「やあ、お久しぶりです、蜂屋オーナー」
大阪のホテルに前泊し、タクシーで阪神競馬場に向かった俺を。
馬主席に繋がる通路で、意外な人物が待っていた。
「え、園長……な、何でここに?」
「いや、俺も一応馬主やってて、今日の未勝利戦に出るから。
あと、君の事が少し心配になって、顔見ておこうと思って」
「いやいやいやいや、本当に申し訳ない、石河のオヤジサンから聞きましたが、オファーを断らざるを得なくて」
「いや、あんなレースの後じゃあ、しょうがないよ。
それにもう充分、JRAさんから番組用に写真とか映像とかもらってるから。
特にキッドとディープの仲良く温泉入ってるアレはウケが良くてさ」
ああ、あれか……
「っていうか、インタビュー見たんだけど、やっぱり馬主席怖い?」
「当たり前じゃないですか。
園長もそうですが、雲の上の人たちがてんこ盛りで、毎回毎回漏らしそうな程にビビりまくりですよ!」
「でもどんな偉い人でも、無敗三冠のかかったダービーを蹴って3歳宝塚に挑むなんて決断は、簡単には下せないよ。
凄い勇気のある決断だと思う」
「いやぁ、勇気とかそういった事以前に『やらないとキッドが潰れる』って危機感や恐怖感のほうが勝って……で、JRAに伝えたら、あんな会見とインタビューになっちゃって」
「はは、いいなぁ……こんな若いのに『馬主なんだ』って覚悟を感じるよ」
「なんというか、やらかしたというか、やってもうたというか、よく考えたら古馬戦線の人たちキレてもおかしくない判断だったかもな、と」
「そこはほら、勝負だもん。
勝てばいいのさ……そう信じてるんだろう?」
「はあ、まあそれは……確かに」
そんな感じで会話を進めながら、馬主席の扉を開き……
「おっ、若オーナー君が来られたぞ」
「今日の宝塚の主役が来たよ」
ひっ! ひいいい!!
「あ、ど、どうも、皆様、ご無沙汰してます」
もう大注目を集めてしまい、恐縮しまくる俺と、平然としてる園長。
……だめだ、根本的に人生で踏んだ場数の経験値の桁が違う……
と……
身なりのいい仕立てのスーツを着た、一人の社長と思しき方が近づいてきて。
「ああ、蜂屋オーナー、この度はありがとうございました。
おかげさまでというべきか、ウチのディープがケガも無く、ダービーを取れました」
俺の手を取って、深々と頭を下げられたのである。
「え……って、あ、ディープのオーナー様ですか!?
いえ、正直、私の馬を守るためにやった事ですので、感謝などは」
「いえいえ……正直、私共も困っていたのですよ。
無敗三冠を易々と許すワケには行きませんが、かといって馬が潰れては元も子もない。
ダービーは厳しい勝負になる事を覚悟していた所に、まさかのキッドが三歳宝塚出走……レースの勝ち負けは兎も角、オーナーの英断には本当に感謝しております」
「あ、頭をお上げください、そんな、本当に自分の馬を守るために勝手にやった事ですので!」
「いえいえ下げさせてください……この年と立場になりますと、背負ったモノが多すぎて、本当に気楽に頭を下げるなんて事が出来んのですよ。
『進む、進まない』という判断は誰にでも出来ますが『退く』という事のなんと難しい事か……愛馬を守るために真っ先に泥を被っていただいた事に、感謝しかございません」
「いや、どちらかというと、我ながら島津義弘の前方退却みたいな退き方になっていると思いますが……」
「ははは、なんでしたら、メインレースまでそちらの園長共々ご一緒しませんか?」
と……
「金戸さん、そりゃないよ……私も噂の若オーナー君と話をしてみたかったんだから」
「おや、吉沢さん」
よ、吉沢て……え、社田井の……
「初めまして、蜂屋オーナー。お噂はかねがね」
「い、いえ、こちらこそ!!」
雲の上の方々に大量に挟まれて、もう白目を剥いてひっくり返る寸前になりながら。
ああ、
……果たして、メインレースが終わるまで、胃が持つのだろうか、と考えていた。
「よう、石河。
ずいぶんと『ルパンの相棒らしくなったな』」
待機室で隆二の奴に声をかけられて。
俺は返事をした。
「おう、ようやっと見苦しくない程度に『生えそろって来たよ』」
あの日以降。
キッドの主戦を続けさせてもらえる事になった俺が願をかける意味で、鼻の下から顎にかけて整えながら蓄えはじめたヒゲが、ようやっと生え揃ったのである。
元来、騎手はヒゲを生やさない。
それは、馬群の中に限らず、レース中前を走る馬の文字通りの『後塵を拝する』事になるワケで、だからこそ勝ったとしてもヒゲが泥まみれになり、勝利インタビューで見苦しいものになりやすいからである。
だが……俺はバーネットキッドの主戦を任されている。
俺の騎乗任務は先頭で突っ走り、そして『誰の後塵を拝する事もなく』ゴールへと飛び込む事。
故に、その任を全うする意味を含め。
こうしてヒゲを蓄える事で、願をかけることにしたのである。
『先頭至上主義のヒゲのジョッキー』
不思議なもので。
一般的な馬たちとは違う、少し特異な『逃げ、先行タイプ』の騎乗依頼が、俺によく来るようになり、それでいてまた勝率も上がり始めてる事から、何時しかそう呼ばれるようになっていった。
「いやぁ、イイ感じに覚悟決まってるなぁ……」
「お前がオペラオーに乗ってた時もそんな感じだったぞ」
「いや、俺はヒゲ生やしてないから。っていうか、キッドから降りたらヒゲ剃るの?」
「当たり前だろ。キッドから降ろされたら、多分俺は……」
ふと。思い出す。
『自分が自分じゃなくなる事が怖い』と言った、去年のこいつの言葉を。
「ああ、そうか……お前は、だからか」
「ん?」
「いや、自力でG1取るのに『昔の自分なんて振り返っていられないよな』って事」
「やっとその怖さに気づいたか」
苦笑する隆二の奴。
「石河、予告しといてやるよ。
もう『降りられないぞ』……たとえバーネットキッドから降ろされても、多分お前は『もう競馬から降りる事ができなくなっちまってる』。
俺がオペラオーに乗り続けて、もう降りられなくなったように……な」
「ったく……そうかよ。まあ仮にそうだとしても、このヒゲはキッドの引退と一緒に落とすつもりだよ」
そう答えたものの。
後に……バーネットキッドが引退し、フリーの騎手となってからも、ずっと、ずっと。
このヒゲが騎手としての俺のトレードマークとなり、長い付き合いになるとは、その時は思いもしなかったのである。
はーい、阪神競馬場からこんにちは、バーネットキッドです♪
現在、パドックにて『笑ってはいけない阪神競馬場パドック』を実行中。というか……
「あのな、キッド! 古馬! 古馬相手だからな!? 少しはディープの時みたいに落ち着いて相手警戒しろよ! っていうか落ち着いて警戒しろくださいお願いしますこの
半泣きになってる厩務員君を尻目に、今日も営業の愛想を振りまき中。
しかし……ダービー回避して宝塚行くって聞いたのが、馬運車に乗せられる三日前ってどーいう事なんでしょうね。
まあ、馬にスケジュールしゃべる調教師ってのも、居るわけが無いんですが。
しかし、ディープとは有馬で……か。
確かに奴はバケモンっちゃバケモンだったしな。
結局、お互いに猶予を8か月ばかりもらった、って形か。
……次、勝てるかなぁ……
ま、とりあえず。今はサービスサービスゥ♪
『おい、若ぇの……』
あ、おっさん♪ カメラ向けてくれたね、ウィンクしてちーっす♪
『聞こえねぇか若ぇの』
お、目の前の親子連れの子どもたち、よーし、お馬さん、変顔頑張っちゃうぞ~♪
べろべろべろべろべろ~ん♪
『……イワすぞガキ……』
ンだようっせーなージジィ?
『若ぇの、パドックは静かに回るモンだぜ。ほかの馬に迷惑だ』
『そうかい、でも周囲の人間にはウケてるぜ?』
『あのな……俺たちはこれからレースをするんであって芸をするんじゃねぇんだ。
俺は気が長いほうだから忠告してやれているんだぜ?』
『へぇ、そうかい?』
と、丁度よく止まれの合図と共に。
ジョッキーたちがやってくる。……兄貴、かっこいいヒゲになったなぁ。
『おう、若ぇの……名前と年齢は?』
『バーネットキッド。3歳。そういうオッサンは?』
『……ロブロイ。ゼンノロブロイだ。これでも5歳だ』
うわぁ……
『5歳でそれかよ、老けてんな』
『病み上がりなんでな……まあ、お前みたいな跳ねっ返りの若造一頭『分からせる』くらいは造作もねぇさ』
『そうかい……』
じゃあ、そのまま頼むぜ……何せ……『舐めてくれているほうがやりやすいからな』。