茶柱先生回
物が整然と並んだデスクの上、僅かに湯気の立つマグカップの取手を掴み、中身を軽く口に含む。
舌に広がるブラックコーヒーを味わうと、再びマグカップをコースターの上へと戻した。
その最中も授業で扱う資料を纏めている手は止めておらず、今も手際良く動いている。
茶柱にとっても、教師になってからそう短くない時間が経っている。
最初の頃を思えば随分慣れた作業だった。
今は生徒にとって夏休み期間となるわけだが、教師に夏休みなるものは存在しない。
夏季休暇と称して5日間の連続した休みがあるにはあるが、基本的に教師は公僕であり、生徒が休みでも当然出勤する。
なんなら高度育成高等学校、略して高育には普通の学校には存在しない特別試験なるものが存在する。
その分準備やら手回しやらと、普通の学校よりも作業量が増えるのは致し方ないことだった。
そもそも高育とは、生徒たちは特別試験にばかり注目するが、そこに勤める教師が普段行う授業のレベルは決して低くない。
むしろ国内最高峰の授業を受けられるとして宣伝文句にもなっているくらいには、レベルの高い授業が約束されている。
つまりそれは教師にも相応の学力・良質な授業が求められるということだ。
茶柱自身国内でも名の知れた大学に通い、勉学に励んできた。
心の奥底に巣食う未練がかつて通った母校を選ばせたとはいえ、本職である役目をゆめゆめ忘れることはない。
今はちょうど夏の無人島特別試験が終わったところで、その後処理で近日まで慌ただしくしていた。
ようやく後処理が落ち着いてきたから、こうして机の上で積み重なった資料を片付けるまでできるようになったわけだ。
机の上の資料を後から見てもわかりやすく分類し、几帳面にまとめる。
極めて単純な反復行為だが、雑にすれば後で面倒なことになるのもわかりきっている重要な作業だ。
一定の速度で判別しながら分けている先で、ちょうど手に取ったのは付箋を貼った一枚の資料だった。
題名は『部活動功績者一覧』。
過去に付箋を貼った記憶を呼び起こしながら、付箋の横にある名前を確認する。
「水元か……」
どうやら彼女が所属する弓道部の大会で、個人で7位を取ったとのこと。
高順位ではないため僅かだが、クラスポイントと彼女自身にもプライベートポイントが与えられる運びになっている。
スケジュールの関係もあるが他にも数多の部活で大会があり、その関係もあってまだ実際にポイント自体は反映されていない。
が、夏休みが終わるまでにはクラスにも彼女自身にもポイントが入るようになるだろう。
高育で強い部活動といえば、文化系が多いという特徴がある。特にボードゲームや、一風変わったものでいえば放送部もよく注目されている。
運動系の部活は所謂強豪と呼ばれる、その部活に特化した高校が上位を占拠しやすいため、高育のようなどちらかといえば勉強が優先な高校ではなかなか功績を上げる者は少ない。
これは茶柱も巷で伺った話だが、弓道は一般的に高校から始める者が多いと聞く。そう考えると、他の運動系の部活よりも弓道は比較的功績を上げやすいのかもしれない。
なんにせよ水元は良い選択をしたなと、改めて資料を閲覧しながら茶柱は口角を上げた。
この調子で、勉強面では期待しないものの、部活で功績を上げてクラスに貢献してくれるならば文句はない。
気分よくマグカップを掴み、残るコーヒーを口に含む。
「そういえば……あのカップルってどうなったの?ほら、あれ」
コーヒーを味わっている傍ら、三年生を担当に受け持つ教員が、同じ学年を受け持つ教員同士で雑談に興じている。
茶柱は自身、ましてや生徒の恋愛のあれこれとなるとさらに無関係だろうと判断し、資料を片付ける手を緩めない。
「あの……不純異性交遊が過ぎて、逆に純粋異性交友カップル」
「あ〜……確かに。すっかり噂聞かなくなったね」
「………」
中身を吹き出すまではいかないが、妙に反応してしまった。
茶柱の脳内で今、なんとなく該当の人物が……思い浮かぶような。
あと横からの視線も気になる。
「…………何か? 星之宮先生」
「べっつに〜?」
牽制も込めて睨みを利かせたが、効果があったのかは甚だ疑問である。
無人島特別試験以降、妙に大人しくなっていた星之宮だが、こういう男女の色恋絡みの話には相変わらず目敏い。
彼女自身性に奔放なくせ、周囲のそれにも関心を寄せるからある意味一本芯の通った精神性には尊敬の念が……やっぱり無い。
茶柱は心を閉ざした。
「サエちゃんトコのカップルはやることやってるのに、相変わらず妙に影薄いわよね〜」
「おい、学校なんだからその呼び方はよせ」
「別にいいじゃない。一年担当は今私とサエちゃんしか此処にいないんだから、誰も私たちの話なんて聞いてないわよ。それにサエちゃんだって敬語崩れてるわよ?」
「………」
相変わらず星之宮と話していると呼び方もそうだし、調子が狂う。
茶柱は深いため息を吐いた。
それを雑談の了承と取ったのか、星之宮は一気に距離を詰めてくる。なんなら茶柱の耳元に唇を寄せ、コソコソ話しかけてくる。
耳元にかかる温い吐息に変な反応をしそうになるのを、鉄の精神で耐えた。
「そ・れ・よ・り・も、綾小路くんと水元さんよ! 私も気になってるのよね〜。サエちゃん的には実際どうなの? あの二人って付き合ってるんでしょ??」
「………付き合ってないだろう、どう見ても」
「!?! いやいやいやッどぉ〜〜見ても付き合ってるでしょ〜〜!?! サエちゃんちょっと感覚マヒしてるんじゃないの!?」
小声ながら鼓膜を突き破る勢いで捲し立てられ、茶柱の顔が歪む。
というか、もはや胸倉を掴まれて揺さぶられていた。
「あの距離感で付き合ってないとか普通あり得ないわよ!? サエちゃん毎日見てるからおかしくなってるのよ! だんだんみんなも感覚鈍って平然とスルーするようになっちゃったし、なんか私だけ超敏感みたいになってるじゃない!? というか私も、ちょっと……たま〜〜にスルーしそうになっちゃってるけど……!!!」
そんな悔しそうに言われても困る。
茶柱はちょっと遠い目をしながら、胸倉を掴んでいる星之宮の手をとりあえず雑に払った。
振り回されたせいではだけた胸元を整えつつ、一度咳払いする。そのまま作業に戻ろうとすれば、まるで通せんぼをするみたいに目の前に星之宮の腕が伸びてくる。
睨んでみても、腕が引っ込む様子はない。
星之宮の目が燃えている。どこからそんな情熱が溢れ出しているというのか。
「白黒ハッキリつけないと、私の中でどうもスッキリしないのよ……! 絶対最後までいってるわよ! 絶対絶対××××××××してるわよ! 私の目に狂いはないわ!!!」
「人の生徒で下品な妄想をするな!」
さすがに声が出た。あまりの擬音の下品さに茶柱の顔が熱くなる。耳が反射的に聞き取りを拒絶するようなひどい擬音だった。
大声を出した直後にハッと口を抑えて周囲を窺うが、別段こちらに注目されている様子はない。あちらはあちらで話題が移ったようで、話が盛り上がっているらしい。
ホッと胸を撫で下ろして安堵する茶柱に構わず、星之宮はいまだメラメラと瞳の中で炎を燃やしていた。
「絶対にいつか解き明かしてみせるわ……! たとえ蛇の尾をつつくことになろうと……私は諦めないわよ……!」
「色々混じってるぞ。それを言うなら藪蛇と虎の尾だろう」
「そんなのどうだっていいわよ!!」
耳を押さえて顔を遠ざけながら、迷惑極まりない星之宮を睥睨する。特大のため息を吐きたいが、その労力も割きたくない。
手っ取り早く、このなんだか妙に耳の痛い話題から話を逸らそうと周囲を探る。
そこで苦肉の策だったが、同じように資料が積まれている星之宮の棚を指摘する。
「それよりチエ、棚は整理しなくていいのか?」
「ハァ!? 今はそんなのしてる場合じゃないでしょ!」
「いや、してる場合だろ……」
茶柱は『こいつ本当に大丈夫か……』という目になった。
少なくとも今は就業中なのだし、建設的な行動をするべきではないだろうか。恋愛モンスターはこれだから困る。
星之宮が執念深く茶柱の反応を観察してくる。
その様子からまだまだこの話題を続ける気概があることが容易に察することができ、うんざりした感情を隠せない。
「ほんとに、ほんッとうにあの二人付き合ってないワケ? サエちゃん、隠してると碌なことにならないわよ? さっさと吐きなさいよホラ誰にも言わないから」
「絶対言いふらすだろうが……魂胆が丸見えすぎるぞ」
「だってェ〜〜〜!」
「だってじゃない。いいから、もう仕事に戻れ」
延々と続きそうな会話に辟易し、茶柱は机の整理もそこそこについに椅子から立ち上がった。
簡易的なバインダーだけ手に取ると、星之宮に背を向ける。
後ろから素っ頓狂な星之宮の声がかかる。
「サエちゃん? どこ行くの?」
「校内点検だ。星之宮もさっさと仕事に戻れ」
呼び方を戻す。
それだけで茶柱がこれ以上雑談に付き合う気がないことは十分伝わる。
背後から名残惜しげな「はぁ〜い」という間延びした声を拾って、振り向かずに職員室を後にする。
姦しい星之宮から離れると、周囲の音がよく聞こえるようになる。改めて息を吐いたのは仕方ないことと言えよう。
清掃の行き届いた廊下を歩いていれば、窓の外からキンと甲高い音をした。音につられて自然と視線をやる。
どうやら音の発生源は野球部で、先ほどの音は金属バットがボールを捉えたものだとわかった。
夏休み中にも関わらず部活動に精を出している生徒をなんとはなしに眺めていれば、先ほど良い音を鳴り響かせた生徒に駆け寄る小柄な人影がある。髪はポニーテール。間違いなく女子生徒だろう。
それから彼女が腕に抱えているのは、おそらくスポーツ飲料……だとすると状況から推測するに、あの女子生徒は野球部のマネージャーか。
女子生徒が差し出したスポーツ飲料を、服の裾で顔の汗を拭っていた青年が受け取る。遠目からでも照れたようにはにかんでいるのがわかる。
その正面に立つマネージャーらしき彼女も、ここから顔こそ見えないが、揺れるポニーテールから彼女の心情が容易に窺えるようだ。
それはあまりに眩しい───『青春』と称される光景なのだろう。
「………」
───願わくば、と祈る己のなんて恥知らずなことか。
窓枠についた手にほんのり力がこもっていることに気づいて、それから顔を振るように眼下の光景から視線を逸らした。
顔を上げた先、廊下の向こうに潜む暗闇がジッと茶柱を覗いているような心地に陥る。
野望を抱いて『彼』を私欲のまま強制的に動かしながら、まさに都合のいいことと自覚しながら、秘した心の奥底でこそ願うのは止められなかった。
茶柱の中で巣食う過去の亡霊が、後悔が、かつて手にして失った『青春』を目にするたびに未練がましく蘇るのだ。
傲慢なことに『私たち』と『彼ら』を重ねて。
どうか。
ならばせめて、『あの子たち』は───と。
………緩く頭を振る。きっと真面目に自身の作業へ戻っているだろう星之宮に倣って、茶柱も仕事に戻るため再び廊下を進み始める。
歩くたびにヒールがカツ、カツと冷たい音を響かせる。
迷いを宿して小さく震える指先を、一度強く握り拳を作ることで強制的に掻き消す。
暗闇を睨み据えながら、一歩ずつ前へ進む。
全部今さらなのだ。
此処へ戻ってきた時点で、後戻りなんてとっくにできなくなっているのだから。
大人のエゴって複雑で汚いねという話
番外編
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龍園