Return to race 作:はるりん
カノープスメンバーを交えた勉強会は3ヶ月続いた。
解剖学や生理学、運動学といった基本的な医学知識しか教えていないが、そこから派生出来るものはいくらでもある。テイオーにはもっと細かく教えているが、他のメンバーはそれぞれのトレーナーに任せてある。一人一人に最適なトレーニングを用意するのはトレーナーの役割だからな。
これらの知識は主に加速やスタミナ強化の練習に活かせるだけでなく、ウマ娘の『もっと走りたい』という本能を抑え込む重要性を教えてくれる。勝ちたいという気持ちは十二分に分かるが、怪我をしてまで勝とうとすることは真っ先に止めるべきものである。
イクノは飲み込みが早い。成績も上位なだけあって流石の一言だ。脳筋な一面もあるが、彼女の場合は立派なステータスの1つとなりえる。いや、飲み込みの早さだけで言えば彼女が上回っているかもしれない。
ネイチャは卑屈な部分もあるが、自己分析においてはカノープスで最も長けている。自主練習においても真っ先に学んだ知識を取り入れたのもネイチャだ。レースでもその結果は出ており、なでしこ賞は2着だったものの、不知火特別では差し切って1着だった。重賞レースではないにせよ、成長が確かに見られるいいレースだった。
ターボは……うん、ターボしてた。前走ではガス欠で5着だったかと思えば、GIIIのラジオたんぱ賞では逃げ切って1着。本当に読めないウマ娘だ。授業よりも走っていた方が良い気もするが……テイオーに対抗心を燃やして参加してくれている。
そして、つい先日カノープスに参加したマチカネタンホイザ。彼女は何かと不運な事が多い。レースの実力に関してはまだまだ底は知れないが、根性はイクノといい勝負をしている。あとはまあ、彼女が来てから部室の雰囲気がどこか柔らかくなった気がする。ふんわりというか、ほんわかというか。
「よし、勉強会は今日で終わりだ。明日からはテイオーのリハビリに入るから、分からないことや確かめたいことがあったら毎週金曜日に対応する」
イクノとマックイーンを除いてみんなぐったりしている。基礎とはいえトレーナーが学ぶような内容だから無理もないが、肝はそこにある。
トレーニングの意図をウマ娘達が理解することで、鍛えるべき部分に意識が向く。その過程が無ければ、トレーニングの期間が長くなるだけでなく、効果も薄れてしまう。ケガと常に隣り合わせのウマ娘にとっては致命的であり、担当トレーナーが最も理解しておくべきものだ。
「よし、テイオー。ギプスを外してまだ間もないが、プールトレーニングから始めよう」
「うん!」
机に伏せてたと思いきやぴょんぴょん跳ねてご機嫌なテイオー。ワガママな性格とトレーナーから聞いてはいたが、まだターフで走れるような状態ではないと理解しているのだろう。ここまでは思惑通りだが、気は抜けない。問題は走れるようになってから。
『テイオーにレースを走る理由を見つけてもらう』
このルドルフとの約束を破るわけにはいかない。自分の信頼を守る訳では無い。
テイオーのためにも。そして、テイオーを信頼しているルドルフのためにも。
「まずはビート板を使ってバタ足から。足に違和感がないか確認してくれるか? 問題無ければ潜水で3往復してみよう」
「うん! それと、絶対に無理はしない! だよね?」
「そうだ。ランニングは主治医の許可が出てからな」
「う〜」
主治医の注射が余程嫌なのか、イカ耳のまま入水していった。骨に異常は無かったからもう注射は無いんだけどな。
もうすぐ秋とはいえ、まだまだ汗ばむ時期は続く。ウマ娘のリフレッシュも兼ねてプールトレーニングを選ぶトレーナーも多い。
練習内容は沖野が決めているが、リハビリ期間ということもあり監督役は俺に任せてもらっている。結果報告などは週に一回、何らかの異常があればすぐにトレーニングをストップする。臨時講師であれば、ここまではトレーニングに関わってもいいと理事長から許可は貰っている。
「潜水行ってくるね!」
「おう。不安なら念の為にストレッチしておけよ」
足もいい感じに動いているし、スタミナも思ったよりは落ちていない。これなら
潜水を終えたテイオーにメニューを指示し、タイムやフォームといった特徴的な要素を書き記していく。練習内容に一切疑う要素はないが、テイオーに合っているかどうかは別だ。コーチとして練習に関わるからには全力を尽くしておきたい。
『全体的に身体能力が減少傾向、骨折前に比べて早い段階でフォームの崩れがあり、特にスタミナの減少が顕著。
柔軟性、後遺症は問題無し。体幹を鍛えるためにバタフライ水泳も検討して欲しい』
息が上がったテイオーを休憩させている間、伝えておくべき事を殴り書きしていく。他に書くことはないかと悩んでいると、テイオーがファイルを覗き込んできた。
「これがボクの弱点?」
「そうだ。誰よりもテイオー自身が理解しているはずだ」
「うん。このままじゃ春の天皇賞に勝てないことも分かってる」
「もうそこまで考えていたか」
「復帰明けのレースも油断出来ないけどね」
天皇賞・春に出走する予定のテイオーにとって、マックイーンは最大のライバルとも言えるだろう。左足の不安から解放されつつある彼女は、世代最強のウマ娘へと着実に近づいている。
「どのレースも油断禁物は大前提だ。常に視野を広げておくことも忘れるなよ」
「……コーチはさ、なんでウマ娘のトレーナーにならないの?」
「ウマ娘達の将来を奪ってしまうからだ。誰も操り人形にはなりたくないだろう」
「それはあくまで私たちの事を思って言ってるだけじゃん。コーチ自身はどう思ってるのかなって」
「…………」
……ルドルフめ。
「誰にも教えるつもりはない。だが、休憩がてらに聞いておけ。これは俺の独り言だ。薮蛇を突いた罰と思え」
ああ、懐かしい。
「
懐かしい。
「まだヒヨっ子だった僕には、将来有望なウマ娘なんて寄ってくるはずもなかった。凄腕トレーナーのチームにいた方がGIウマ娘になりやすいし、汚い話だけど賞金も稼げる。当時の学費は厳しかったからね」
懐かしい、懐かしいな。
「そんな僕が、どうしても担当したいと思ったウマ娘がいたんだ。駆け引きも脚力も、全て兼ね備えた子だった」
「その時の僕は、諦めなんて言葉は頭になかった。どんな凄腕トレーナーが言い寄っていたとしても、僕はその子と一緒に駆け上がっていきたい。その一心でスカウトを重ねた」
「そうしてやっと、彼女がスカウトに乗ってくれた」
そこが分岐点だった。
「彼女は本当に凄かった。自分の持てる全てを教えこんでも尚、実力の底が見えなかった」
「僕は浮かれていたんだ。その出会いに。僕は過信してたんだ。自分の実力に」
自分は何と愚かな存在だったのか。
「練習中、彼女は二度と走れなくなるほどの致命的な怪我を負った。その時の彼女が浮かべた表情がさ、今も頭から離れないんだよ」
「俺が優秀だったからじゃない、彼女が優秀だっただけだ。元々脚に不安があってもなお、あれだけ速く強く走れたのが何よりもの証拠だ。俺はそんな事を微塵も知らなかった。俺が初対面からそれを見抜けていれば、もっともっとターフを走ることが出来たんだ。楽しそうに走って、満面の笑顔でトロフィーも持って帰ってくる。そんな彼女を失うこともなかった」
「だから俺は、全てを捨てた」
自分が恨めしい。
「経歴も、プライドも、人格も、人間関係も。全部、全部だ」
自分が憎い。
「知識の為に、全てを投げ捨てた」
憎い。憎い。憎い。
「それが俺のやるべきことだった。それが1人のウマ娘の将来を奪った罰とは思っちゃいない。そんな考えすら驕りだと思っている」
愚かな自分は、もういらない。
「彼女の将来は何者にも代えられない。もう戻ってくることもない。その後悔だけが、俺の原動力だ」
「ほら、もういいだろう。クールダウンとストレッチして身体冷やさないように着込んでおけ」
「……うん」
テイオーの表情は見ていないが、練習にはどこか身が入っていない様子だった。
結局、テイオーがこれを知って何になるというのか。ルドルフにまた問い詰めておこう。