咲-Saki- 人と星が交わる時   作:saitou1

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邂逅、三

東四局0本場 四巡目 ドラ:{⑥ 發}(ドラ表示牌:{⑤ 白}) 親番:御影

 

 

淡のドラ槓による跳満確定の二重立直(ダブリー)。もしこれが御影に直撃でもすれば文句なく逆転、ツモであっても親である御影は最低6000もの点棒を削られ、あれだけ開いていた淡との差は僅か2100点にまで縮められてしまうだろう。

確かに恐ろしい異能(オカルト)だ、と御影は思う。半ば人の領域に在らざる天稟天賦の才。今の彼女に勝る素質を持つ者など、全国でも多くて5人、世界的に見ても100人もいれば良い方だろう。今でさえこの有様だ。長ずればいずれ世界をも取りかねない、そんなレベルの化物。しかし、そんな超人を相手取る御影は………何故か、高揚を隠せなかった。

今まで感じた事のない興奮が御影を包む。脳髄が痺れる様に沸騰し、呼吸は乱れ、手先は震え、視界は明滅する。御影のそう長くはない人生の中で、最も危険で甘美な一時。今が終わって欲しくない。無意識下でそう感じてしまう程に、御影は高揚していた。

勝ちたい。御影は心の底からそう思う。勝つという意気込みではなく、勝たねばという義務でもない。ただ勝ちたい。その欲望が、御影の胸に燃えていた。

非才の身である御影では、人知の限りを尽くし、持てる力の全てを出し尽くしたとしてもなお、淡の領域には届き得ないであろう。魚が空を飛べぬ様に、鳥が海を泳げぬ様に、御影が淡と同じ領域に立つ事など出来はしない。

けれども、と御影は思う。例え届かないのだとしても、届きたい。その思いだけは止められないのだ。

 

 

東四局0本場 九巡目 ドラ:{⑥ 發}(ドラ表示牌:{⑤ 白}) 親番:御影

 

 

二重立直(ダブリー)から八巡目にして未だツモれず、無駄に摸打を繰り返す淡の心は、しかし悦びに満ち満ちていた。

何巡経ってもツモれない?いいさ、全く構わない。極限まで溜め込み我慢した先にこそ、真の法悦が待っている。これはその為の準備期間(・・・・)。大星淡という存在が遍く全てを照らす恒星となる、その過程。故に淡は和了りまでの一打一打を味わう様な心持ちで打つ。

早く来い。或いは、永遠に来るな。相反する感情を共に抱きながら、淡は終局を夢に見る。例えこの闘いがどの様な結末を迎えようと、今まで通りという訳にはいかないだろう。その時自分はどうなっているのか………どう成り果てているのか。一秒毎に自分が自分以上の物になっていく感覚に、淡は酔い痴れる。

―――故に、淡は気付かない。己の身が、既に限界を迎えつつある事に。

どれ程大きな甕も水を注ぎ続ければ溢れる様に、物事には自ずと限界が存在する。それは天稟天賦の才を持ち、底知れぬ容量を誇る淡とて同様である。そう、淡の異能(オカルト)は、人の身には余りにも強大過ぎた(・・・・・)。人知では計り知れないその力は、未だに完成していない現状でさえ淡の意識を徐々に削り、一歩ずつ死の淵に追いやっている。のし掛かる重圧は常人にはどうしたって分かり得ない程に重く、身体中に走る痛みは雷に撃たれたとしてもまだ足りない。そんな、常人では一分と耐え切れないであろう苦痛を前に、しかし淡は薄く微笑んだ。

無論、淡とて痛覚は持ち合わせている。痛くないはずがないし、辛くないはずがない。それでも、淡は微笑み続ける。己の命を火にくべて、過去も未来も打ち捨て投げ出し、ただ今だけを希求する。その執念は何よりも硬く―――それでも、淡は確実に終わりへと近づいていた。

 

 

東四局0本場 十九巡目 ドラ:{⑥ 發}(ドラ表示牌:{⑤ 白}) 親番:御影

 

 

嵐の前の静けさとでも言う様に、淡々と牌を切る音だけが響く。向かい合う二人の心は、凪いだ湖の様に静かだった。勝ちたいという欲も、勝つという意地も、今は心を動かさない。互いの心の内にあるものは、ただこの奇妙な邂逅に対する深い感謝だけだった。

そんな静かな場を前に、勝負の行方を見守る観客は皆こう思った。ここで決まる(・・・・・・)、と。南場が丸々残っていようと関係ない。どの様な結末を迎えるにせよ、この闘いは東四局より先に進む事はないだろう、と。そんな観客の予感を他所に、御影はただ牌をツモり、一度手牌を見た。そして確認する様に淡の手牌と山を見て、緩やかに息を吐く。これで条件は整った。勝利を掴むためのか細い道。少なくともそのスタートラインには立てたのだと、そう御影は確信する。

 

「大星淡、と言ったな」

 

静かに呟いたその問いに、淡は笑みで返す。覚えていてくれてありがとう、とでも言う様に。その顔に顰めっ面を返しつつ、御影は言葉を続ける。

 

「私は………お前が、嫌いだ」

 

その言葉に、淡は苦笑を返す。知っている、とでも言う様に。まるで聞き分けのない駄々っ子を相手する様な態度に、御影はフン、と鼻を鳴らす。ああ、やはりこの女は気に入らない、と。

 

「いけすかない、鼻持ちならない、傲岸不遜な自信家。異能(オカルト)の力に溺れるお前は、どこまでも私を不快にさせる存在だ」

 

故に私はお前が嫌いなのだ、と御影は独白する。度し難い誇大妄想狂(メガロマニア)め、救い難い自己愛狂(ナルシスト)め。そんな風に罵る御影の目は、しかし複雑な色を湛えている。まるで自らの内に湧き出た感情を、持て余しているかの様に。だからだろうか、御影は少し黙った後、こう言葉を続けた。

 

「―――けれど私は、お前の名前を終生忘れはしないだろう」

 

万感の想いを込めて、御影はそう告げた。

大星淡は、掛け値なしに強敵だった。運も、異能(オカルト)も、そしてその精神も、常人のそれとは格が違う真性の化物。ああ、正直妬ましい。自分にもそんな力があればと、そう願わずにはいられない。

けれども、と御影は思う。だからこそ御影は淡を倒さなくてはならない。いいや違う、倒したい(・・・・)のだ。

だから、と御影は静かな口調に深い想いを込めて続ける。

 

「さよならだ」

 

淡への憧憬と決別するため、御影はなけなしの力を発揮した。静かだった場を吹き荒らす様に、御影の気迫が大いに高まる。これが御影に出来る最大の反抗。それが例え窮鼠の一噛みであったとしても、やらないという選択肢は御影にはなかった。

 

「―――カン」

 

発声と共に、御影の気が一回り大きくなる。届け、と御影は脳がはち切れそうになる程祈る。この身の非才凡俗は百も承知。けれども今だけでいい。淡に一矢報いたい。御都合主義(デウスエクスマキナ)だろうが何でもいい。勝ちたい、勝ちたいのだ。その想いが、執念が、御影の背を押す。見るがいい、これこそが御影に成し得る全力全開。至高至大の一撃に他ならない!

槓をした牌は――――{二}。そして新ドラは{北}。今の淡に対し、余りにも無謀な槓。けれども、その槓には理由があった。そう、御影がツモったこの{二}こそが、淡の当たり牌に他ならない。相手に当たり牌を送り込む……。それが相手に打たせる為なのか、それとも何らかの制約なのか、それはきっと淡にしか分からない。けれどもはっきりとしている事はただ一つ。この槓によって、淡の待ちが一つ潰れたという事。

しかし、それでも本来槓などする必要はなかった。{三}とくっつくのを待てば両面待ちへと変更出来るし、手に留めておくだけでも十分淡の和了確立を減らせただろう。だからこれは、全力で戦いに臨んだ淡に対する宣戦布告。自分は一歩も引く気はないという、強い意志の主張に他ならない。

そしてそのまま嶺上牌をツモ切って、御影は静かに宣誓する。

 

「立直」

 

もし新ドラが淡にごっそりと乗っていても構うまい。既に退路は断ったのだ。故に後は勝利への道を直走るのみ。さあ、勝負だ大星淡!

 

 

 

東四局0本場 十九巡目 ドラ:{⑥ 發 北}(ドラ表示牌:{⑤ 白 西}) 親番:御影

 

 

素晴らしい。

淡は湧き上がる狂喜に背筋を震わせながら、宿敵(とも)の力を褒め称える。自分が強くなればなる程、彼女もまた強くなる。ああ、それは何と幸福で、ありがたい事なのだろう。本来強者とは孤独なものだ。並び立つ者がないからこその頂点。二つとないからこその唯一。けれども今の淡は、頂きに立ちながらも一人ではなかった。

和了り牌を潰され、立直をかけられ、そして恐らく次巡ツモるのは御影の和了り牌。御影の他に、誰がこの様な事が出来るだろう。まさに絶体絶命。ああ、かつて己がここまで追い込まれた事があっただろうか。

素晴らしい。本当に素晴らしい。

けれども、淡の気概はまだまだ死んではいなかった。かつてない程の窮地?絶命必至な苦境?大いに結構。それをこそ、大星淡は待ち望んでいたのだから。

故に淡は気を昂らせる。勝利への願いを胸に秘め、ただ牌をツモる。痛みも怠さも関係ない。全てを振り捨て掴み取る。刮目せよ、これが魔、これが天、これが大星淡なのだ!

淡の身を焦がす異能(オカルト)が一層激しく燃え上がる。身体中が沸騰していく感覚。目が煮立ち、皮膚が焼け、髪が燃え、爪が剥がれる。無論それはただのイメージ、幻覚幻想の類である。しかし、だからこそその痛みは明瞭な感覚を伴って淡を嬲る。生きながらにして四肢を焼かれる苦痛。脳髄をグチャグチャに掻き回すその焔は、淡の五感をも焼いていく。まずは視覚が消え、淡の視界は闇に覆われる。次いで聴覚が消え、全てが静寂に包まれる。更に嗅覚味覚が消え、最後に触覚が消えて牌の感触もなくなった。残ったのはただ静粛なる無明の闇のみ。けれども淡に恐れはなかった。欲に塗れた色身を離れた淡の意識は、そのまま自らの力の根源へと近付いて行く。意識という大海の奥深くへと潜り込み、その本質を垣間見る。そして、淡は見た。自らの本質を、その真実を、そしてその起源を。

それは、天を覆い尽くさんばかりに大きな光の塊。銀河すら悠々と飲み込む極大の恒星。そう、大星淡とは即ちそれ(・・)だ。方向性の定まっていない、ただただ強大な力の奔流。それこそが大星淡の本質であり、真実であり、起源だった。余りにも強大に過ぎる光を前に、しかし淡は怯える事なくただそっと手を伸ばす。すると、感覚のなくなったはずの淡の身体に力が流れ込んだ。金属が熱で溶けていく様に、その力は大星淡という人格そのものを消しさっていく。常識、良識、知識、その他今まで積み重ねてきた諸々全てが、悉く光へと回帰していく。

―――ここに、大星淡という存在は完結した。

こう(・・)なってしまった以上、淡に敗北はあり得ない。当然の様に和了牌をツモり、当然の様に和了し、当然の様に勝つだろう。それは水が高きから低きへと流れる様に、永久に変わり得ない絶対の法則。今ここに、大星淡という存在は、これから先生きている限りただ勝ち続けていくだけの存在へと変貌を遂げた。それはどんな不純物も混じり得ない、勝つという“現象”そのものである。今の淡は、全ての信念を無に帰さしめる、無謬にして無窮なる恒星。無念無想のまま全てを超越せし者。故に敵対者の末路はただ一つ。絶対的な力で以て、地を這う蟻の如く、惨めに無惨に踏み潰されるのみ。それこそが、この世の唯一絶対の真実である。

 

 

 

ああ――――――――――――――――――――――――――本当に、それでいいのか?

 

 

 

一抹の疑念が淡を貫く。

完成した存在にはあり得ぬ自己疑念。確かに淡は力を求めた。絶対無敵の力を欲し、眼前の宿敵(みかげ)を倒したかった。けれども、それは大星淡という人格あってのものである。

確かに今のまま戦えば、淡はまず間違いなく御影に勝っていただろう。容赦なくツモり、容赦なく和了り、容赦なく箱下にしていただろう。けれども、それは大星淡の勝利ではない。大星淡の力そのもの(・・・・・)の勝利なのだ。

それではまるで意味がない。

力の傀儡となり、何も感じず何も想わず、この闘いを終わらせる。それは何と味気のない、無味乾燥な一時だろう。そこに闘争の喜びなどはなく、ただ事務的な勝利のみが存在している。ああ、それは何と下らない事だろう!絶対に負けぬ闘いなど冗談ではない!勝利とは、勝つか負けるか分からない闘いだからこそ眩く輝くのだ!

そんな想いが、小さな怒りが、完成された“大星淡”という存在に罅を入れる。それは小指の先で引っ掻いた様な、傍目には分からぬ程に小さな傷。しかし、それは同時に致命的な傷でもあった。

完全とは欠けたる所無きが故の完全である。例えほんの一欠といえども傷付いてしまった存在は、既に完全と言うには値しない。故に淡は変質する。意志を持たず、ただ勝つだけの現象から、意志を持ち、勝ちたいと欲する存在へ。

しかし、それは余りにも無謀な試みだった。一度成って(・・・)しまったものは、通常二度とは戻らない。ただその存在が果てるまで、勝つという宿命を背負い続けるのみ。それを己の意志だけで変えたのだ。当然反動がある。そしてその反動は軽い物ではなかった。まず、焼かれた五感の殆どが未だ戻っていない。今現在、淡の目は他家の河すら見えてはいないし、耳は雑音だらけで、牌を握る感触さえ曖昧だ。そして、高まっていた鬼気の殆どが霧散していた。今の淡は異能(オカルト)を得て以来最低最弱と言っていい程の力しか存在しない。例え一度でも大星淡の闘牌を見た者が今の淡を見れば、驚愕の余り腰を抜かす者さえいるだろう。これらがどこまで回復するのか、それは淡にも分からない。もしかすると、二度と戻らないのかもしれない。後遺症が残り、二度と陽の目が拝めないのかもしれない。けれども今、淡に後悔はなかった。ただ、己は為すべき事を為したのだという満足感だけがそこにあった。

 

 

そして当然、その変質を御影は余す事なく察していた。

途中、淡の発する威圧は物理的衝撃さえ伴い荒れ狂わんばかりであった。どの様な超人であろうと、自然災害には抗えない。勝利への意志?馬鹿馬鹿しい。そんなものは圧倒的力の前では何の役にも立ちはしない。天に向かって唾を吐けば、己の顔に返ってくる、そんな事が何故分からない?まるでそう語りかけてくる様に御影には思えた。矮小なる御影に出来る事はもう、ただ嵐が吹き止む事を祈る事のみ。それ程までに、淡の力は常軌を逸していた。それは淡が序盤に見せた気迫でさえ比べ物にならない規模の威風。最早超新星爆発(スーパーノヴァ)というのも生温い、宇宙創世(ビッグバン)と呼ぶに相応しい威厳であった。それを眼前にまじまじと見せ つけられる事により、御影は嫌でも存在としての“格”の違いを悟らされる。これが魔。これが天。これこそが、大星淡。勝つとか負けるとか、最早そういう域には存在しない文字通りの規格外。故にこれから起こる結末は定まっている。御影の抵抗は難なくいなされ、淡は個として完成された存在へと変貌し、勝利を宿命づけられた最も新しき絶対となる。そしてこれからの生涯、淡という化物は勝利の二文字を背負い続ける事になる………、筈だった(・・・・)

けれども目を開けた後、御影の視界に広がっていたものは、息を荒げて汗を止めどなく流す、ただのか弱い一人の少女の姿だけだった。

あれ程猛っていた鬼気は既に夢幻の如く虚空へと消え去り、まるで出来の悪い白昼夢でも見ていたかの様。御影には目の前に広がるその情景が理解出来なかった。何故淡が完成しなかったのか?何か条件が足りなかったのか?それとも、己が気づいていないだけで、淡は既に完成しているのか?自らの内に問う声は虚しく胸中を木霊し、いずこともなく去っていく。ただ、御影にもはっきりと分かった事がただ一つだけ存在した。それは即ち、淡は今、御影よりも弱い存在になってしまったという事だった。

混乱の極みにあった御影は、縋る様に淡を見た。これが淡にとっても予想外の事態であれば、この状況に全ての説明がつく。淡は勝ちに逸る余り力の制御に失敗し、今こうして無様を晒しているのだと。きっとそうに違いない。そうであってくれと、御影は思う。

けれども。御影の視線の先にいる淡は、辛そうに精一杯呼吸を続けている淡の目は、この世の何よりも澄み渡り、輝いていた。

その時、御影は全てを悟った。淡は己が矜恃の為に、己が力を捨てたのだ、と。

瞬間。負けた、と御影は思った。

力を捨てる。言葉にすれば簡単な事だが、それを実行するのは本当に難しい。事実、御影は今まで一度だって力を捨てられた事はない。勝利への欲望が、力への意志が、その都度御影の目を曇らせる。その事を恥入らぬ日はない。けれども、それでも駄目なのだ。強力な異能(オカルト)を持つ者に勝つには、同じく異能(オカルト)を用いるしかない。使った所で勝てるかどうか分からないのだから、仕方のない事だと誤魔化して。

だが眼前の淡はどうだ?全てを投げ出して、それでもなお諦めずに闘志を燃やす。それは、今の御影ではどうしたって出来ない事。それは、御影が求め焦がれた姿そのもの。そう、彼女は強い。異能(オカルト)や運、技術がどうだのといった事ではなく、純粋にその心根が強いのだ。

故に御影はこう思う。負けた、と。

そう、この瞬間。外城御影は一人の雀士として大星淡に負けたのだ。

 

 

 

歪み、震え、輪郭さえも曖昧になった視界の中で、淡は己が宿敵(みかげ)だけを見る。自分が始めて執着した相手。倒すべき障害。愛しい御敵。彼女を倒す為だけに、淡はこう(・・)なった。故に勝てなくていい、等とは微塵も思わない。勝ちたい。淡は心の底からそう願いながら、震える手で牌を掴んだ。

まるで巌の様だ、と淡は思う。今の淡にとって、外界の全ては己が身を苛むものでしかない。漂う大気は咽喉を焼く毒であり、纏う衣服は肌を削る鉋であり、さざめく声は鼓膜をやぶらんとする爆音だ。

けれど、それでも淡は牌を握る。どれ程重かろうが関係ない。淡は満身の力を籠めて牌を取った。最高の闘いで、最高の勝利を手に入れるために。そして牌を見ようとして、気付く。己が目が、霞んで何も見えないという事に。なればこそ淡は目を閉じた。己が目は最早無用の長物。ならば感覚を一つ潰す事で、他の感覚を練磨させる。味覚、嗅覚、聴覚、視覚、全て不要。故に淡はただ触覚を高めた 。しかし、全てを閉ざしてなお、淡の触覚は人並みにしか戻らない。けれども今はそれで十分。盲牌が出来る余地さえあればそれでいい。そう思いを定め、慣れぬ手付きで行う盲牌は、淡に一つの牌を想起させた。

…………………しかし、それは淡の和了牌ではなかった。

無念だ、と淡は思う。ここまで登りつめておきながら、最後の最後で失敗する。それは何て残酷で、何て惨い仕打ちなのか。けれども、これもまた麻雀なのだ。互いに互いの想いを賭し、示された結果ならば、それは謙虚に受け止めなければいけない。淡はツモった牌を河へと置いた。

 

「―――ロ、ン」

 

信じられぬ、という様な声が対面から上がる。

お前は勝者だった。紛れもない、勝者だったのに。対面に座る御影の瞳は、そう告げていた。けれども、淡は力なく首を振る。勝てなければ、勝者ではない。結局の所、淡の執念、矜持は届かなかった。これはただ、それだけの話なのだ。一抹の悔恨が淡の胸を過る。もしあの時力を捨てなければ……。しかし、その考えは次の瞬間泡と消える。自ら納得して力を捨てたのだ。どうして今更悔やむ事があるだろうか。そう、これでいい。悔やむ事は何もないのだ。

それでも、と淡は思う。思ってしまう。朦朧とした意識の中で、ただ一つの事だけを。

ああ、確かに私は負けた。惜しかったなどという言葉は何の意味も持ちはしない。私は確かに負けたのだ。

だけど、ああ、出来得る事ならば………

 

「勝ちたかった、なぁ……」

 

呟く言葉に一欠片の悔しさを滲ませて、淡の意識は闇に呑まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――誰か119番をお願いします!」

 

どこからか告げられたその言葉に、淡が倒れてから止まっていた時が動き出す。慌ただしく行われる救命行為は余りにも現実的(・・・)であり、そうであるが故に場は俄かに理性を取り戻す。二人が築き上げた闘いの空気は既になかった。雀荘に蔓延していた天だの魔だのと言った幻想は色褪せ、ただ昏倒した者が出たという現実が残るのみ。そう、闘いは終わったのだ。

 

 

表に来た救急車を見に、雀荘中の人間は外へと出ていた。伽藍とした雀荘の中で、御影はただ茫然と佇む。その心中には多大な葛藤が渦巻いていた。

勝者には勝利の美酒が与えられて然るべきである。しかしそれを、御影は闇討ち同然の方法で否定した。力を失った淡に対し、力を以って打倒した。その姿はまさに、異能(オカルト)を以って弱者を倒す強者そのものだった。それを否定したいがために、御影はこれまでやって来たというのに。

そんな風に思考する御影を呼びかける者がいた。焦点の合っていない瞳で、御影は自らを呼んだ者へと目を向ける。そこには、見た事のない一人の女が立っていた。

 

「………大丈夫?」

 

恐らく先程までの闘牌を見ていた者だろう。ぐったりしていた御影も昏倒しないか心配したに違いない。しかし、そんな御影の論理的な思考は、女と目が合う事で霧散する。そう、女の瞳に気遣う色は欠片も見えず、ただ目の前の存在の根底を見透かそうとする冷徹な意思だけがそこにあった。

余りにも異様な存在。けれども御影は気にしなかった。どうでもいい、どうとでもなれ。そんな捨て鉢な気持ちが心の全てを占めていた。

 

「成る程」

 

女は納得した様にそう呟く。もうお前の全ては見透かした。そう言わんばかりの態度で、女は御影から目を離す。いいさ、何もかも分かった様な顔をして、そのまま疾く去ればいい。そんな風に考えるともなく考える御影を前に、女は静かに呟いた。

 

「そんな様子では、彼女も浮かばれない」

 

その言葉に、御影の思考に空白が生まれる。倦怠感も何もかも、その瞬間頭から消えていた。そして、女の言う彼女(・・)という言葉が淡を指していると悟った瞬間、猛烈な怒りが御影を貫いた。

 

「お前に!お前などに何が分かる!通りかかっただけの傍観者が、知った様な口を叩くなっ!」

 

激情のまま御影は猛る。この女は触れてはならぬ物に触れた。許せぬ、許せぬ、許せぬ!これがただの八つ当たりに近しいものであるとは思いつつも、その激情は止まらない。そんな御影に、女はただ冷たい視線を向けた。

 

「成る程、確かに私は傍観者。通りかかっただけというのも間違ってない。けれど、傍観者だからこそ分かる事もある(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

余りにも激しい御影の言葉を前に、女は眉一つ動かさない。そんな目の前の女の不気味なまでの静けさに、ようやく御影は違和感を覚える。何かが食い違っているような感覚。自分は目の前の女を、ただ闘牌を傍で見ていただけの一般人だと思っていた。しかし、それならば、この女のえも言われぬ雰囲気は何だ?静かに他を圧する、この感覚は一体何なのだ?

 

「彼女は最後までこの闘いを楽しんでいた。絶対的な勝利より、その過程をこそ楽しんだ。自身の力を捨てようとも、自分が納得出来る闘いを謙虚に望んだ」

 

確信を込めて女は語る。何故そんな事が分かる、と御影は声を出そうとして、御影は女と目が合った。硝子の様に澄み切ったその目には、何の感情も浮かんでいない。けれどもそこには、有無を言わせぬものがあった。知らず知らずの内に、御影は女に浸食されていく。身体の中身を根こそぎ観察されている様な、筆舌に尽くし難い嫌悪感。まるで自分が人体模型にでもなったかの様な、曰く言い難い不快感。

 

「けれども貴女は違う。貴女は自分の勝利だけを望み、そのために信条を曲げた。そして勝利を得たと言うのに―――何故、納得いかないと嘆いているの?」

 

その言葉は、何よりも深く御影の心に突き刺さった。止めろ、これ以上私を見透かすな。足元がぬかるみ沈んでいく様な感触に怖気を震わせながら、御影は心の内でそう叫ぶ。しかし、声は咽喉元で凍りついた様にとどまったまま出てこない。

 

「自分が何かの主人公であるとでも錯覚したの?彼女は倒されるべき敵で、恨みと嘆きを振りまきつつ、惨めに自分に負けるのだと、そう思っていたの?」

 

女の吐く言葉の一言一言が、外科医のメスの様に、御影の心を腑分けしていく。このままでは知ってはいけないものまで知ってしまう。けれども、最早御影に抗う術はなかった。

 

「ーーーなんて傲慢。驕り昂っていたのは彼女ではなく、貴女の方」

 

目を逸らし続けてきた己の本性。厚顔無恥なまでの自己愛。そんな自らの痴態をまざまざと見せつけられ、御影は声なく狂乱する。やめろ、違う。そうじゃない!私は、私は、私はっ!けれどもやはり言葉は出ない。言い訳でしかないと、気付いていたから。

ポキリと己の心が折れる音が鳴る。ああ、己の心は何と弱いのか。他者を羨む権利さえ、自分には存在しない。淡が強く在った分、落差が御影の胸に迫る。不撓不屈の精神など、今の御影には欠片も残ってはいなかった。今の御影は何処にでもいるただ一人の女子でしかなかった。

 

「………それに、正確には貴女は彼女に勝ってすらいない(・・・・・・・・)

 

追い打ちをかける様に、女は御影に通告する。もうやめてくれと言う言葉さえ、御影は言えなかった。今この瞬間、御影は完全に目の前の女に呑まれていた。そんな御影の様子に頓着せず、女は黙って御影の対面に赴く。その様子に気負った所はなく、ただ事実を告げるのだという気軽さがそこにはあった。細くすらりとした指が淡の牌に触れる。

 

「最後に牌をツモった時、彼女の五感は殆ど機能していなかった。それでも彼女は触覚以外の全てを閉ざし、盲牌をして………{7}をツモ切った。その{7}は確かに彼女の和了牌ではなく、貴女の和了牌だったけど……」

 

そこで女は黙って淡の手牌をひっくり返す。見たくない、と御影は思う。けれども、見ない訳にはいかなかった。葛藤に惑う心を余所に、御影の瞳は淡の手牌を見る。その内容に、御影は小さく目を剥いた。

 

「―――そう、彼女はこの時、本当は{7}を槓する事が出来た」

 

淡手牌:{三四777發發發北北} 槓:{裏⑥⑥裏}

 

「嶺上牌こそ和了牌ではないものの、これで貴女の和了目は完全になくなった。そして彼女の次順の牌は―――」

 

女が山を捲り、次に御影のツモる筈だった牌を取る。その手に握られていた牌は―――{赤五}。

 

「これで二重立發三暗刻ドラ10。新ドラ裏ドラを捲るまでもなく、数え役満」

 

無慈悲な宣告に、御影は立ち竦む。

最後のあの瞬間、間違いなく淡の支配は山に及んでいなかった。それが意味する所は即ち―――淡はその地力だけで、御影の異能(オカルト)に勝っていたという事。そう、それは淡の勝利を諦めない心が生み出した、紛れもない奇跡だった。

 

「貴女は異能(オカルト)を使ってさえ、力を捨てた彼女に勝てなかった」

 

弱者であっても強者を倒せる。御影のその信念を体現したのは、弱者である御影ではなく、強者であった淡だった。それは何と皮肉で、何と惨めな有様だろう。悔しいとさえ、今の御影には思えなかった。完全なる敗北。御影の力も、意志も、勝利への渇望も、何もかもが淡の足元にも及ばなかった。

己は何と弱いのだ。力も、想いも、枯れ果てた木の葉の様に脆く軽い。そんな様で、一体何を成そうというのか。そんな風に打ち拉がれる御影に、女は言う。

 

「―――けど、いつかそれが許せないと言えたのなら。また、もう一度立ち向かえる気概を持てたのなら、ここに来るといい」

 

一枚の紙に何事かを書いて、女は御影の前にそれを置く。そうしてから女は御影に背を向けた。もう用は済んだとでも言う様に。

 

「――――――――待て!」

 

去り行く女の背を見た時、御影の中に猛烈な感情が湧き上がった。それは胸に滾る絶望すらを押し退けて、御影の口から制止の言葉を投げさせる。女はその声に反応し、御影を見た。何か用か、という目付きをする女を前に、御影は戸惑う。この感情は、一体何なのだろう。何故自分は、こんな女に話しかけてしまったのだろう。しかし、惑いの時間も長くはなかった。御影は意を決した様に女へと向き直り、畏怖の情を混じえてこう問うた。

 

「お前の名は、何と言う」

 

未だ名付ける事も出来ない感情を胸に抱きながら、御影は問う。ここで問わねば、己は一生後悔する。何故だか、そんな確信があった。

 

「私?私の名前は―――」

 

そこで女は御影の方へと向き直る。そして御影は、そこで初めて女をつぶさに見詰めた。少し赤みを帯びた明るい髪のショートカット。歳は御影と同じ位か少し上。すらりと伸びた手足に、特徴的な白い制服。そして可愛いというよりは綺麗という顔立ち。どこかで見た事がある、と御影は思う。友人ではなく、知人でもない。となると候補は絞られる。テレビ、雑誌、その他メディアに露出している有名人………。そこから先の思考は一瞬だった。短髪赤毛の若くて強い雀士。それもメディアに露出しているとなれば独りしかいない。そうだ、間違いない。この女が、この女こそが―――

 

「―――宮永照(みやながてる)。通りすがりの、ただの人」

 

現インターハイチャンピオン、その人であった。




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