ダリアは逃げるように外へ続く廊下を疾走していた。
自らに投与した異能薬の効能によって獣人化した身体を操り、脇目も振らずに駆ける姿は手負いの獣そのものだった。
自身の優位性を全て引き剥がされ、奪う側から奪われる側に突き落とされたダリアには、吸血鬼のような化け物と正面から敵対する選択肢はもはや存在していない。
それ故にダリアは逃げた。全身全霊で状況を投げ出した。
世界は広い。この場から逃げ仰せてしまえば、また都合に合う街や村に紛れ込むだけで済む。
いつも様に変わりなく、姿形を変えて周囲に溶け込んでしまえば良い。
ダリア=グリムランドはこれまでだってそうやって、誰に憚ることもなく慎ましく生きてきたのだから。
口元に似つかわしくない下卑た笑みを滲ませて、彼は外へと繋がる扉に手を掛けた。
その瞬間だった。
【全く、キミはもう少し理知的な存在だと思っていたのだけれど……私の見込み違いだったのかな?】
「……なに?」
ダリアは不意に頭の中に響くような声を聞き、強制的に自意識を内側へ引き摺り込まれた。
【……おや?私の声が聞こえたかな?ふむ、これは喜ばしい変化というべきかな。キミはついに『自己を省みる』という当たり前の境地に至ったと言える。】
「お前は……」
ダリアは無限に等しく引き伸ばされた体感時間の中で、ソレと対峙した。
【久しぶりだね、ダリア。私から奪った知識は存分に役立ったようで何よりだ。】
「全知の魔女……。今更になって亡霊が何の用だ。」
【そう邪険にするなよ。利害の一致があったとはいえ、私をこうしたのはキミだろうに】
魔女は出来の悪い弟子を諭すような口調でダリアへの苦言を溢し、一息置いてから再び口を開いた。
【何の用だという君の問いかけに対しては、挨拶に来たと答えるべきだろうね。】
「挨拶?」
魔女の言い分に、ダリアは警戒心を隠さずに反応を返す。そんなダリアの様子に、魔女はますます楽しげに声色を弾ませる。
【あぁ、キミに呑まれた他の愚人達については知らないが、少なくとも私はキミには感謝しているんだよ。なんせ私はキミを介してあらゆる未知を知ることができたんだから】
魔女の言い分は続く。その言葉に抑えきれない熱が籠っていくのを、ダリアは身をもって感じていた。
【これも一重に君が私の知識だけを優先して奪ってくれたおかげだよ!私はねダリア、死んで初めてキミという器の中で自由に成れたんだ!だからありがとうダリア!今まで楽しかったよ!
君の探究が終わってしまうのは同行者として悲しいことではあるけれど、今まで好き勝手やったんだ。このエンディングも十二分に幸福な末路だろうさ】
延々と続く魔女の戯言を真っ向から受け止めて、僅かに感じ取れた真っ当な感謝の情ごとダリアは知ったことではないと投げ捨てた。
「お前に感謝される謂れはない。俺はただ知らない何かを知りたかっただけだ。そのために殺した。お前や神父様に獣人、取るに足らない有象無象共を殺し続けた。」
そうやって立ち場を変え、知識を増やし、知らない何かを追い求めた。それがダリア=グリムランドという存在の根幹だった。
「そしてそれは、これからも変わらない。お前が消えようと俺は止まる気はない。」
【あぁ、それで良いとも。どうであれ、君の旅路はここで終わりだ。それは獣人の因子の侵食の話だけじゃないよ】
簒奪者は魔女に背を向けて、再び先に進み始める。
なおも歩みを止めない簒奪者に、魔女は最後の言葉を投げかけた。
【さぁ、扉を開きなさい愚かなダリア=グリムランド。君の……いいや、私達の死神がそこにいる。】
その言葉を最後に、魔女の意識は消え去った。
正常に戻った体感時間の中で、手を掛けていた扉を荒々しく開き、ダリアはついに屋敷の外へと踏み出した。
@ @ @
「……。」
屋敷から飛び出したダリアは、前方に視線を固定したまま無意識に低い唸り声を上げていた。
その様相はまさに獣のそれであり、前方から近づいてくる人物に最大限の警戒を向けていた。
「……どうにも、素直に間に合ったとはいえない状況のようですね。」
闇の向こうから現れたのは、赤みを帯びたスーツを着込んだワインレッドの髪色の女性……『狩人』バレット=ガットレイだった。
「察するに、貴方が『異能薬』事件の黒幕と見て問題ありませんね?」
「◾️◾️◾️」
「……。失礼、どうやら既に言葉の通じない手合いのようだ。」
バレットはダリアに向けて端的な問いを投げかけたが、返答代わりに返って来た獣の声を聞いて、すぐさま思考を切り替えた。
油断なく眼前の敵を見据え拳を構えるバレットの姿は、まさに洗練された武器そのものだ。
対して本能のままに自身に蓄積された力を行使するダリアは、獰猛な獣と同じだった。
奇しくも、両者の目的は一致している。
バレットは事件を終息させるために、ダリアは死地から逃げ延びるために、眼前の敵を確実に排除しなければならない。
「◾️◾️◾️!!」
雄叫びをあげながら先に動いたのはダリアの方だった。
ダリアの中の獣人の因子は、今や彼の身体を完全に作り変えてしまっている。
凶器たる爪や牙は当然として、身体の頑強さや瞬発力・膂力に至るまで、既に人間の範疇から逸脱していた。
「っ、ハァッ!」
だというのにバレットは、自身に襲い来る強靭な爪を正確に捉え、渾身の力で殴り付ける様にして迎撃した。
更にバレットは一瞬怯んだダリアに続けて打撃を打ち込んでいく。腹部を殴打し、降りてきた頭を拳で叩き上げ、浮いた身体に蹴りを見舞った。
「◾️◾️◾️!?◾️◾️!!」
獣人は地面を汚しながら跳ねるように転がっていく。
分かり切っていた話ではある。いかに人間離れした強靭な体躯や特異な力を手にしようとも関係がない。
彼がいま相対しているのは、そんな特異な存在の天敵である『狩人』なのだから。
完全な不意打ちでもない限り、訓練を積んだ狩人にただの獣が勝てる道理などない。
「どうやら言葉は発せないまでも、意思の疎通は出来るようですね。……ならば、大人しく降伏することを勧めます。」
狩人は、倒れ伏す獣人を見てそんな言葉を投げかけた。
「◾️◾️!」
言葉を聞いた獣人は少し驚いたような反応を示す。獣人はあらぬ方向に曲がっている腕を強引に直しながら、よろめく様に立ち上がった。
その口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。
この光景をバレットの師であるクロウが見ていたならば、きっと苦笑を溢していただろう。
『やはりこの子は、狩人をやるには優し過ぎる』と、そんなことを考えたに違いない。
立ち上がった獣人は、無理矢理に両手を上げて降伏のポーズをとった。
「……ふむ。」
相手が降伏の意を示しているのなら、これ以上の戦闘は不要。バレットはそう考えて構えを解いた。
「やはり意思の疎通は」
「!」
バレットが降伏した獣人を拘束するべく一歩近づいた瞬間。最初からそのタイミングを狙っていたかのように、獣人はバレットに背を向けて走り出した。
「……なるほど。」
走り出した獣人の背を見ながら溢した小さな呟きと共に、バレットの表情から僅かな柔らかさが消え失せた。
「では、申し訳ないが覚悟してもらいましょうか」
逃げる獣人の背中を、狩人の冷たい視線が射抜いた。
「◾️◾️◾️!!」
獣人は振り返ることなく懸命にその手足を動かして、屋敷の外へ向かって駆ける。
しかし獣人は既にその機敏さを失っていた。身体がいかに強靭であろうと、生き物である以上は限界がある。彼の身体は既に限界だった。
止まれば殺される。追いつかれれば終わる。
残る理性を総動員した決死の逃走。その姿は奇しくも、ダリアがこれまで殺してきた数々の犠牲者達と酷似していた。
「逃がすと、思いますか?」
無情な声が、背後から届く。それだけで全身が恐怖で固まり総毛立つ。
「◾️◾️!!」
獣人が振り返ると、そこに彼女は立っていた。
その手には彼女のコードネームの由来であり、これまでに数々の標的を屠ってきた武器が握られている。
「◾️ッ!!」
獣人は咄嗟に逃げ道を探していた。
屋敷の外周を囲う石塀に、左右には植え込み。正門まではまだ少し距離があり、とてもじゃないが背を向けて逃げ切るのは難しい。
そして正面には、しっかりと銃の照準をこちらに合わせる狩人がいる。
「ここまでだ。」
「◾️◾️……!!」
逃げ場はないと悟った獣人は、唸り声をあげて狩人と再び対峙する。
死にたくないという恐怖と、まだ死ねないという怒りが満身創痍の獣人の背を押し出した。
それは生存本能から来る行動だったのだろう。あのまま逃走を続ければ確実に撃たれて終わっていたのだから。
「――◾️◾️◾️◾️◾️ッ!!」
咆哮と共にダリアは地面を蹴り、バレットとの距離を一気に詰める。
正面突破。それこそがただ目の前の狩人を喰らい殺すために選んだ、ダリアにとっての最適解だった。
「……。」
迫り来るダリアの凶刃を前に、バレットは揺らがない。銃口はダリアの動きを寸分の誤差もなく捉えている。
「おやすみなさい」
「!!」
ひどく簡素な破裂音が、一度夜の闇に響いて消えた。
バレットの小さな祈りと共に射出された弾丸は、吸い込まれるようにダリアの胸を貫いた。
撃ち抜かれたダリアは、バレットの持つ銃を見つめて驚いたように目を見開き、やがて何かに気づいたように口角を吊り上げて声もなく笑った。
「――……。」
鮮血が口と胸から溢れ出し、ダリアの身体が糸が切れたように倒れ込む。
……地面に倒れ伏した身体は、そのまま2度と起き上がることはなかった。
全知の魔女が彼に与えた大量の知識群も、獣人としての異常性を持った肉体も、その全てがダリア=グリムランドの命と共に死滅していく。
「……終わり、ですかね。」
バレットは倒れたダリアに用心深く銃口を向けていたが、やがてゆっくりと銃を下ろした。
先ほどまで獰猛に吠えていた獣人は、もう二度と動かないと悟ったのだ。
バレットは少し間を置いてから小さく息を吐き、役目を終えた銃をしまう。
「……やはり、この感覚は好きにはなれませんね。」
そう呟いたバレットは亡き骸と化した獣人を担ぎ上げて、屋敷の中にむかう。
「……。さて、いきましょう。沙耶達が待っているはずです。」
その足取りは、2人分の重量があるにしては妙に軽かった。それは獣人となったダリアが、化け物でも生物でもなく物と成り果てた故なのか……その答えは誰にもわからない。
ただ一つ言えるのは、長く霧の都を騒がせていた『異能薬』と『貴族連盟』に関する一連の怪事件は、今夜で幕を閉じたということだった。
次回で本編は最終回となる予定です。