、清隆くんも椎名さんもミステリーを好んでいるし、彼らは本の趣味が似ている。だから、二人は話が合うから、きっとすぐに……仲良くなるだろう。
「………」
「……葵?」
一体私は何を躊躇しているのか。一瞬の動揺を押し殺して、あっけらかんと笑った。
「真夏の海ってなんか憧れるよね。はやく荷物下ろして、海行こうよ!」
§
砂浜に降り立ち、寄せてくる波が足先にギリギリ届かないところまで海に近づく。湿って変色した砂が波に攫われ、サラサラと流れていく。
見上げた空は清々しいくらいの晴天だった。昨日雨だったのが嘘みたいだ。太陽の光が降り注ぐ海は、水平線の向こうまで燦然と輝いて見える。
まるで、いつかの続きを見ているかのようだ。
そんな錯覚に陥ると同時に、明確に違うとわかるのは、いつかとは違って隣には清隆くんがいるから。
「綺麗だねぇ」
「ああ。やっぱり、近くで見ても綺麗だった」
しゃがんで、寄せては返す水面を見つめる。透き通った海水は、見た目はただの水と同じにしか見えないのに、どうしてか惹きつけられるモノがある。
両手を丸めてお椀のような形にして、海水を掬う。おお……冷たい。こんなに日が照っているのに、不思議なものだ。
感動を分かち合おうと、隣で立ったままの清隆くんを見上げた。パチリと目が合う。
清隆くんも私と同じタイミングで私を見たということか。これが以心伝心ってやつだな。
パッと手のひらの海水を払って、隣に立つ清隆くんの手を取る。
「ほら、清隆くんもしゃがんでしゃがんで! せっかく海の近くまで来たのに、触らない、舐めないなんてもったいない」
「いや、なめ……舐めるのか?」
「舐めるよ?」
「オレがさもおかしいこと言ってるみたいな目で見てくるな」
ぐいぐい引っ張れば、清隆くんも隣にしゃがんでくれる。清隆くんはしゃがむことでより近くなった海面を、興味深そうにじっと見下ろしていた。
せっかくここまで来たのに、舐めないのはまだしも、触らないのは勿体なさすぎるだろう。まだ掴んだままだった清隆くんの手を再度引っ張り、一緒に手だけを海に突っ込んだ。
「冷たくて気持ちいいよ」
手の隙間から海水が入り込み、伝わる体温が遠くなる。
波が寄せるたびに体温は薄れ、また波が返すたびに体温が戻ってくる。忙しなくて、それがなんだか面白い感覚だ。
もう少しこの感覚を楽しみたい気持ちはあったが、しかしせっかくだから清隆くんに心ゆくまで海水を楽しんでもらいたい気持ちも本当で、名残惜しくも清隆くんの手を離そうとする。手を繋いだままの方が面白いなと思うのは私の意見だ。清隆くんまで私の面白さに付き合わせるのは申し訳ない。
離そうとした手は、しかし改めて清隆くんから握り直された。いつもの繋ぎ方だ。こうなると私から手を離す理由はなくなったので、大人しくされたままになる。
果てが見えない海の向こうを見つめる。光の反射でずっと遠くまでキラキラと輝いて見えて、目が眩む。
心の底からの感嘆の言葉を、もう一度口にした。
「本当に、綺麗だ」
「ああ。綺麗だな」
海風が髪を攫っていく。うっすら汗が滲んだ項に風が触れて、涼しくて心地いい。
綺麗な景色というものは、ずっと見ていても飽きない不思議な魅力があると思う。海はまた特別だ。
視線を近くの海面に移し、次に念のため持ってきていたタオルに移し、最後に自身の体を見下ろす。正確に言うと見ているのは足だが。
「……足だけ入ろうかなぁ」
「いいんじゃないか。そのためにタオルを持ってきたんだ」
「清隆くんの分もしっかり持ってきたよ!」
「オレも葵の分持ってきた」
タオルの量は十分だ。いそいそと長ズボンの裾を捲り上げて、履いていた靴下とシューズを脱ぐ。
隣を見れば清隆くんも準備を終えており、私を待ってくれていた。
「行こう!」
「ああ、行こう。……いや、ちょっと待ってくれ」
清隆くんの手を引いて海に入ろうとして、繋いだ手をぐっと引き留められたことによりその場で止まる。どうしたんだろうと振り向けば、清隆くんはちょうどズボンのポケットから携帯を取り出しているところだった。
急に携帯なんか取り出してどうしたのか。さらに首を傾げる私に、電源を入れながら清隆くんが答える。
「佐倉の言葉を聞いて、オレもいいなと思ったんだ」
「? 佐倉さん?」
「ああ。写真なら、思い出が形に残るだろ……うわっ」
携帯の電源が入った途端、清隆くんが悲鳴を上げた。なんだなんだ。急にどうした。
清隆くんの手のひらにある携帯の画面を覗き込めば、すぐに納得した。納得しつつも、無意識に口からドン引きした声が出てしまう。
「う、うわぁ……」
「怖すぎる……」
物凄い勢いで画面が着信履歴で埋まっていく。表示されている名前はすべて堀北さんだった。携帯の震えが止む気配は一向にない。
二人で震え続ける携帯を見下ろして、顔を合わせる。
「……どうする?」
「とりあえずメールを返して……後で会うことを約束しておく」
言いながら、さっそく清隆くんが堀北さんに送るメール作成に取り掛かっている。一文二文ほどの短い文章を送ると、すぐさま返信があった。
堀北さんから返ってきたメールにサッと目を通し、清隆くんはそれ以上気にかける様子はなくカメラのアプリを起動する。
携帯を両手で構え、私にカメラのレンズを向けてくる清隆くんに、反射でピースサインを向けた。清隆くんの携帯からカシャッとどこか間の抜けた音が鳴る。
撮ったばかりの写真を見下ろし、清隆くんは満足そうにしていた。画面を見つめて頰を緩めている彼に、少し反応が大袈裟なように思えて苦笑を浮かべてしまう。
思わずポーズを取ってしまったが、私が写った写真を撮ったところで何の意味もないだろうに……まあ背景がこんなに雄大で清々しい海だから、私一人紛れていても誤差みたいなものか。
用事が済んだ携帯をポケットに仕舞うと、清隆くんが再び私の手を取って悠々と海の中を進み始める。歩くたびに海面には私たちが起こす波が僅かに立って、それが海本来が起こす波に瞬く間に掻き消されていく。
海から、自然からしたら、私たちが起こす行動など些細なものなのだ。自然が本気で猛威を振るうとき、私たちに抵抗する術がないように。
手を引かれるまま後ろをついて歩きながら、そんな詮無きことを考える。
水着に着替えた生徒たちが思い思いに遊んでいる海辺からどんどんと離れていき、喧騒が遠ざかっていく。
波の音がさらに喧騒を掻き消すから、いよいよ本当に清隆くんと私しか此処にいないような錯覚に陥りそうになる。
視線を落とした。それから、ゆっくり口を開く。
「堀北さん、怒ってたね」
「まあ……なんとかなるだろ」
「私いる?」
「堀北の怒りはオレがすべて受け止める」
「なんかすごくカッコいい感じに言ってくれてる」
清隆くんの言い草に、思わず笑ってしまう。
声には出さず、そうだよね、と呟いた。
「うん。じゃあ、これからも堀北さんのことはよろしく」
「ああ。オレたちのために、立派なDクラスのリーダーになってもらう」
なんともまあ頼もしいセリフだ。堀北さんからしたら許可も得ず勝手に仕立て上げられているわけで、堪ったもんじゃないだろうが。
だが、彼女が清隆くんの意図を理解した上で自らもリーダーになるべく行動するならば別だ。
「そうだね。堀北さんなら……清隆くんは、大丈夫だ」
後ろをついて歩いているから、清隆くんの背中がよく見える。本当に、いつのまにこんなにも差ができたんだろう、と考える。
小さい頃は私と背丈が変わらなかった。体の厚みだって同様だ。鍛えれば鍛えるだけ清隆くんに追いつくことができた。なんなら、途中で清隆くんの身長を抜かしてだっていたのだ。あの時の妙に勝ち誇った感覚は未だ鮮明に覚えている。
まあ、今は完全に逆転しているわけだが……仕方ないことだ。男女の身体の構造上、女の私はどうしても不利にある。
もし私が男だったならば。
今まで散々考えてきたIFが、性懲りも無くまた頭を過ぎった。
不毛だと理解していてなお考えてしまうのは、私にとってはそれが唯一『私の願い』を裏切らないと思っているからだ。
───だが、こうやって逃げ続けるのももう潮時だ。
「葵、これ。シーグラスってやつじゃないか?」
「ん? おお、本当だ。綺麗な色してる」
突然体を屈めた清隆くんが海に手を突っ込んで、手のひらに載せて私に見せてきたのは、水色のシーグラスだった。元がガラスだったとは思えないくらい、角が取れてすっかり丸くなっている。
薄らぼんやりとした優しい色合いは、眺めていると穏やかな気持ちになれる。
シーグラスは夏休み当初、二人で見た海の図鑑で、海の漂流物の一つとして紹介されていた物だ。
清隆くんは「バカンスなんて銘打っているが、十中八九試験だろう」と冷静に予想し分析して超冷めていたわけだが、そこは強引に私が引っ張り込んで一緒に図鑑を覗き込んだ。図鑑は久しぶりに行った図書館で借りてきた。
目的のものだけ選んで借りて即行出て行ってしまったので、やはり一度じっくりと図書館を探索して回らなければならないと思っている。
清隆くんは手のひらに乗せたシーグラスをじっと、海面に映る太陽の反射だけじゃない輝きを瞳に宿して見つめていた。図鑑に載っていた物をいざ実際に目の当たりにして、感動したんだろう。私だってそうだ。見つけた本人なら尚のことと言える。
彼の初々しいとも言える反応に、つい微笑ましくなって自然と口元に笑みが浮かんだ。シーグラスを見つめている清隆くんを、私はじっと見つめている。
清隆くんにはこうやってずっと、穏やかで在ってほしいと思う。曇った顔を、感情を殺した顔をしてほしくない。
過程は関係ないのだ。過程なんか関係なく、最初から最後まで───清隆くんには幸せであってほしいと思う。
区切りがついた。
「本当に……綺麗だ」
目を細める。彼の茶髪は太陽の光を反射し輝いて、黄金の光輪ができていた。私の視線に気づいて顔を上げれば、ゆうるりと瞳を緩めていく。
私は、それを見ている。
───入学当初に抱いていた二つの祈りは、私の望みは、今はもうぐちゃぐちゃに入り乱れて癒着してしまっている。
幾分か形を変えながら生き残ったそれは、我ながら引くほど傲慢だ。私が思っているよりも遥かに、エゴに塗れている。
だが、そうだ。それが私だ。私の本質は昔から変わっていない。
私は、ずっと一貫している。
「葵。あっちに行こう。オレたち以外誰もいないから」
「………う〜〜ん……うん」
……いや。清隆くんの言い回しに妙な胸騒ぎがするなんて今さらの話だった。
苦笑を浮かべて、手を引かれながら前に進む。
どの記憶とも重ならない大きな背中を、眩しさに目を細めながら見ていた。
変わるものと変わらないもの。
スッキリした良い表情をしている二人です。
これにて三章はおしまいです。なんか良い感じに終わったのではないでしょうか。これもうハッピーエンドでよくね?と思わないでもない最後。
というわけでついに色々といろんな意味で吹っ切れた主人公でした。長すぎる前哨戦にここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
それと、今章もたくさんの評価、お気に入り、感想、誤字報告、ここすき等本当にありがとうございました!毎度コメントくださっていた方ありがとうございます、とても励みになりました。