一夜明け、この街に暮らす大半の人間にとって代わり映えのしない朝がやってきた。
少女は差し込んでくる陽光によって、もう朝になっていることを認識した。それから昨日の治療行為の影響で、鉛のように重く感じる自分の身体をやっとのことで起こしたのだった。
瞼を何度か軽く擦りながら、眠気を押しのけるように伸びをする。
そうやって徐々に意識を覚醒状態に近付け、完全に目が覚めたところで彼女……川崎沙耶はベッドから出た。
入念に身嗜みを確認して部屋を出た彼女を一番初めに出迎えたのは、昨日単独での散策を希望した際に護衛をしてくれていたゴルドという名前の青年だった。
「おはようございます沙耶様。良い夢は見られましたか?」
「おはようございますゴルドさん。昨日はぐっすり眠っていたので、夢を見る暇もなかったくらいですよ」
「それは何よりです。良い一日は良い睡眠からとも言いますので」
取り留めのない平和な会話を交わしながら、沙耶はゴルドに案内されるままに朝食の準備が整っている部屋へと向かう。極自然な流れで案内が始まっていたため、ゴルドと会話をしていた沙耶も自分がどこかに向かって歩き始めていることに一瞬気が付かなかった。
どうやらゴルドさんも、ただ単に人の好さそうな人物というだけではないらしい。沙耶は改めてフェリエット家の使用人の底知れなさを感じた。
「あ、そういえばヴィアナちゃんはもう起きてるんですか?」
「ヴィアナ様は既に身支度を整えております。あ、ですがどうぞ慌てずにゆっくりと向かいましょう。沙耶様も旅の疲れがあるでしょうし」
そんな風に評価を下しかけた沙耶だったが、この僅かな時間でその評価が揺らいでしまっている。
こうも判りやすく慌てた様子を見せられてしまっては、こちらも気が緩んでしまう。人をリラックスさせる才能でもあるのだろうか?……ひょっとして、こういう所をヴィアナちゃんも買っていたりして?
沙耶はワタワタとするゴルドを見ながら、当たっているか微妙な考えを巡らせていた。
談笑をしつつゴルドの案内でのんびりと朝の廊下を歩いていると、沙耶は不意に昨夜のことを思い出した。それと同時にあの印象的な赤い髪色の女性が脳裏をよぎった。
全力で治療したとはいえかなりの出血量だったな、そう沙耶は昨日の現場を思い返して少し心配になった。
「あの……ところで」
「到着しました、朝食はこちらの部屋ですね。……あ、申し訳ありません。今なんと……?」
「あ、あー……いや、なんでもないです」
ゴルドに脳裏に浮かんだままバレットの様子はどうかと聞こうとした時、タイミングの悪いことに丁度食事が準備されている部屋の前にたどり着いてしまったようだ。
ゴルドに聞き返されるも、沙耶は同じ屋敷に滞在している以上そのうち解ることだろうと考えて、再度の質問を投げかけることなく部屋の中に入った。
「ヴィアナ様、お話し中失礼します。沙耶様をお連れしました。」
沙耶を部屋に案内したゴルドは、ヴィアナの姿を認めると一礼の後にそう声をかけた。
ヴィアナは対面に座っているバレットと何かを真剣に話し合っていたようだったが、その会話を一度中断してゴルドたちの方に向き直った。
「あら、噂をすればですわね。ありがとうゴルド、下がって結構です。朝早くから走り回ってもらってましたし、暫くの間ゆっくりしていてくださいな」
「イエス、マイロード」
ヴィアナからの労いの言葉を受け取ったゴルドはもう一度深く一礼し、静かに退室していった。
その様子を確認したヴィアナは、今度は未だに入り口付近で立ち尽くしている沙耶に声をかけた。
「沙耶もいつまでもそんなところで呆けずに、私たちと一緒に朝食を頂きましょう。」
「あ、うん、すぐ座るね」
「こちらにどうぞ」
「ありがとうございます。……え?」
ヴィアナに促されて一歩を踏み出した沙耶は、何の違和感も感じさせない老執事オーキスの見事としか言いようのないエスコートに導かれるままに席に着いた。
沙耶は入室してから特に余所見をしていたわけではなかったのだが、それでも今の今まで同じ室内の……それもヴィアナのすぐ側にオーキスが控えている事実に気付けていなかったのだった。
「オーキスさん!?いつからいらっしゃったので!?」
「私がこの室内に入室したのはヴィアナ様に続いてですので、沙耶様が入室した際には既に室内にて待機しておりました。」
「そ、そうなんですね~……あはは」
沙耶は既に何度目かになるかもわからない、フェリエット家の使用人への畏怖と畏敬の念を改めて感じたのだった。
そんな風に見るからに狼狽している沙耶を見ていたバレットは、昨夜から思っていた言葉を口にした。
「サヤ、昨夜はありがとうございました。」
「え?……あー、はい。私なんかの稚拙な治療でむしろ悪化したりしてないか心配だったんですけど……あれからお加減いかがですか?ガットレイさん」
沙耶は一瞬、何に対してお礼を言われたのかが理解できていなかった。しかしすぐに昨夜あった出来事を思い出して納得したようだった。
沙耶の言葉は本心だった。いくら傷を癒せる異能を保持しているとはいえ、きっちり傷を治しきれるという確証は彼女自身もっていないからだ。それ故に彼女は、非常事態の時以外は自身の力を進んで用いることはなかったのである。
「いえ、貴女の技量は素晴らしかった。私たちの組織にも治療班はいますが、それでも貴女ほどの治療の力を保有している者がいるかは怪しい。それに、今こうして私が五体満足でここにいるのは貴女の治療があったからこそです。改めて感謝します、サヤ。」
「いや……そんな、えっと……ど、どういたしまして?」
素直な言葉を並べ立ててくるバレットに、沙耶はしきりに恐縮しながら返事をした。
バレットとしても、沙耶に投げかけた言葉はすべて本心だった。
彼女の所属する組織の中にも、治療の力を扱う者はいる。しかし、バレットが負っていたような深手を即座に治療できる者には心当たりがなかった。
それゆえの素直で裏の無い賞賛の言葉だった。
「あぁ、それから」
「はい?」
沙耶が落ち着くのを少し待ってから、バレットは付け加えるように口を開いた。
「私のことは名前で呼んでもらって構いませんので。こちらも名前で呼んでいますから。」
「……。えっとじゃあ、バレット……さんで」
「はい。」
そんなバレットの申し出に、沙耶は恐る恐るといった様子で答えた。
自分の不躾ともとれる申し出に応じ、敬称をつけることを忘れなかった沙耶。その様子を見てバレットは、昨夜感じた彼女に対しての印象に誤りがなかったことを確信した。
そんな風に少しぎこちない雰囲気が沙耶とバレットの間に流れたとき、不意に誰かがほぼ真横で柏手を打った。
オーキスではない。彼は変わらず部屋の隅に控えていた。ならばと二人はその音の方へ顔を向ける。そこには呆れた様子で二人のやり取りを眺めていたヴィアナが居た。
「……いつまでやってますの?」
「ヴィアナちゃん」
「ミス・ヴィアナ」
「あなた方のやり取りが終わるのを待っていたら日が暮れてしまいそうなので、無作法ですが少々強引に割り込ませていただきましたわ。……さ、いい加減朝食をとりましょう。オーキス」
自身の名前を呼んでくる二人を流し、ヴィアナは言いたいことだけを伝えてオーキスに指示を飛ばした。ヴィアナからしてみればこんな対応は不本意だったが、いつまでも会話が終わる気配がなかったので致し方ないことだった。
「かしこまりましたヴィアナ様」
そんな主の心境とは無関係に、オーキスは深く一礼してから一度部屋を出ていったのだった。