さて、新馬戦のレースが終わり。やってきました茨城県は美浦トレセン。
検疫だとかなんやかんやが終わり、石河厩舎に入りまして、そこからトレーニングになるのですが。
やー、もうね、デカいわ、広いわ……確かに俺が生まれた静舞の農校も、広かったっちゃ広かったよ。
けど、あそこは、校舎や学生寮や牛豚鶏なんかの飼育小屋や畑や原生林や川なんかの、諸々を含めて纏めて広かったわけですが。
ここはもう全部、馬。
完全に馬と馬関係の施設しかないのに、この広さ。
常時2000頭とか、馬が生活してる場所なだけはありますわ。
そして……
「こらキッド! 坂路! 次は坂路だって!!」
「プールは最後! 坂路が先!
朝泳いだだろ! 今日のメニューまだ終わってないの!!」
ええやん。坂路なんてどーでも。
それよりプール! プール泳ぎたいのねん!!
「こいつ、坂路三本くらい、なんともないんじゃぁ……」
「いくら美浦の緩い坂路だっつったって、坂路三本終えた後で、一時間も泳ぐかこいつ。
オグリはプール大嫌いだったって聞くけど、こいつは逆にプールに取り憑かれとりゃせんか?」
坂路なんてどーでもええねん。
それよりプール泳がせてー!! と……このように、すっかりプールの魅力に取り憑かれまして。
更に、日が昇るまで起きない寝坊すけな性格とあいまった結果。
朝飯食った後の検温やら何やらが終わった後、プールにぶち込んで軽く泳がせて目を覚まさせた後(最初、シャワーを浴びせてたのだが、水掛けた程度じゃ起きないと分かり、プールに突っ込まれるようになる)、坂路やコース周回なんかの一般的な調教を開始。
で、最後にまたプールに入れてクールダウン……という名の大遠泳大会。
これが大体の普段の調教メニューになりまして。
そう、本来、一頭あたりそんな長く使わない馬用プールを、毎度毎度長時間占拠し続けるせいで、美浦トレセンの人間に『カッパ馬』のあだ名を頂戴してしまいました。……冗談で飯にキュウリが出てきた時は、どうしようかと思ったよ。
「キッド……お前、それじゃ競走馬じゃなくて『競泳馬』だよ……」
面倒見てくれる厩務員の賢介君が、円周型の馬用プールのプールサイドで、引綱を引きながら、頭を抱えてため息をついてますが。
しょーがないやん、気持ちええんだから。
それに、俺の馬体重、現時点で490キロを基準に下一桁が上下してる状態なんだけど、うっかり食事量そのままに運動量を減らすと500キロ簡単にいっちゃうんだよ。
おまけに、結構走る時の踏み込みも強いみたいで、反動が足にクるんだ……だから痩せなきゃ、でも飯は食べたいのねん。
だから運動量を維持するには、泳ぐのが一番なんだけど。
泳ぐのに慣れ過ぎて、適度に消耗するまで泳ぐにしても、時間が掛かっちゃうんだよね……とりあえず、美浦で一番泳げる馬の称号はゲットしました。
「じゃあ、次走はダリア賞ですかね?」
『ええ、そこからは戦績次第ですが、最終的に二歳は年末の朝日杯を狙いましょう』
新馬戦から数日後。
俺は、美浦のトレセンにある石河厩舎と、電話で連絡を取っていた。
「年末ですか、楽しみですね。
……あれ? でもダリア賞って1400じゃあ?」
『もっと距離を延ばしても勝てますよ。むしろ1200では短かった……新馬戦も、阪神の1400に回せば良かったと、少し後悔しているくらいです。
あと、試合間隔も、二か月とは言わず、一か月半とかもう少し短くても勝てると思います。回復すごく早いですよ、あの馬。
御覧の通り、レース直後も『もう終わり?』って顔してて、むしろジョッキーの大介のほうが疲れてたくらいで。
美浦に帰って寝たら、もう元通りって感じで……すごい馬ですね』
電話越しに話をする石河調教師……賢介の親父さんの声も明るい。
新馬戦を一勝し、OP戦へ。かなり幸先のいいスタートだ。
「あいつ、学校でもよく寝てましたよ。
賢介君も知ってる通り、幼駒の頃から学生のほうが早起きなくらいで、しまいには早く起こすと機嫌が悪くなるので、アイツの担当の時だけ朝六時起床になりましたね。
それでも起きないときは起きて来ないですからね……最長だと、朝の八時まで寝ていましたよ」
『賢介の奴が、キッドの当番の時に寝坊してきた言い訳、本当だったんですね……どやしつけちゃったけど、悪い事したな』
「ええ。
それで、ですね……今度、セールに出るキッドの全弟なんですけど、もし厩舎に余裕があるようでしたら、引き続きそちらにお願いしたいな、と思っていまして」
『え!? 本当ですか!?』
「まあ、セールで落札できれば、なんですけどね……農高の馬って事で評価低いから、狙えばいけるんじゃないかな、と。
学祭で様子を見てきたんですけど……ちょっとその……キッドとは別の方向で、面白い馬になってましたよ」
『別方向、ですか?』
「あえて言うなら……『外面が』ですかね。見たら多分、ビックリするような馬です」
なんというか……同じ両親で芦毛でも、ここまで違う馬なのか、というくらい、キッドと似ていない弟だったのだ。
幼駒の頃は、割とキッドについて回ってる可愛い奴だったのだが……
『はぁ……あの、失礼ですが、今更な事をよろしいですか?』
「え? はい」
電話越しに、改まった声で、石河調教師から問われる。
『先ほどのキッドの全弟もそうですが、何故……その、ウチに?
言っては何ですが、崖っぷちなウチより、ほかに有名な厩舎、いっぱいありますよね?』
「ああ、単純な話です。
調教師の技量云々よりも、入厩してる馬の数が少ない厩舎のほうが、一頭一頭、しっかり面倒見て考えてくれるだろうな、って思っただけです。勝ってくる事も嬉しいですけど、無事が一番ですから。
それに、石河……ああ、賢介君も居ますから、あいつならキッドの事も良くわかってるし、安心するだろうな、って。
あと、彼が居るならば、零細通り越して農高出の馬だってバカにしないだろうし、その……後が無いと思ってるからこそ、真剣に見てくれるだろうな、と。
まあ、究極的には、同級生のよしみってところでしょうか」
『ああ、なるほど……腑に落ちました。じゃあ、ご期待に添えるよう、頑張ります』
「はい、じゃあお願いします」
同じ県内の、霞ヶ浦を挟んで反対側と繋がった電話を切り、部屋に沈黙が落ちる。
「さってっと……キッドの預託料と、弟を買い取るために、頑張りますか」
関東にある農業系の大学に進学して、借りたアパートの一室で。
俺はパソコンに向かい、執筆活動を再開した。