目が覚めた時、淡の視界に映ったものは、見知らぬ白い天井だった。
ぱちぱちと幾度か瞼を開閉させ、淡は訝しむ。はて、自分はどうしてこんな所にいるのだろう、と。霞がかかった様な頭で考える事数瞬、淡はふと思い出す。自分が、雀荘でどうなったのかを。
がばり、と淡は思わず反射的に身を起こす。こうしてはいられない。そんな思いが頭に過ぎり、しかし突如現れた痛みによって中断させられた。
「あたたたたたた………っ!」
余りの痛みに淡は思わず声を出して悶絶する。全身が筋肉痛になってしまったかの様に、身体の節々が悲鳴をあげていた。これでは身体を動かす事も出来はしない。淡は暫らく苦痛を耐え忍び、そしてから静かに身を横たえた。
痛みによって冷静になった頭は、自らの現状を把握するため周囲を観察する。清潔で少し草臥れた、淡のいるベッドの周りを区切る白いカーテン。どこか消毒液の様な臭いを漂わせた空気。そして右腕に刺さっている点滴。それらの情報を統合すれば、現状淡が何処にいるのかは容易に想像がついた。そう、淡は今、病院の中にいるのだ。
恐らく、意識を失った淡は救急車によってここまで連れて来られたのだろう。傷一つないのに些か大袈裟な扱いではあるが、確かに目の前で唐突に人が意識を失えば救急車の一つは呼ぶかも知れない。
そんな論理的思考をする一方、淡は雀荘での闘牌ーーー御影との死闘を思い出していた。淡が救急車を呼ばれる原因になった闘い。そして、淡の短い麻雀歴の中で最も白熱した闘い。あの時の興奮を振り返り……淡は一抹の淋しさを覚える。
あの闘い自体に後悔はない。結果として勝つ事は出来なかったものの、自らの持てる力の全てを出し切った素晴らしい闘いだった。後悔などしないし、する必要もない。けれど、素晴らしい一時であったればこそ、その終わりには寂寥感が漂うのだ。ああ、遂に終わってしまったのだなと、嘆かざるを得ないのだ。
もう一度、御影と打ちたい。その想いが淡の心の内から湧き上がるのは、ある種必然の結果だった。
しかし、その実現には問題がある。そう、淡は御影の名前しか知らないのだ。会いたくても住んでる場所が分からなければどうしようもない。闘いの最中は連絡先を交換するという雰囲気ではなかったし、闘いが終わった直後には淡の意識は闇に飲まれていた。
これはまた付近の雀荘を荒らし回って探すしかないなと、さりげなく物騒な事を淡は思う。
二人の出逢いは必然だ。淡が御影を求め、御影が淡を求めてくれる限り、二人が再び出逢えない訳がない。
「そうだよね、ミカゲ………」
淡は確信に満ちた声でそう呟く。その言葉はどこか寂しげで、けれど深い想いに溢れていた。
「―――おお、何や起きたんか」
そんな淡の声に対応する様に、仕切られたカーテンの向こうから声が聞こえる。
一瞬無言になる淡。誰に話しかけているのだろう。そんな風に思った淡はさりげなく耳を澄ませる。しかし、呼応する声は聞こえてこない。この瞬間、ようやく淡は声の持ち主が自らに話しかけているのだと気が付いた。
「あの、その、どちら様?」
「ああ、うちは同室のもんやに。よろしゅうな」
まさか今の独り言が聞こえたから声をかけてきたのだろうか。そう思うと何故か恥ずかしさがこみ上げ、思わず声が上擦ってしまう。しかしカーテンの向こうの人は、そんな淡の様子を気にも留めず、気軽な口調で語りかけた。
独特なイントネーションから察するに、恐らく関西出身の人だろう。そんな風に考えてから、淡は戸惑う。相手が話しかけてきた理由が分からない。まさか本人に、独り言を聞いたから声をかけたんですか?と問う事も出来ず、結局淡の口から出たのは当たり障りのない話題だった。
「えっと、その、大阪出身なんですか?」
「あぁ、よう勘違いされるんやけど、うちの出身は三重なんやわ。よう聞くとイントネーションが微妙に違うやろ?」
違うやろ?と言われても、周囲に関西出身の人がいなかった淡にはイントネーションの違いなど分かるはずもない。何と答えようか迷う淡の言葉を待たず、相手は続けて言う。
「なあ、カーテン開けてええか?顔も見ずに話しするなんて、なんや味気ないやろ」
「え?あ、はい」
その言葉を待っていましたと言う様に、二人を仕切っていたカーテンは忽ち開かれる。そこにいたのは、自らと殆ど年の変わる事のない、一人の少女だった。
「なんやなんや、思った以上に可愛らしいお嬢ちゃんやなぁ」
そう言った少女もまた、整った顔立ちをしていた。肩まで伸びた色の濃い髪と、野暮ったい紺のジャージに身を包んだその姿は、可愛いと言うよりは格好良いと言った風情である。
ジャージを着ているという事は運動系の部活の人だろうか。そんな風に考える淡は、しかし一つの事に気が付いた。そう、視界に映る彼女の姿がどこかボヤけているのである。
寝起きで目が疲れているのだろうかと思って、淡はぱちぱちと瞳を開閉する。けれども、ボヤけは取れない。これはどうした事かと考えて黙ってしまった淡に、目の前の少女は慌て出す。
「ど、どうしたんさ?うちの言葉が気に障ったんか?お嬢ちゃんか?お嬢ちゃんが悪かったんか?」
「あ、ううん、そうじゃない、です。ちょっと目の調子が………」
ゴミが入ったのかも知れないと思って、淡は目を擦る。それを目の前の少女は腕を掴んで止めた。
「あぁやめやめ。目ぇ擦っても腫れてまうだけやに。それと、敬語は要らんわ。見たとこ歳もそんなに離れとらんようやし、敬語なんか背中がむず痒ぅてしゃあない」
そう言って、少女は淡の手を降ろさせる。少女の髪がふわりと舞い、シャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。しかし、その匂いはどこか煙った様に薄れている。握られている手の感触もどこか曖昧だった。淡は自分の身体に起こる不調に嫌でも気付かされた。
淡は何故自らが不調なのか考えて、すぐに答えに行き当たる。理由は明白だった。五感全てが上手く機能しないなんて事態は通常あり得ない。それが起こっているという事は即ち、超常の事態が起こったという事。そして淡の身に起こった超常の出来事となれば、一つしかなかった。
「あの時だ………」
そう、淡が御影と対峙したあの闘牌。それ以外に理由はなかった。
「なんや?どないした?」
心配そうに覗き込んで来る少女を前に、淡は小さく首を振る。話した所で意味はない。それに、淡自身あの時の感覚を人に説明する事が出来なかった。一秒毎に増加して行く高揚感、卓上の全てを掌握したかの様な全能感。それは脳内物質の生み出したただの幻覚なのか、はたまた現代科学では予想もつかない奇妙奇天烈なものの産物なのか、それは分からない。けれどもあの時の淡は確かに何かの壁をぶっちぎっていたのだ。
そんな風に思案に暮れていた淡は、しかしようやく気付く。優香に掴まれた腕から、仄かな暖かさが流れ込んでくる事に。この瞬間淡の頭からは自らの体調不良の事など消えていた。どこか感じた事のある暖かさ。そう、この感触は紛れもなく、あの闘いの時と同種の物。それが意味する所は即ち……。
「ーーー貴女って、もしかして雀士?」
「お、おう。せやに」
唐突に目の色が変わった淡に、少女は戸惑う。今までのどこかボケっとした少女の姿は既になかった。獲物を狙う獣の風格がそこにはあった。
「けど、何で分かったんや?麻雀をやっとる素振りなんて欠片も見せとらんと思うんやけど」
淡の唐突な変貌に多少驚きつつも、少女は問う。それにどうやって答えようか、淡は迷った。まさか、握られた手から感じた力によって、等とはとてもじゃないが言えないだろう。頭でも打ったのか心配されてしまうのが関の山だ。
しかし、少女は突如納得した様に頷き、淡に言った。
「そぉか、手の感触やな?薄れてもうた指紋の感触から雀士であるんを見抜くとは……。成る程、流石うちらのエースが執着する訳やな」
勝手に向こうが理由を付けて納得してくれた事に、心の中で安堵の溜息を吐く。正直、今の淡の触感では他人の指先の感覚など分からない。けれどもそれが最も合理的な説明であるというのは明白だ。乗っかっておくのが無難だろう。
そう結論づけた淡は、しかし少女の言葉に聞きなれない単語を聞き止める。
「エース?」
「お、そういやまだ言うとらんかったか」
そこで少女はくるりと背を向ける。唐突にどうしたのだろうと思う間もなく、淡はその意図に気が付いた。
そう、少女のジャージの背中には、中々流麗な文字でこう書かれていた。白糸台高校麻雀部、と。
「うちは白糸台高校一年、世古口裕香や。何でやよう分からんけど、うちらのエースにお前さんの様子を見る様頼まれたんさ」
白糸台高校と言えば、麻雀のインターハイに毎年出ている強豪校である。そこのエースと言えば、宮永照をおいて他にいない。一年生の段階で既にエースだったという彼女は、今やインターハイ二連覇の立役者としてメディアにも露出している有名人だ。
そんな人が何故、と考えていた淡の思考を読んだかの様に、裕香は苦笑混じりに言った。
「何でも雀荘でお前さんの闘牌を見て惚れ込んだ様でなぁ。急に倒れたっちゅうお前さんを助けて救急車呼んだんもあの人らしいわ」
全く珍しい事もあったもんやに、と裕香は独白する。あのお菓子と麻雀以外何考えとるかよう分からん人がなぁ。しみじみと語る優香に、へぇ、などと気のない返事を返しつつ、淡はあの時の雀荘を思い出す。果たしてあの場に宮永照らしき人物がいただろうか。
少なくとも、淡が雀荘に着いた直後にはいなかっただろう。宮永照程の人物がいれば真っ先に気付いていたはずだし、そもそも他に女子などいなかった。
となれば御影との対局中に入ってきたのだろうが、生憎あの時は集中していて他に気を向ける余裕がなかった。ある意味仕方がない事とはいえ、自らの恩人の顔も見ていないという状況に淡はなんだか申し訳ない気分になる。
そうしてそこまで考えてから、ようやく淡は気が付いた。そう言えば向こうは自己紹介してくれたのに、自分は自己紹介していない。
「あ、遅れまし………いや、遅れたけど、私は大星淡。中学三年生だからユーカの一つ歳下だけど、よろしくね」
「おうおう順応早ぅて助かるわ。しかしそうか、中三か。そうなると、うちらのエースはここいらで淡に恩の一つでも売っといて白糸台来さそうっちゅう腹かもなぁ」
白糸台に入校。無論、淡とてそれを考えなかった訳ではない。白糸台高校はインターハイ常連の強豪校だ。並の雀荘の面子よりもレベルの高い打ち手がゴロゴロしている事だろうし、それならば自らに匹敵する様な輩にも出会えるだろう。
けれど、余り勉強が得意ではない淡にとって、白糸台高校の入試試験は些か以上に敷居が高かった。
それに、今の淡にはどうしてもそれが魅力的な誘いには思えなかった。
「そういや今度の休みにうちで文化祭やるんや。良かったら見学ついでに寄ってみぃへんか?」
だからだろうか、裕香がそう言ってくれた時も、淡はどうやって断ろうか考えるばかりで、その提案を受け入れようという気はまるでなかった。
「あ、そうそう。淡と対戦しとったっちゅう女の子も来るらしいで、うちの文化祭」
――――――その言葉を、聞くまでは。
「行く!私も行きたい!」
「お、おぅ。積極的なんは感心やに。ええよ、うちが案内したる」
別に裕香の案内はどうでも良かった。ただもう一度御影に会える。その事だけが、淡の意識を占めていた。
待っていて、ミカゲ。と淡は思う。前回は負けたけれど、すぐに追い付いてみせる。そしてまた、共に究極の闘牌を謳い上げよう。比翼の鳥の様に、連理の枝の様に、互いに互いを高め合い、限界という壁を打ち破っていこう。それをこそ、大星淡は望んでいるのだから。
――――――――――――――
「―――ここが、白糸台高校?」
眼前に現れた白い校舎は活気に満ち溢れていた。行き交う人々の顔は笑顔に溢れ、通り道には呼び込みの声が響き渡る。流石は全国有数の強豪校、と淡は思う。高々文化祭とはいえ、その人気ぶりは通常の高校などとは比較にならない。これでは人と待ち合わせる事さえ一苦労だ。
淡は携帯を開き、待ち受け画面を開く。新着メールはまだない。この混雑具合から回線が混み合っているのか、それとも………。
「おーい、こっちや淡!」
カクテルパーティー効果だろうか、その声はさして大きくもないのに淡の耳へと届いた。音がする方へと目を向ける。そこには………何故か馬の耳のカチューシャをつけ、白糸台の制服に身を包んだ世古口裕香の姿があった。
「ユーカ!」
驚きの余り目を見開き、止まってしまった淡の元に、裕香は人混みの合間を縫って辿り着く。
「おうおう悪いな待たせてしもて。本当はもう少し早う着く予定やったんやけど、いかんせんクラスの連中が離してくれんでなぁ」
悪びれずにそう言う裕香の手には、熱烈歓迎動物喫茶と書かれた看板があった。恐らくクラスの出し物であろうが、ユニークと言うには些か奇抜である事は否めない。
「じゃあその耳は、クラスの?」
「そうそう、クラスの出し物や。うちは余ったもんでええ言うたんがあかんかったんやなぁ。馬のカチューシャやに。どや?アホっぽいやろ?」
言いながら裕香は耳のカチューシャをひょこひょこと動かす。その動きは剽軽で、どこか笑いを誘った。
「あははは、ううん、可愛いと思う!」
「そうか、せやったらええんやけど。クラスの連中はうちのこの姿見てゲラゲラ笑いながら椅子から転げ落ちよってな。酷い奴らやろ?」
思わず笑ってしまった淡に嫌な顔一つせず、裕香は楽しげに話しかける。
「というか突っ込むん遅れたけど、何やその眼鏡。ファッションか?前付けとらんかったやろ?」
「うん、なんか視力落ちちゃってて。お医者さんも一時的なものとは言ってたんだけど、一応ね」
優香は空いている方の手で淡の顔を――――と言うより、淡の顔にある物を指す。そう、今淡の顔には無骨なフレームの眼鏡がちょこんと鎮座していた。
医者が言うには、淡の五感は時間をかければいずれ元に戻るとの事だった。けれどそれがいつになるのかは個人差もありよく分からないらしい。それで、完全に視力が戻るまでの間眼鏡をかけているのだった。
「ほぉ、大変やな。けどまあ似合とるで。その格好で本でも読んどったら、知的な文学少女っちゅう風情や」
「まあ、まるでワタクシが知的じゃないみたいな言い方、断固抗議いたしますわ!」
「……お前ん中でそのけったいな喋り方、知的なんか?けどまあどんなに表面を取り繕った所でお前、入院中の自分の行動思い返してみぃ。点滴打つんが嫌言うて駄々捏ねとる姿見て、知的思う奴がおったらお目にかかりたいもんやわ」
「それは……だって、針とか身体に刺すの、怖いんだもん」
確かに、淡は点滴が苦手だった。それでちょっといざこざがあったのは否めない。けれど、何もそこまで言う事はないじゃないか、と淡は思う。誰にだって苦手なものはある。淡の場合は、それが点滴だというだけである。
そんな事を考える淡をにやにやと見つめていた裕香は、唐突にハッと気付いた様に時計を見る。そして小声でヤバッ、と言い、淡に向き直った。
「って、そんな馬鹿話は置いといて、や。淡は麻雀打ちに来たんやから、そろそろ行かな時間ヤバいわ」
「行くってどこに?」
「白糸台高校で麻雀言うたら決まっとるに」
そう言って裕香は視線を校舎の方へと向ける。釣られて淡も見たその先には、掲示板があった。その中で一つの告知が燦然と輝いている。それにはこう書かれていた。白糸台高校麻雀部開催闘牌大会、募る未来の新入生、と。
――――――――――――――
「ここやに」
裕香に連れて来られた部屋の一室には、多くの雀卓が並べられていた。流石は多くの部員を有する白糸台であると、淡は声に出さず驚嘆する。本来であれば正規の部員達がここで日夜鎬を削っているのであろうが、今はもう少しだけ若い連中がその卓の周りに立っていた。思わず淡はその連中の顔を見渡し……そして落胆する。
「……まあ、何や。そこそこ広い校舎やし、迷っとる奴もおるかも知れん。誰を探しとるんかは知らんけど、焦る必要はないに」
淡の顔が余りに酷かったのだろうか、裕香は慰める様にそう言って淡の肩を軽く叩いた。肩から伝わってくる裕香の暖かさに、淡の焦燥感が薄れて行く。そうだ、焦る事はない。自らの天命を信じ、ただ再会を待てばいい。
「なんだなんだ、また裕香が新しい女引っ掛けてるのか?」
そんな二人に声をかけてくる者があった。
「おまっ!未来の後輩がおるかもしれんとこで誤解を生む様な発言すんなや!」
そう言って優香は淡から離れ、声の持ち主の肩を叩く。ごめんごめん、と欠片も反省していない声で謝罪する彼女もまた、白糸台の制服に身を包んでいた。
短く刈り上げた、どこか白っぽい髪。活発そうな顔つきと、スカートの端から微かに覗く黒いスパッツ。活動的な雰囲気を身に纏う少女は、どうやら優香のクラスメイトの様だった。
成る程、このノリの良さからして、椅子から転げ落ちる程笑い転げたというのは彼女だろう。
「えっ……。ユーカって、もしかしてレズビアンなの?」
「淡も乗らんでええいうねん!うちはノーマルや!ストレートや!」
「始めて会った時も急に手を握って来たし……」
「あぁ!?余計な事言うんはこの口かぁ?この口なんかぁ!?」
電光石火の速さで以って、優香は淡の頬を摘まむ。淡の柔らかい頬はぐねぐねと形を変えられ、口からは意味のない音の羅列が紡がれる。
「あっはっはっは!面白い娘だね!裕香の知り合い?」
そんな二人の様子を見て、女は快活に笑い飛ばす。恐らくこれが二人の日常なのだろう。女が弄り、優香が突っ込む。いいコンビだと淡は思った。
眦に涙さえ浮かべながら笑う女に、優香は一つ溜息をついてから言う。
「せやに。そんでもって宮永先輩の目に留まった大型新人や」
「宮永先輩に!?」
女の瞳の色が変わる。ただの変わった後輩を見る目付きから、珍獣を見る様な目付きへと。ただ名前を出しただけで、年下である淡への態度をこんな風に変えさせる先輩とは一体どんな人物なのだろうと、淡の好奇心が疼いた。
「ああ、自己紹介まだだったね。私は亦野誠子。裕香と同じく白糸台の一年坊だよ。よろしく。えーっと………」
「大星淡です、亦野先輩。よろしくお願いしますね」
「ああ、よろしく」
二人は表面上にこやかに挨拶を交わす。しかし誠子の目は笑っておらず、淡の本性を見定める様に見据えている。
この人そこそこやるな、と淡は思う。一年生ではあるものの、亦野誠子には
「お、来た来た。おーい淡、あれがうちらのエースやに」
互いに互いを品定めしていた二人の注意は、優香の言葉で脇に逸れる。うちらのエースーーー即ち宮永照。その存在を確かめようと、二人は優香が指し示す方向へと顔を向けた。
そこには、一人の少女がいた。短髪、赤毛、白い白糸台の制服。普通であれば大衆に隠れて見えなくなってしまう様な特徴は、しかしその身に宿る圧倒的カリスマによって魔性の美として昇華されていた。
「あれが……宮永、照」
初めて宮永照を直で目の当たりにした淡は、思わず唾を飲む。あれが、全国に数十万人いる高校生雀士達の頂点。白糸台の不屈のエース。ただ歩いているだけだというのに、その威圧は尋常のものではなかった。なまじ人の形をしている分、その異様さが嫌でも目に付く。あれはダメだ。既に
彼女は周囲を探る様に見回した後、こちらの存在に気が付いた。そして人波を掻い潜ってこっちへやって来くる。
「お疲れ様、裕香、誠子」
「「お疲れ様です宮永先輩!」」
どこか緊張した様に、二人は大きな声で挨拶する。そこには多くの尊敬と、少しの畏怖が混じっていた。
二人の後輩に挨拶した後、照は淡へと視線を向ける。ただそれだけの事でなのに、淡は身にかかる重圧が増えた様に感じられた。
「貴女は………」
「挨拶するのは初めてになります、大星淡です。この前は危ない所を助けて下さった様で、ありがとうございます」
「私は宮永照。それと、あの時私は人として当然の事をしただけ。感謝する必要はない」
間近で見る宮永照は、まるで大海の様だった。深く、広く、他を寄せ付けない圧倒的な規模。今は凪いでいる様だが、それが氾濫した時どの様な有様になるのか想像もつかない。
ほんの一週間前であれば、淡は彼女に嬉々として闘いを挑んだだろう。詰まらなかった日常を打破するために、格上かもしれない人間と闘う。それは淡の本心からの望みであり、渇望だった。けれど、今は少し変わっていた。
彼女と……御影と出会ってしまってから、淡は変わった。悪い方に変わったのだと、昔の淡は言うだろう。真の強者を求める事こそ肝要なのに、今のお前は何なのか、と。それでも淡は現状を後悔していなかった。
確かに真の強者も大事だ。けれども、相手の後を追い、追随するだけなど詰まらない。追い越し、追い越され、共に道を極めて行く。そんな
だから、今の淡は宮永照という存在に歓喜しない。自分より上位にあるだろう存在に、挑もうとは思っても憧れない。到達すべき地点の一つでしかないと、冷静な瞳で観察出来るのだ。
黙って見つめてしまった淡をフォローする様に、誠子は照へと問いを投げる。
「そう言えば先輩、この娘の麻雀に目を留めたって本当ですか?」
「目に留めたっていうか………まあ、白糸台に来て欲しい人材である事は間違いない」
「「おおー!」」
歓声を上げる二人。照が嘘など吐けない人であるのは二人ともよく知っていた。直裁的な物言いを好むこの先輩が、淡を欲しいと言ったのだ。それはつまり、その期待に相応しいだけの力の持ち主である事を意味する。
「まさかあの宮永先輩がそこまで言うとは……相当凄いんだろうね」
「うちも見た事はないけど、相当なもんなんやろなぁ」
二人の期待の声に、しかし淡は頓着しない。照の底は今だ知れない。けれども、今はそれを見極める時期ではなかった。そう、淡は当初の目的を忘れてはいなかった。淡の関心は最初からただ一点にのみ集中していた。
それは、再び御影と出会う事。出会って、再び闘う事。そのためには、淡は強者との闘いを放棄する事も厭わなかった。
「その、ミカゲは本当に来るんですか?」
「ミカゲ?」
照は不思議そうに首を傾げる。果たして誰の事を指しているのだろうと思案する様に少し黙る。そしてすぐにああ、と呟いた後、意味深に頷いた。
「彼女は来る。………いや、来てる。ほら、そこに」
まるで感情の出し方を忘れてしまった人形の様に、照は無表情にそう言った。そうして照が指す方向を見れば………そこには、御影がいた。
「ミカゲ……」
淡の心中深くにその存在を刻み込んだ、初めての人。会えなかった期間は僅か数日でありながら、淡は懐かしささえ感じていた。
相も変わらず不吉な黒い制服姿は、白い服の多い白糸台では非常に浮いている。けれども御影に気後れした様子はまるでなく、ただ堂々と、しかし不機嫌そうな顔をして教室の前に立っていた。
「あれが淡の思い人かぁ。何や想像とちゃうなぁ」
そんな裕香の冷やかしも、今は耳に入らない。再び出会えた喜びを噛み締めながら、淡は歓喜に浸る。
喜びのままに声を上げようとした淡は、しかし途中で気づかされる。そう、御影の視線の先にいたのは淡ではなく―――宮永照、その人だった。
「来たね」
「来たさ」
ゆっくりと人混みを掻き分けてやって来た御影は、淡を一顧だにせず照を見つめる。二人の間には、何やら言い知れぬ雰囲気が漂っていた。
どの様な因縁が二人を結んでいるのか、それは分からない。けれども
何故だか、淡の胸が痛んだ。
「ここで何を掴めるかは貴女次第………。頑張ってね」
「抜かせ」
それだけ言って、照は去っていく。待って下さいよ宮永先輩、と言いながら、一年生二人組も後を追って去っていった。
そうして教室を出る直前、裕香は淡の方へと振り返る。その顔は、頑張れよ、と告げているかの様だった。
そうして残された二人は向かい合う。数日ぶりの邂逅に、微妙な空気が流れた。どんな言葉をかければいいのか、淡は迷う。前日まであれ程考えていた再会の言葉は、思考の埒外へと吹き飛んでいた。
「あの、また会ったね、ミカゲ!また会えて私、とても嬉し―――――」
「――――――悪いな、大星淡」
戸惑いながらも話し始める淡の言葉を遮る様に、ピシャリと御影は告げる。その視線は頑なに淡の瞳を直視しようとせず、ただ斜めの方へ逸らしていた。
「今、お前と話す事は何もない」
全てを拒絶するかの様な冷たい声で、御影は淡の想いを跳ね除ける。
そして結局一度も淡を見ないまま、御影はこの場から去って行った。余りにも余りな態度に凍りついた淡を、視界に入れたくもないと言う様に背を向けて。
そうして、淡は一人取り残された。
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