【霧中】①
川崎沙耶は自身の根底を掘り返すかのような懐かしい夢から覚めた。
今朝の目覚めは沙耶としても上々だった。おそらくバレットを治療した疲労が完全に抜け切った故だろうが、身体も気分も程よく軽くなっているので昨日と比べれば天と地ほどの差があった。
「ん~……よしっ」
ベッドの上で横になったままで全身を延ばすように身動ぎをした後、沙耶は勢いよく上体を起こして起床した。
時間としても昨日より随分と早いらしく、まだ窓の外が薄暗い。どうやら日が昇り始めて間もない時間のようだった。昨夜に発生していた霧の残りがまだ薄っすらと街を覆っているのが見えた。
「見なくても良いものを見る羽目になる、か……あからさまに何か隠してるよね、これ。」
沙耶は窓の傍に歩み寄りながら、そう言葉を溢した。
それは昨日、雨の降りしきる街の中でバレットに協力を申し出た後に聞かされた話だった。
ハイレンジア家当主であるイリスの紹介で会いに行ったシークという情報屋が、最後にバレットに言ったという忠告の言葉。
『霧の濃い夜はなるべく出歩かない方が良い。見なくても良いものを見る羽目になるかもしれないからな』
どう考えても怪しい。白か黒かでいうならば限りなく黒に近いだろうと、こういった事態に疎い沙耶にすら判るほどに怪しい。
もちろんバレットと情報を共有した時点で沙耶もその点を指摘はした。バレットも概ね沙耶の意見に同意ではあったのだが、それとは別の点を指摘していた。
『確かにあの男は怪しい。……ですが、彼がもし黒であったなら刺客を差し向けて尚生きていた私を前にして何もして来ない訳がない。大なり小なり何らかの反応が無ければおかしいのです。』
バレットは既に一度襲われた身だ。一命を取り留めたとはいえ、それも沙耶の異能による緊急治療が功を奏したが故である。本来ならば彼女はあの時に死んでいたはずなのだ。
シークが黒だった場合、バレットが訪ねてきた時点で何らかの反応があって然るべきだろうと彼女は考えていた。
「……」
沙耶はそこで記憶の整理を終了して、多少乱雑にカーテンを引く。急に思考回路をフル回転させたためか、すっかり眠気は飛んでいた。
時間的には随分とゆとりがあったため、沙耶は前日よりも時間をかけて身嗜みを整える。そして気持ちを切り替える意味も込めて、軽く自らの頬を叩いてから意気揚々と部屋を出たのだった。
「おはようございます、沙耶様」
「え!?あ、おはようございます。ゴルドさん」
部屋を出た沙耶を一番初めに出迎えたのは例によってゴルドだった。沙耶はまさか既に使用人の誰かが待機しているとは思わず、一瞬反応が遅れてしまった
「ヴィアナ様とバレット様は既に別室にて待機しておられます。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
「はい」
ゴルドは先日と同じように自然に案内へと移行した。少し違うのは、彼の右の手首に昨日まではなかった包帯が巻かれていたことくらいだった。
「あの、ゴルドさん。」
「何でしょう?」
「その右手の包帯って何か怪我でもしたんですか?」
「あー……お恥ずかしながら、実は昨日の夕方頃に出先でトラブルに会いまして。」
苦笑しながら答えるゴルドに、沙耶はついさらに踏み込んだことを聞いてしまう。
「それって、ヴィアナちゃんから頼まれたお仕事の関係ですか?」
ゴルドは人好きのする人物でありながら使用人としての仕事も卒なくこなすようで、ヴィアナからも時折オーキスやミハイルと同様に外部での仕事を任されることもあるらしい。
沙耶は出先でのトラブルと聞いて、真っ先に仕事の途中での出来事なのだろうと当たりを付けていた。
「いえ。出先と言っても、今回の件は職務とは一切関係のない出来事です。早い話が私事ですね。」
しかし、返ってきたのは否定の言葉だった。どうやら完全に仕事とは無関係のプライベートな問題のようだ。
「すみません、人のプライバシーな部分にずけずけと……」
「あ、いえいえ。お気になさらずに。いずれにせよ私の不注意が原因であることに変わりはありませんので」
ゴルドは沙耶の謝罪を受け入れて、人懐っこい笑みを浮かべながら小さく頬を掻いた。
「……。」
そうして再び案内を再開するゴルドを見て、沙耶は自分が彼に掛けようとしていた言葉を寸でのところで飲み込んだ。
一昨日イリスに言われてからあれだけ堪えていたというのに、沙耶は『良かったら治しましょうか?』とつい口に出しそうになっていた自分に苦笑した。
習慣というのは一朝一夕では治せないようにできているらしい。沙耶はそう実感しながら、ゴルドの後に続いて屋敷の中を進んでいった。
「ヴィアナ様、沙耶様をお連れしました。」
例によって先行して入室したゴルドに続く形で、沙耶も二人の待つ部屋に入室した。
室内にはヴィアナとバレットの他に、オーキスが脇に控えるようにして壁際に待機していた。
「ありがとうゴルド。」
ヴィアナはゴルドに視線を向けながら礼を言う。沙耶を送り届けたゴルドは、ヴィアナの感謝の言葉を受け取るとすぐさま退室した。沙耶にはわからなかったが、彼らの間でアイコンタクトによる何かしらのやり取りがあったようだった。
「沙耶は彼女の隣へ。話があります。」
「あ……はい。」
沙耶は彼女の様子から普段友達として接しているヴィアナとしてではなく、フェリエット家当主のヴィアナとして話があるのだと感じ取った。
そして沙耶は自らもまた、ゴルドとの会話で緩みつつあった意識を改めて引き締めてヴィアナと対峙することにした。
「バレット=ガットレイ、改めて先程の話を確認させていただきます。一般人である沙耶を調査に巻き込むというのは、本気の話ですのね?」
ヴィアナはまずバレットに対して、小手調べというようにそんな問いを投げかけた。
「先程も申しあげたとおり、本気の話です。それは昨日の段階で、貴女もサヤから聞かされて了承したと聞いています。」
対してバレットは事実のみを端的に答える。沙耶も今のやり取りで一応の趣旨は理解したようだった。
謂わばこの話し合いは沙耶に対する意思確認の意味合いが強く込められたものだった。
沙耶はただでさえ街の重鎮が犠牲になっているうえに、奇妙な点が耐えない今回の事件に首を突っ込もうとしているのだ。
関われば最悪命を落としかねない。その覚悟はあるのかと、そうヴィアナは聞いてくるのだろうと沙耶は予測した。
「次に、沙耶」
しかし、ヴィアナから沙耶への問いかけは……。
「誰かを見殺しにする覚悟は、貴女にありますか?」
沙耶の予測を大きく外れたものだった。
「……え?」
沙耶は質問の意図が解らず困惑した。その沙耶の明らかな動揺をヴィアナはただ見つめるだけで何も声をかけてこない。
「見捨てる……って、どういうこと?」
沙耶は未だに混乱している頭で、何とかその問いを投げ返すことに成功した。
「わかりきったことですわ。バレットの、狩人の活動は確かに長い目で見れば何も知らない一般人を助ける結果になるでしょう。無論、活動を許可する以上は全身全霊でその結果をもたらしてもらわねばなりません。」
沙耶にもそれは理解できていた。理解できていないのは、何故その為に人を見殺しにする必要があるのかということだった。
「良いですか?活動の過程では必ず、手遅れな状態の被害者や加害者を相手取る必要が出てくるのです。」
手遅れ……それはつまり手の施しようがないということだ。しかし沙耶からすれば外傷による命の危機は余程のことがない限り問題ではない。
……その人物が壊れてさえいなければの話だが。
「こういった騒ぎの最中では、ほぼ確実に『傷を治すことが総体のマイナスに繋がる者』も現れるのです。例えば、最初にバレットを襲った襲撃者のようなね。仮に件の襲撃者が傷を負っているのを沙耶が見つけて治療した場合、次にその被害に遭うのは誰だか理解してまして?」
「……。」
「被害者の場合も同様ですわ。その被害者があえて生かした状態で放置されていた場合、それは第三者へのトラップに成り得るのです。」
沙耶もヴィアナの言わんとしていることは理解できた。
軽率な異能による治療行為は逆に事態を悪化させかねないばかりか、沙耶自身の身を危険にさらす結果になりかねないことをヴィアナは警告しているのだった。
「……私が聞きたいのは沙耶、優しい貴女にそんな真似ができるのかという一点に他なりません。」
ヴィアナも昨日の時点で沙耶が真に望むのであればそれを尊重して、阻むことはしないと決めていた。しかし、それとは別のところでやはり異国から遠路遥々やって来たお人好しの友人が心配でもあったのだ。
「ありがとう、ヴィアナちゃん。やっぱりヴィアナちゃんは優しいね。」
「……沙耶、今は」
「でも、大丈夫。昨日、ちゃんと決めたから。私は……私にできる精一杯の手伝いをしたいって」
ヴィアナはこの状況でも自身をちゃん付けで呼ぶ沙耶を窘めようと口を開きかけた。だが、その決意に満ちた表情で続く言葉を飲み込んだ。
「……分かりました。そこまで言うのであれば、私から沙耶に言うことはもうありません。……でも、無茶だけはしないでくださいな。貴女は他人の傷を癒すことに執着するあまり、自分自身には無頓着になることがありますから」
「……うん。」
ヴィアナは慈しみと親愛を感じさせる笑みを浮かべながら、沙耶にそう言葉を掛けたのだった。
「……では、話もついたようですので。私とサヤはこれで失礼します。」
沙耶とヴィアナの会話が終わるまで一切口を挟まなかったバレットは、二人の会話が終了すると即座に席を立った。
そしてそのまま退室準備を始めるバレットに、ヴィアナは沙耶に向けていたのとは全く違った声色で声をかける。
「何を言ってますのバレット。むしろ貴女との要件はこれからですのよ?」
「……どういう意味です?」
「……ヴィアナちゃん?」
ヴィアナと先ほどまで一対一で話をしていた沙耶も、ヴィアナの急激な態度の変化に驚きを隠せなかった。
沙耶自身、1年前に何度も見てきた沙耶の姉とも呼ぶべき人物とヴィアナの大喧嘩。
今、沙耶達の目の前で不敵に微笑んでいるのは……間違いなくその時の少女だった。、
「私、まだ貴女が沙耶を預けるに足る人物だと思ってはおりませんの。」
「……つまり、なんです?ヴィアナ嬢」
尚も席に着かず立ったままで会話に応じるバレットを見上げながら、ヴィアナはより一層不敵な笑みを彼女に向ける。
「貴女、私のオーキスと戦って勝ってみせなさいな。最低でもそれくらいができなければ、我が家の大切な客人であり、私の親友を預けることはできませんわ」
威圧感すら感じさせる当主としての笑顔を湛えたまま、ヴィアナはバレットにそう言ってのけたのだった