バレットとヴィアナが情報交換を開始した頃に、少しだけ時間は遡る。
川崎沙耶はやることもなく、一人自室で外を眺めていた。
閉じられた窓から見える外は一面の濃霧に包まれていて、フェリエット邸の外が全く見えないほど視界が悪い。……白に染まった景色を見て、沙耶は自分の置かれた状況と同じようだと感じた。
情報収集は日々進展しているし、バレットやヴィアナが何の手も打っていないとは思っていない。しかしそれでも……いや、だからこそというべきだろう。沙耶はどこか自分が蚊帳の外に居るように感じていた。
裏ルートや『紫陽の花』の情報を最初に自分たちに齎したのはヴィアナだ。それ以前の情報はバレットが単身で集めていたものだ。
「……二人の手伝いがしたい、力になりたいって伝えられたまでは良かったんだけどなぁ。……これじゃ私、居ても居なくてもあんまり変わんないや」
3日前の襲撃にしてもそうだった。
あの時は沙耶が囮になることで敵の行動を誘導し、居場所を割り出したバレットが敵を捕らえるという作戦だった。
敵を捕らえるあと一歩で逃がしてしまったが、あれは敵が上手かっただけの話だ。問題はそこではない。
『そもそもあの時も私が居なくても、バレットさんは平然と切り抜けたんじゃないだろうか』
……そんな思考が、あの日バレットに屋敷へ運搬されているときから何度も何度も沙耶の脳裏を過っていた。
要するに沙耶は自分がどう行動するべきかが、何をするのが正しいのかが分からなくなってしまった。
その結果、今もこうして一人自室に籠っている。
……その原因の一端に、傷を負った友人を慮ったヴィアナの優しさが関係しているのは皮肉な話だった。
「……?」
沙耶が霧に覆われた外を眺めつつ思考を回している最中、不意に自室の扉が控えめに2度ノックされた。
「いらっしゃいますか、沙耶様」
「あ、はい、居ます。」
沙耶はほとんど反射的に扉越しに掛けられた声へ返答した。その声を聞いて部屋の扉をノックした人物は、沙耶の部屋へと入室した。
「失礼いたします。沙耶様の警護を命じられました。」
「ゴルドさん、警護だなんて大袈裟じゃないですか?一人で外に出かける訳でもないんですから」
「……。」
沙耶の軽口のような返答に、ゴルドはなぜか押し黙ってしまった。今までの人懐っこい雰囲気も、まるでどこかに忘れてきたかのように今日は感じられない。
そんなゴルドの様子を見て、沙耶はヴィアナが彼にどのような命令を下したのかある程度察したのだった。
「……誠に申し訳ございません。どうやら察していらっしゃるようですので正直に申し上げますが、沙耶様が勝手に抜け出さないよう話し相手になってあげなさい、との命を受けております。どうかご容赦ください。」
「謝らないでください。ゴルドさんが気にすることじゃありませんし、元はといえば私がヴィアナちゃんにきちんと説明してなかったのがいけないので。」
ハッキリ言ってしまえば、あの程度の傷を沙耶は最早傷とすら思っていなかった。
他の誰かが負えば致命的なダメージだったとしても、沙耶からすれば押並べて『直ぐに治る掠り傷』程度のダメージでしかない。肉体的な傷よりも心理的な傷の方が沙耶にとっては圧倒的に厄介なものだった。
そんな簡単な事実は沙耶も幼い日からずっと知っていたし、そんなものだと理解していた。
……一度そのことでさくらと大喧嘩をしたこともあるのだけれど、今は関係のない話だ。
そんな簡単な事実の話よりも、沙耶にとってはヴィアナが自分を特別扱いせずにちゃんと心配してくれる事実の方が何倍も大切だった。
「流石に我々も血塗れの沙耶様を、バレット様が抱えて帰還したと聞いたときは肝を冷やしました。……一介の使用人である私共でもそうなのです。どうかヴィアナ様のお気持ちも理解してください。」
「……あはは、ズルい言い方ですね。」
沙耶は先日までのゴルドのイメージとは微妙に噛み合わない言い方に苦笑を返す。
「けど、わかりました。私も友達が悲しむのなんて見たくないですから」
それから少々照れ臭いのを誤魔化す為に、再び窓の外に身体を向けてからそんな言葉をゴルドに返したのだった。
「そういえば、右手首の怪我はもう大丈夫なんですか?」
「え?」
あれから少しして、ゴルドの用意した紅茶を飲みながら延々と取り留めのない会話を楽しんでいた二人だったが、不意に沙耶が思い出したようにそんなことを問いかけた。
問われたゴルドも、まさかそんな質問が飛んでくるとは思っていなかったようで間の抜けた返事を返していた。
「たしか3日くらい前に右手首に包帯巻いてましたよね?もう大丈夫なのかなって、思い出したらちょっと気になっちゃいまして」
「あー、あはは」
困ったように笑うゴルドは、人差し指で頬を掻くような仕草をする。
「私の不注意での怪我でしたので、そこまで気にしていただく必要はないんですよ?……ただ、そうですね。比較的軽い怪我でしたから、直ぐに完治しました。お気遣いいただきありがとうございます。」
「なら良かったです。」
沙耶はゴルドの返答を聞いて安心したように微笑んだ。
ゴルドはそんな沙耶の様子を見て、慎重に言葉を選んでから逆に質問を返したのだった。
「……沙耶様の方こそ、撃たれた右肩はもう大丈夫なのですか?」
「……。」
「……。」
奇妙な沈黙だった。……いや、単純な会話の流れでいうのならば何もおかしいことはない。ただし、その発言がおかしかった。
沙耶は驚いたような表情でジッとゴルドを見つめていた。ゴルドもまた、沙耶からの視線を真っ向から受け止めていた。
「沙耶様、貴女は何のために狩人に協力しているのですか?ヴィアナ様とは以前からの友人関係だと聞き及んでおります。あの方のために協力をするというのなら、私もまだ理解できました。……ただ、会って間もない狩人のために貴方が身を削る必要があるとはとても思えません。」
「……。」
沙耶は乱れた思考をまとめるのに必死で、ゴルドの問いかけに応えられなかった。
ヴィアナだけに留まらず、バレットへの協力を申し出たきっかけは分かり切っていた。イリスに言われた言葉がどうしようもなく引っ掛かってしまったからだ。
助けたのは偶然だった。傷を負った彼女を見たからだ。
では、何のために現在進行形で何の利も無い相手に協力するのか?
「正直、あの時も……先に路地から出てくるのは沙耶様ではなく狩人だと思っていました。だからこそ、私は引き金を引いたのですから。」
……その言葉を聞いて、沙耶はようやく腑に落ちた。そして目の前にいる人物が、どういう背景を持っているのかを理解した。
今自分の目の前にいる彼は、ゴルドは『紫陽の花』のメンバーだ。
沙耶は自分の脳裏で像を結んだその解答が、正解だという確信をもってソレを掴み取った。
……さて、では自分はどうやって何を答えるべきだろうか。
沙耶は数秒目を閉じて、しっかりと自分の考えをまとめた後に再びゴルドの目を見つめた。
「私は……数年前までずっと誰かのためにこの力を活かさなくちゃって、助けられる人がいるなら必ず助けなくちゃって考えてました。」
沙耶の癒しの力は強力だ。致命傷だろうともまだ対象が生きているならば、問答無用で完治させられるほどの異常なまでの力だった。狩人として多くの異能を見てきただろうバレットですらも、恐らくは沙耶と同等の癒しの力を持つ者は見たことが無かったはずだ。
「けど……この数年でヴィアナちゃんに出会ったり、さくらちゃんと喧嘩したり、先生に教えてもらったり……初対面の人に的確に忠告されたり。そんなことがいろいろあって、この数日で思ったんです。」
沙耶は懐かしむように自分の掌を見つめる。数々の傷を治してきた自身の力に思いを馳せる。
嫌なことなんて山ほどあった、良いこともそれなりにはあった。だいたい全部この力のせいだったけれど、これだって自分の立派な一部なのだと沙耶は思っていた。
「自分の力を誰のためにどう使うのか、何のために行動するのか……きちんと自分で決める。結局それが一番大事なことだと思います。」
「……それで沙耶様は、何をしたいのですか?」
「イリスちゃんに言われたんです。『助けた命に責任も持てないような人間が、軽率に人の命を救うべきじゃない』って、きっとそれは正しいんだと思います。……だけど、やっぱり私は、自分の手の届く範囲の人は助けたいんです。ヴィアナちゃんやバレットさんがずっと危険と隣り合わせになるって言うなら、せめて今回の件が終わるまでは私が二人を助けたい。」
ゴルドは驚いたように沙耶を見つめた。
どうしたって自分では彼女の気持ちは理解できないのだろうと感じ、それと同時にあまりにも優しすぎる彼女の在り方に何も言葉を返せなくなった。
「それと……これは受け売りなんですけど、泣いてる人がいるなら助けてあげるのが当たり前ですからね」
「……」
だというのに……そんな軽口のようなことを急に言い出すものだから、ゴルドは一気に毒気を抜かれてしまった。
全く、これではこの数日間散々悩んでいた自分がバカみたいだ。……あぁ、それでもやはり、打ち明けるならば彼女以外にはいないのだろう。
心の底からゴルドはそう思った。だから彼女にここで伝えることに決めたのだった。
「沙耶様、一つ……お伝えしておきたいことがあります。」
「……?」
沙耶はゴルドの雰囲気がいつもの人懐っこいものに戻ったことを感じた。
「お伝えしたいことは他でもありません。……貴女方が知りたがっていた『紫陽の花』の長についての情報です」
「!?……け、けどそれを私に伝えたらゴルドさんは大丈夫なんですか?」
ゴルドはこの期に及んで、自身の利よりも他人の心配をする沙耶に苦笑した。……思えば、彼女がこの街に来た最初の日に、こうなることは決まっていたのかもしれない。
そんな柄にもないロマンチストな思考をゴルドは一蹴し、ただ事実のみを伝えることにした。
「問題ありません。私は既に『紫陽の花』よりもフェリエットの……いえ、ヴィアナ様の力になることを選びましたから。」
「……。あはは、みんなやっぱり凄いなぁ……」
沙耶は改めて友人と、その周囲の人間の凄さを肌で感じた。
……そして沙耶はゴルドから聞かされる。自分たちが協力を求めた『紫陽の花』の長が誰なのか。その意外な名前を。
「……。」
ゴルドが部屋から去った後、沙耶はしばらく室内で一人放心していた。ゴルドの様子からして嘘は言われていないのは分かる。けれど……どこか今までの情報と噛み合わない、そんな違和感があった。
「サヤ、居ますか」
「……バレットさん?」
そんな時、扉の向こうから声を掛けられた。ここ数日ですっかり耳に馴染んだ親しみすら覚える声だった。
沙耶はその呼びかけを不思議に思いつつも、何のためらいもなく扉を開けてバレットを室内に迎え入れた。
「話をしに来ました。お互いのことを、わかり合うために。」
「私も、ちょうどバレットさんに聞いて欲しい話がありました。」
「そうですか。……?何かありましたか、サヤ」
沙耶はバレットの問いかけに曖昧に笑って返すに留まった。
そうして二人は話し始める、月明かりと僅かばかりの灯りに照らされた二人きりの室内で。
バレットは語る。己自身の出自を。
沙耶もまたバレットへ伝える。
自身の過去にあった出来事と__『紫陽の花』の長がハイレンジヤ家の使用人である、アルエなのだという情報を得たことを。
@ @ @
同日、深夜ハイレンジア邸にて
「……そう、えぇ……ふふふ。あぁ、愉快だから笑っているだけよ?他意はないわ」
イリスは指で1匹の小さな蝙蝠を弄びながら、そんな独り言をつぶやいていた。
……独り言というには彼女の声色は、まるで本当に自分以外の何者かがその場にいるかのようだ。
「それにしても、ようやく『紫陽の花』に辿り着いてくれたわね。……上手くすれば、私が出るまでもなく引きずり出せるかもしれないわね。……わかってるわ。貴方と私の目的は同じ、精々期待しているわねシーク」
彼女は誰もいない虚空に向かってそう呟いた。それと同時に、今まで彼女の掌の上で大人しくしていた蝙蝠が、僅かに隙間の空いた窓から外界へと羽ばたいていった、
「失礼いたします、お嬢様」
「……あぁ、アルエね。どうかしたのかしら?」
イリスが蝙蝠が飛び去って行った外を眺めていると、アルエが入室した。
その表情はイリスの愉しそうなそれとは違い、深刻な色が濃く滲み出ていた。
「良くない報せです。フェリエットに潜り込ませていた者からの連絡が途絶えました。……恐らくは」
「……ふーん。ヴィアナにしては手荒い真似をするわね……いえ」
イリスはアルエの報告に、詰まらない話を聞くような生返事で返した。
イリスからすればヴィアナがいずれこちらの仕込みに気付くのは予定通りだったけれど、これはどうにもヴィアナとは毛色が違うような気がした。
……そういえば、とイリスは考え直す。
「川崎沙耶とバレット=ガットレイ。彼女たちが今現在拠点を置いて居るのは、ヴィアナのところだったわね」
「え?えぇ、そうですが……まさか?」
「ヴィアナがそこまで思い切ったことをするとは思えない。だったら可能性としては、底抜けな善人に絆されてしまった故の不慮の事故といったところかしらね」
イリスは口角を釣り上げて笑う。面白くなってきた。ここまでも面白かったけれど、どうやら彼女を利用するのは予定外の効果があるらしい。
気に入らない偽善者ではあるけれど、悪道だけでは導けない解答が存在するのもまた事実だ。
「引き続き、狩人と外来者に手を回しておきますか?」
「いえ、捨ておきなさい。……その方が都合が良さそうだものね。」
アルエはイリスの下した決定に、腑に落ちないような表情で再び問いを投げかける。
「よろしいのですか?それではお嬢様……いえ、ボスの思惑と差異が生じかねないと愚考しますが。」
「過程は問題じゃない、最終的に成すべきことを成せれば私達はそれで良い。……それから、私をボスと呼ぶのは間違っているわよアルエ」
「……」
「だって『紫陽の花』は、何年も前に私が貴女にあげたじゃない」
イリスは悪戯っぽく肩を揺らして笑いながら、アルエの問いかけに応える。……それは、紫陽の花に属する者であっても誰も知らない。アルエしか知り得ぬ事情だった。
イリスはこれで話は終わりだというように、アルエから視線を外して再び窓の外を眺めながら呟く。
「あぁそれから……数日以内に舞踏会の準備をしておきなさい。いつ来客が来ても問題ないようにね」
「承知いたしました、お嬢様」
一向に晴れぬ霧の中で、表と裏で思惑は交錯し延々と回り続ける。
いつか誰かが、自らの目的を果たすために。
__中章・霧中
これにて物語は折り返しを突破しました(たぶん)
今後ともよろしくお願いします。