前足痛い……後ろ足痛い……小錦が…小錦が曙とタンデムで鞍上におるぅ……
はい、いわきの競走馬の療養施設からこんにちは、バーネットキッドです。
ただいま全身筋肉痛……コズミックな奴に襲われております。
いや、レース直後は脳内物質のアドレナリン的なものが複数カクテルで効いていたので、芸でもなんでも出来たんだと思うのですが。
それが切れた途端に、地獄の苦しみにのたうっております。
……もー無理。今は無理だ。全身痛くてアイーンの一つ出来やしません。
そして……
『よう、ご近所さん』
『こんにちは』
仲良くディープの奴と一緒に、温泉に入浴中。
向こうも無事では済まなかったようで、俺がぶっ倒れた後に待機所へ帰ってきたら、右前足の蹄鉄が落鉄していた事が判明。
さらに向こうも俺と同レベルの全身筋肉痛のコズミックな奴に襲われた結果、大事を取って二頭揃って仲良く短期の療養施設行きと相成りました。
あれですよ。
お互い、気分は河原で殴り合って友情が芽生えた不良漫画のような感じですよ。
……まあ、もう一度一緒に走れと言われて、走りたいとは思いませんが。
……だけど同期なんだよな……こいつと……
『あああああ、癒されるー……もう動きたくねぇ……』
『変なにおいのするお湯だなぁ……』
とりあえず飯食って温泉入って、痛み止めの注射受けながら飯食って寝て……まるで病人みたいな生活だなぁ……楽っちゃ楽だけどやっぱ走りてぇなぁ……こいつ以外と。
「大馬鹿モノ」
「……はい」
お通夜のような雰囲気で始まった祝勝会は。
しかし、搬送先まで付き添った賢介からキッドの無事を知らされて、ようやっと安堵の空気が広がっていったところだった。
「だが、よくやった、よくやってくれた。我が校始まって以来、生産学科始まって以来の、凄い快挙だ。
だから……もうあんな事は、二度としないでくれよ?」
程よくビールの回った牧村先生の言葉に。
「以後、気を付けます……」
『二度とやりません』とは言えない……そう答えるしかない自分が居た。
「そうか、蜂屋……そうだよな。馬主のお前は、そう答えるしか無いよな……」
「すいません……」
「いや、解ってるさ。競走馬は愛玩動物じゃなくて経済動物だ。お前の答えは至極当然のモノだよ。
……だからな……ありがとう。明日、静舞に帰る前にマキノの墓に報告してくるよ……長年の胸のつかえが少し取れた気分だよ……」
「……先生……」
「案外、マキノの奴が押し返してくれたのかもな……それか、母父か」
遠い目をする先生。
「蜂屋……競走馬たちは、血と歴史を背負って走るもんだ。どんな駄馬と言われている馬だって例外じゃない。
だからな……キッドが帰ってきたのは……多分、最後の一押しになったのは……」
そのまま呂律が回らなくなり、ふらふらと船を漕ぎ始め……
「って、先生!?
……あーあー、俺と一緒で、強くないのに引っかけちゃって……」
とりあえず、ビジネスホテルを予約して放り込んでやるべきだろうな……これは。
「ごめんなさい。ご心配おかけしました、先生」
「僕が言うのも何だがね……君は、何も悪くないよ」
「……」
見るに見かねてくれたのだろう。
レースの後、首を吊りそうな気分になっていた俺を、館先輩が飲みに誘ってくれたのである。
「知らなかったんです……俺……」
「ん?」
「馬って頭いいじゃないですか? 無理なら無理って伝えてくれるじゃないですか?
だから『その馬ができる事をすべて探って、そこから計算してレースって組み立てるモンだ』と、今日まで思っていたんです」
「……」
「あいつ……最後まで俺に気づかせないように全力で……鞍上なのに、ぶっ倒れた時、頭真っ白になって寄り添うしかできなくって……館さんが『馬運車!』って叫んでくれなかったら今頃……」
無言で注がれる酒。
飲んで流せ、忘れろ、って事だろう。
だが……一息に飲み干して、俺は問いかける。
「先輩……教えてください……俺には手の届かない領域のあなたなら解るはずです。
やるやらないは別として……一流の騎手って『簡単にその馬の限界を超えて走らせる事ができるんですかね?』」
「そうだね……出来るか否か、と問われれば『出来る』と答えるしかないね……やりたいとも思わないがね」
「そうっすか……だったら、俺は……一流の騎手には、なれないのかも知れません」
あんな思いをするとは、想像だにしていなかった。
そりゃそんな逸話は、競走馬の世界にはゴロゴロしている。
自分も『いつかもしかしたら』みたいな覚悟はしていた。
その……つもりだった……
それなのに……いざ、愛馬ともいえるお手馬がああなった途端このザマである。
「そうかな……僕はそう思えるキミに一流になって欲しいけどね」
「……え?」
「知ってるだろうし今更だろうけど……この世界、馬を潰してでも勝ちに行こうとする騎手や馬主は、ごまんといるよ。
研究で見たけどね……キッドに乗ってから、君の騎乗は変わった。これまでは完全に馬を制御下に置こうとしすぎて、馬の個性を潰すような乗り方だった。
そこから一戦ごとに別物の騎乗に変化していった……目を疑うような変化と成長だったよ」
「……」
「君は……もしかしたら僕も、ディープとキッドの主戦を下ろされるかもしれないけど、二頭の戦いが終わったわけじゃない。
ただ正直ほっとしてる。キミとキッドの組み合わせは、ディープにとってかなり脅威だったから」
「俺以上のベテランなんて、幾らでも居るじゃないですか」
「だからだよ。ベテラン勢は、誰がどう来るのか分かりやすいから、ある程度対処もしやすい。
逆にキミは発展途上だからこそ、予想もしない変化が起きていたんだ。今回の騎乗なんか正にそれだよ……まさかあそこで二の足があるとは思わなかった」
「ははは……天下の館さんを騙せたんなら頑張った甲斐がありましたよ……」
そう、キッドにとって。1000m58秒台というのは、決して最高速ではない。
比較的速めではあるが、それでも『巡航速度』の部類である。
だからこそ、最後の最後、100m……否、50mでも力を振り絞れば二の足を使う余地が生まれるのでは?
そう思って、オヤジと一緒に調教をしてきたのだが……
「……まさか……こんな事に……」
と……鳴り出した携帯を取り出し、表示を見る。
キッドに付き添った弟からだ。
失礼、と断りを入れ、受話ボタンを押す。
『兄貴……キッドは無事だ。
極度の疲労、あと倒れたのは軽度の心房細動だろうって。疲労以外は後遺症もなしだ』
「そうか、良かった……」
『あと、オヤジから伝言。『酒飲んで暫く休め』だってさ』
「わかった……おや……いや、テキに、よろしく頼む」
そう言って電話を切ると……何の因果か、館さんも二、三短く携帯電話でやり取りをしていた。やがて……
「キッド、無事だったそうです。捻挫もなし。
倒れたのは軽度の心房細動で後遺症も無し。今はただ極度の疲労らしいです」
「そうか。こっちも井出江先生の所からだよ……右前足の落鉄。ただ、カメラで確認したらレース後に外れたものだから、脚に異常は無し。だが、キッドと同じで疲労が酷いから、短期療養だそうだ」
「そうですか……」
無事でよかった。
そう思い、俺は館さんのグラスに酒を注ぐ。
「二頭の無事に……」
「ああ」
そして、夜が明けるまで二人で痛飲し……翌日二人でデロンデロンになったところを地元の警察に保護される羽目になった。
「……これしかない、か……」
祝勝会という名の同窓会が終わり、ビジネスホテルに酔い潰れた牧村先生を放り込んだ後。
タクシーの中で考えていた俺は、馬主として一つの答えを出した。
進化する化け物……ディープインパクト。
このレースで負った傷は、向こうも浅いものでは無かっただろうが……その分こちら側を学習された事は間違いない。
まして敗北した向こうは退く気は無いだろう……ダービーでリベンジを果たしに来るはずだ。
それが、ただの普通の競走馬同士の勝負ならば何も問題はない。
だが、今回の一戦のような勝負を何回も連続でやったら、互いに進歩、進化の果てに確実にどちらか、あるいは両方が潰れて消える。
……ならば、避けるしかない。逃げるしかない。奴の来ない所で走るしかない……
問題は……
「出走条件が、最悪、運任せの神頼みにしかならないんだよなぁ……」
一応、皐月賞と朝日杯は勝っているとはいえ……最悪、父父と似たような道を歩まねばならないだろう。
意を決して、俺は携帯電話の電話帳から、石河厩舎への電話番号を選択する。
「もしもし、オヤジサンですか?」
『あ、蜂屋オーナー、今回は……』
オヤジサンの詫びの言葉を遮って。
「次のキッドのレースについてなんですが、宝塚記念って今のキッドの賞金で出走できますかね?」