「沙耶早く!時間遅れるわよ!」
「ちょ、ちょっと待って!」
ある日、さくらと沙耶は慌ただしく家を出る準備をしていた。
時計の針はそろそろ9時を指し示そうとしていた。今日の二人は両親の紹介で、ある人物に会うことになっていた。
その人物は両親共通の知り合いで、ある特殊な症例を研究している人物らしい。
……あの底抜けな善人である父の知人なら、そうそう危ない人物ではないだろうと思ってさくらは承諾した。それに続く形で沙耶も承諾の言葉を返したのだった。
「予定がある日の前日くらいちょっとは休みなさいよね。どうせ昨日も遅くまで勉強してたんでしょ?」
「え、バレてたの?さくらちゃんが寝たのはちゃんと確認してから物音も極力出さないようにしてたんだけど」
「バレてたっていうか予想よ、予想。沙耶ってば昔っから真面目なのは変わらないんだから。ちょっと根を詰め過ぎなのよ、貴女は」
一端コレという目標を定めたら脇目も降らずにその目標に挑んでいく沙耶の姿を、さくらは一緒に暮らすようになってから何度も目にしていた。その姿は好ましく思うけれど、同時に心配にもなる。
もはや妹とすら思っている最愛の家族の一員なのだから、体には気を使ってほしいものだ。さくらはハッキリと言葉にはしなかったが、そう思っているのは事実だった。
「そうは言ってもね、私あんま頭良くないからさ。さくらちゃんの何倍も頑張らないと追いつけないんだもん」
しかし沙耶はかなり本気でそんな言葉を返すのだった。
確かに助けられた当初の沙耶であったならば、何も知らないと言っても過言ではなかった。
しかし今の沙耶は違う。生来の負けず嫌いさと弛まぬ努力をもって、彼女らが通っている学校で常にトップを張るさくらと唯一競い合えるほどには成長しているのだから。
……沙耶の子の成長には『沙耶があんまりにもすぐに身につけるものだから、つい面白くなってしまった』という理由で、暇を見ては勉強を教えていたさくらの存在も大きくかかわっているのだが。
「……はぁ、ほんとに貴女ってそういうとこダメよね」
「何でため息!?」
さくらは自身の責任は棚上げして、未だに自身が成長していないと思い込んでいる沙耶に対して深々と溜息を吐いたのだった。
あの日……さくらの決断によって沙耶の人生に2度目の転機が訪れた日から、もうすぐ7年が経過しようとしていた。
救われた当初の沙耶は、彼女自身自分の身に何が起こったのか理解できておらず、終始きょとんとした様子で呆けているだけだった。
そして1週間経ったあたりで、どうやら自分が本当に救われたらしいことを認識して大声で泣いた。半日ほどずっと泣いていた。
さくらの両親は沙耶の頭をなでて、よく頑張ったね。と優しい言葉を掛け続けていた。
さくらは自分の判断が間違っていなかったことを実感し、内心でウンウンと頷いていた。
「それで……お父様の知り合いの人ってどのあたりに住んでるんだっけ?」
「んー、教えてもらった住所だとこの辺の筈よ?」
「なんというか、古い病院みたいな建物しかないね?看板も隠れちゃってるし」
さくらと沙耶は二人で父からもらった目的地までのメモ書きを覗き込んでから、ほとんど同じタイミングですぐ前方に見える寂れた病院風の建物を見た。
「……というかその看板がもう既に胡散臭いのよ。なに、あのふざけた名前。」
さくらは疑いを隠そうともせずに、その建物の看板を見る。彼女の視線の先、植え込みの陰に隠れた看板にはこう書かれていた。
『超常能力研究所』
二人は建物の入り口前で10分程度相談しあった後、結局他にそれらしき場所もないので建物内に入ってみることにした。
中に入って最初にあったのは、病院の待合室のような内装の小さめの部屋だった。
「すみませーん!誰かいませんかー!」
さくらは中に入ってすぐに奥に向かって声をかける。呼び鈴のようなものも見当たらなかったので、致し方ない処置である。
沙耶はといえば、部屋の中を物珍しそうに見渡している。しかし敢えてそうしているのか、内装だけ取り繕っているようで、特にコレといって気になるモノは置かれていない。
そうこうしていると、奥の方からのんびりとした足音が聞こえてきた。
「はいはーい、どちらさまでー?」
「……」
「……」
「おや。……これはまた妙なお二人だことで。」
ガラガラと引き戸を引いて姿を現したのは、全体的にくたびれた印象を受ける男性だった。髪は寝癖のためか所々が跳ねていて、顔色もどこか生気に欠けていた。
「さくらちゃん、さくらちゃん」
「あ、うん、そうね。」
先に我に返ったのは沙耶の方だった。沙耶は未だ呆けている様子のさくらを軽く小突いて正気に戻した。
「はじめまして、私たちは」
「はい初めまして、神守さくらちゃん。それからそっちが神守沙耶ちゃん……いや、川崎沙耶ちゃんかな?」
さくらが言い終わるよりも先に男性は言葉を返した。言葉を返してから、そういえば今日だったかぁ……と頬を掻きながら男性は呟く。
「そのご様子だと」
「うん、今日来るのはキミらのお父さんから聞いたよ。……着いておいで、すぐに終わると思うけどそれまで立ち話もなんだ。奥にソファがあるからそこで話をしよう。」
「わかりました。」
「あ、あの~……」
「ん?」
「どうしたの沙耶?」
奥に戻ろうとしていた男性と、何の疑問もなく彼についていこうとしていたさくらに沙耶は聞き難そうに声をかけた。
「まだお名前を聞かせてもらってないので、呼び方が……」
「……。」
沙耶の言葉を聞いてさくらは苦笑する。言われた男性は、そんなことを聞かれると思っていなかったように呆けていた。それからくぐもった笑いを漏らした。
「呼び方かぁ。そうだな……じゃあ、とりあえずクロブチでお願い。」
男性はレンズの端に罅割れが入った黒縁の眼鏡を取り出しながら、相変わらずくたびれた印象を受ける笑顔を浮かべてそう言ったのだった。
……その行動に、さくらはより一層胡散臭い物を見るような視線を自称クロブチに向けていたのだった。
「健康診断?」
「そう。君達のご両親に頼まれてね。……あ、一応言っておくけど服とかは脱がなくていいんで。ホントに辞めてね?ご両親に怒られるからね?」
「脱ぎませんよ、頼まれても」
さくらの問いかけに淀みなく答えながら、唐突に慌てたように不必要な言葉を吐き出すクロブチ。さくらはだんだんとこの男性に対して警戒をしているのがバカバカしく思えてきた。
「というか、お医者様だったんですね」
「まぁね。資格持ってるだけだからそこまで腕は良くないけど」
「……自分で言っちゃうんですね」
クロブチのあんまりな返答に沙耶はなんと返したものか困った様子で苦笑いを浮かべた。医療器具等が見当たらないところを見るに、クロブチの言葉に嘘はないようだった。
「というか、この状態でどうやって診断をするんですか?」
「もう終わったけど」
「はい?」
訝し気にクロブチへ問いかけたさくらに、極自然に彼は返答する。そうして今まで掛けていた黒縁眼鏡を外した彼は、今まで脇に置いて居たカルテにペンを走らせていく。
「そもそも僕が見るのは身体の健康とかじゃなくて、能力の状態なんだよね。」
「能力……って、なるほど道理で。話が早すぎると思いました。」
さくらはクロブチの言葉で合点がいったというようにため息を吐く。今日ここに向かうように言われていただけで、その理由は父から教えてもらっていなかった。
……早い話、このクロブチという男に能力の安定を診てもらって来い。父が言いたかったのはつまりはそういうことだったのだろうとさくらは理解した。
「え、あの表の看板って冗談とかじゃなかったんですか?」
「あはは。面白い話だけど、あまりにもバカバカしい内容だと人って真実でも簡単には信じないものだからね。」
沙耶が驚いたように発した言葉は、紛れもない彼女の本心だった。クロブチはそれに対して茶化すように答えてからペンを置いた。
「僕の異能はこういう診断には便利だからね。」
「私、さくらちゃん意外で初めて会いました。」
クロブチは沙耶の言葉を聞きながら、書き込んだカルテの写しを二人に差し出す。それから彼は大きく伸びをした。動くたびに体のあちこちから小気味良い音が鳴っている。……どれだけ身体が凝り固まっているのかが傍目からもよく分かった。
「さくらちゃんの方は特に問題なく安定してると思うよ。折り合いもついてるみたいだし、このままでも問題はないだろうね」
「……」
さくらは特に何も答えなかった。彼女は異能をあくまで道具として扱っているため、滅多なことでは使わない。異能を完全に制御しているし、そのデメリットもきちんと理解していた。
クロブチは次に沙耶を見た。その視線には先ほどまではなかった色が滲んでいた。
「沙耶ちゃんの方は……すこし精神に負荷が掛かっているね。トラウマか、罪悪感か……プライバシーもあるから深く観なかったから断言はできない」
「……」
クロブチの言葉に沙耶は息を詰まらせた。沙耶が助けられてから7年が経過しているとはいえ、あの時の経験は沙耶の根幹に深く食い込んでいたからだ。
その沙耶の様子に、クロブチは取り繕うように再び話始める。少女の精神的幹部に思ったより深く踏み入ってしまった罪悪感からか、目がこれでもかというほどに泳いでいた。
「あー……けれど、それは一人で抱え込むものじゃないよ?……言いたいことはわかるね?」
「……はい。」
「……。」
沙耶は重々しく返答し、さくらはそれを心配そうに一瞥するだけで特に言葉は掛けなかった。
あれはあくまで沙耶の問題だ。助けを求められたならばまだしも、何でもすぐに助けるのは違うとさくらも理解していた。
「じゃ、じゃあ今日はこれにてお開きということで……」
クロブチはすっかり頼りない雰囲気になってしまっていた。どうにも根は小心者の善人のようだ。
さくらはクロブチの対応からそう判断して、可愛い妹分のトラウマに踏み込んでくれた仕返しは今はしないでおくことにした。
「……よし、じゃあ帰りましょうか。沙耶」
「う、うん。」
立ち上がったさくらは沙耶を待たずにさっさと退室してしまった。それに続くように沙耶もソファから立ち上がって、クロブチに一礼する。
だが退室する前に、沙耶の脚は一度止まってクロブチの方を振り返った。
「あの……1つ良いですか?」
「なにかな?」
まさかこのタイミングで言葉を掛けられると思っていなかったのか、クロブチは意外そうな顔で扉の前に立っている沙耶を見た。
「……私、この力は周りに悪影響が出るかもしれないから使わない方が良いのかもって……」
「ごめんね。たぶんだけど、そのことへの答えは僕からは教えてあげられない。」
過去の出来事からの価値観を沙耶は相談しようとするも、クロブチは先手を打って明確な答えを差し出せないといった。
……その後、少しだけ間をおいてから
「……だけど、その力は紛れもないキミの一部だ。力を嫌う必要はない。……そうだね、僕から言えることがあるとすれば……折り合いをつけて有効に使えるようになれば、その力はキミの助けになる……って、ことくらいかな。」
クロブチは相変わらずくたびれた雰囲気はそのままで、少しだけ頼りになる大人のような言葉を沙耶に送ったのだった。
その日の会話は彼女に新たな気付きを与えることになった。彼女の中で「力を有効に用いれるようになる」ことが、目先の目標になったのだった。
過去を恐れるあまり力を恐れる必要はないのだと、さくらやクロブチを見て沙耶は感じたのだった。
ちなみに……さくらはあまりにも胡散臭いクロブチに対抗するべく、弱みを少しでも握ろうと父を問い詰めた。そうしてさくらは父からクロブチを自称する男の本名と、学生時代の失敗談を入手することに成功したのだった。
異能『解析』
保有者:クロブチ(賽瓦 永良)
概要:
肉眼で見て言葉を交わした相手のことが100%の精度で理解できる。
理解する範囲は自身の匙加減で調整可能。使い過ぎると気絶してしまう。
体調や身体情報など得られる情報は多岐にわたる。
一度に大量の情報を吸収するので使用後最低3日間は頭痛に悩まされる。