「……なんだ、これ……?」
朝日杯から一週間後。
調教師として勝利の余韻に浸っていた自分に、強烈な冷や水が浴びせられた。
「これが新馬の走りか……嘘だろう?」
気になって、井出江厩舎所属の新馬戦を、飯を食いながらチェックしていたのだが……中にとんでもない馬が一頭、交ざって居たのである。
時刻は正午過ぎ。
他の馬の調教が終わり、キッドの奴もレース後の緩めの運動をさせて、厩舎で昼飯をのんびり食べている頃合いだった。
「おい、大介。お前も飯の片付けが終わったらすぐに来い、対策会議だ。
くそ、何が『推定マックイーン級』だ、あの井出江の狸め……そんなもん『軽くブチ超えて来やがるぞ』アイツは」
文字通り。
石河厩舎全体が深い衝撃を受け、パニックになっていた。
「ふぅ……ようやっと終わった……」
朝日杯の後。
ようやっと条件にかみ合う、セキュリティのしっかりしたマンションを見つけた俺は、身の回りのモノだけ部屋に放り込むと、朝日杯で名刺をもらった偉い方々への返礼と、抗議に協力してくれた厩舎の方々にあいさつ回りに行くことになった。
……まあ、もらった名刺の束を見た担当の新野女史が、その名刺のラインナップを見て泡を吹いてひっくり返り、以降、何故か厩舎へのあいさつ回りに彼女が付いてきた。(曰く『どこでどんなトラブルに巻き込まれるか知れたものじゃない』『トラブルを防ぐために私を連れていけ』だそうである)
で、そんな一週間近くかけたあいさつ回りが終わり。
何の気なしにテレビで新馬戦を見て……一頭の新馬の存在に絶句した。
「冗談だろう……?」
と……
唐突に携帯電話の呼び出し音が、鳴った。
『もしもし、蜂屋。俺だ』
「おー、石河」
『お前、引っ越し終わったか?』
「ああ、何とかな……それより新馬戦見たんだけど、やべーのが一頭いないか?」
『ああ、お前も見てたのか。なら話が早い。
そんな事よりも、お前冗談抜きに『キッドの全勝に当て込んで』、変な事に金つぎ込んだりしてねぇだろうな?』
「するかバカらしい! 経費以外はほとんど貯金だよ!!」
『そうか……いや、ウチの厩舎がキッドにガンガンに太鼓判押しちまったから、今更『予定が狂いました』とか言ったら、とんでもない事になるかもとか思ってて』
「やらねぇよ。馬で破滅なんかしたかぁねぇもん。
もともと俺はキッドを走らせたいダケで結果まで細かく考えちゃいなかったんだから。
大体、あんな騒動が起こらなければ、こんな高いマンションで生活したかぁねぇよ。小さくて狭いところ選んだつもりだけど、広すぎて全然落ち着かねぇ。
家賃も高いし、避難シェルターだと思って、騒動が落ち着いたらまた引っ越すつもりだよ」
『だよな……お前はそういう性格だったよな』
と……賢介の奴が、改まった声で。
『それより、お前に伝える事がある……『お前の目は確かだったぞ』って事だ』
「え?」
『覚えてねぇか!?
高校時代、お前に冗談でセールに出てる0歳馬を見せて、どの馬主になりたいって言ってお前が指定した馬!
寮の食堂でお前が馬主の話を聞いてきたあと、俺がその年のセールの映像見せた時、お前が答えた「ウインドインハーヘアの2002」! 7000万で落札されてた奴だ!!
……解説の血統見て気づいたんだよ……ゾッとなったぜ。お前の相馬眼は『信じるに値するからこそ、敵に回るとおっかねぇんだ!』』
賢介の言葉に、すべてを思い出す。
……そうだ……あのセールの中で一番『走りたそうな奴』を選んだよ……その時は馬主資格なんて取れる状態じゃなかったし、それ以前に7000万なんて大金、それこそ『爺さんの遺産を大半全部突っ込め』って話になっちゃうから、とてもじゃないが無理だし冗談半分でしか考えてなかったけど。
『しかも調教師は井出江さんだ!
メジロマックイーンやステイゴールドを育てた、伝説の調教師!!
そして、主戦騎手は……多分、今乗ってる館さんが継続するんだろう……』
「!!!???」
それは……俺でも知っている、伝説の騎手の名前。
数々のG1を獲得し、勝利で飾ってきた名騎手だ。
「じ、冗談だろう……」
『冗談でこんな事言えねぇ! 親父も今対策会議で兄貴と真っ青な顔で……あ? うわ、オヤジ!! 俺んケータ……』
ごそごそと音……というか、抗議の声と略奪の音がして……
『もしもし、蜂屋オーナー。お電話代わりました調教師の石河です。
賢介から大概の状況は聞かれたかと思われます。
我々としても、いくつかの道があると思っております』
「道……ですか?」
『ひとつ。キッドをダート路線に変更。
ひとつ。ウチからの転厩を条件に、障害調教を受けさせ、障害に路線変更。
最後、芝路線の継続……最後の場合は、最低でも何度か『奴』とぶつかる事をお考えください。
キッドは障害でもダートでも十二分にこなせます。見たところ、奴は今のところ芝専用とみて間違いはない。奴も調教次第で適応は可能でしょうが『幅』はキッドのほうが遥かに大きい。
アグネスデジタルを超える逸材だと思います』
芝とダート二刀流……うっかりすると、障害も含めた三刀流。
確かに、それもキッドならこなせるであろう。
……だが……
「芝路線は……捨てたくないです」
結局それは、どれも中途半端で終わってしまう。
そんな気がしたのだ。
『では、このまま芝のクラシック路線という事でいいんですね?』
「はい。ですが直接対決は可能な限り避けてください。可能な限り、相手の手の内を観察するように……確か、皐月賞のトライアルがあるんですよね?」
『はい、多分次に走った後、皐月賞のトライアル……弥生賞、スプリングS、若葉Sとありますが、キッドは朝日杯を優勝してる以上、皐月賞そのものの出走資格はあるので、別のレースをステップにする事もできますし、まるまる4か月休養に充てることもできます』
「別のレースで行きましょう。
万が一トライアルであちらとかち合ったら、こっちがヤバいかもしれない。
……二歳で少し派手にやり過ぎたかもしれませんね……」
『逃げ馬に地味に走れってほうが無茶ですよ。
むしろディープのやばさを、今の段階で気づけた人間がどれだけいるか……』
「パッと見、分かりづらいですもんね……今なら『強い馬がいる』程度しか分からないかも……ってことは」
『向こうはしっかりキッド対策を考えているでしょうね……むしろ、二歳のチャンピオンだから、こちらが狙われる立場ですよ』
「ですよねぇ。
すると……皐月賞が4月だから、大体二か月ごとのローテで考えて、2月に2000mのレースに出してください」
『え、ちょっと待ってください? 確か……無い、ですね……2000mのレース』
マジか……
『有るのは、共同通信杯、きさらぎ賞がそれぞれ1800m。すみれSが2200m……一応、香港に行けば、香港ゴールドCなんて2000mのG1レースがありますが』
「却下です。そんな遠征予算ありません」
『了解です。じゃあ……国内だとその三つですね』
「その中で考えると、一番日程が早いのが……共同通信杯?それでお願いします」
『了解しました。多分、斤量を増やされると思いますが、よろしいですか?』
「ああ、勝ち負けではありません。
あくまでレース間隔のローテーションを維持するためのレースなので、ケガしないで帰ってきてください」
『了解しました。では、失礼します』
電話を切り、天井を見上げる。
ディープインパクト……ああ、あの時……
「七千万あれば……なぁ……」
言ってもせんのない話ではあるのだが。
……まあ、落札したとしても、学生オーナーが超名門の井出江調教師にお願いして、
「いかんいかんいかん……金銭感覚、俺、おかしくなってるぞマジで……」
七千万の馬とか……今だってキッドが稼いだ二歳の賞金、7割近く突っ込まないと俺の懐で買えるワケもない高額馬だと思いなおす。
そもそも、キッドの預託費用だってバカにならない状態だったのに、0歳から見てもらうとなると更にかかるわけで……
「忘れよう……運と縁が無かったんだわ」
なんか、昔のアニメで、味方になるはずのロボが敵に回って大苦戦を強いられる話を思い出しながら。
ぼんやりとそんなことを思っていた。