「おいおい、酷くなってきたぞ……」
午前中は辛うじて曇り空だったものが、新馬戦の頃から空模様が怪しくなり始め。
メインである札幌記念の発走時間には、ザーザー降りと言ってもいい大雨になってしまっていた。
……下に居る後輩君たちや先生は、大丈夫だろうか?
むしろ、この状況下でレースをしようとするほうが、何か起こりそうで怖い。
「大丈夫かなぁ……」
「ああ、心配いらんだろう。手加減は心得ているだろうから死にはせん」
「え? ……ああ、新野女史のパパさんのほうですか」
先ほどまでの地獄絵図を思い出した。
なんというか……午後になって馬主席にやってきた新野パパを見つけるなり。
暗黒面というか殺●の波動というか、そんなのに目覚めた新野女史が、篠原のおっちゃんに挨拶するパパの背後から、片足あげてすーっと地面を滑るように近づき、間合いに入るやワシっと肩をつかみ……
「お・と・う・さ・ま?」
よそに聞こえないように小さくも。それはそれは地獄の底から響くような、瞬で獄殺する気満々な声が響いたのである。
実際、そこから先は地獄のような光景であった。
「ま、待て、由香里……これは社長同士の付き合いという、業務の一環で」
「ほう……では、あのお馬さん、お幾ら万円だったのか・し・ら?」
「え、えっと……そ、ソンナニタカクナイヨ? もう前回で懲りたから……」
「懲りた? ……懲りたと申しましたか?
その割には、お母さまにも内緒で購入されておられるようですが、一体お幾ら万円だったのか、ここで白状なさったほうがよろしいかと?」
「ほ、ほんの五百万の馬だって……出走手当と時々掲示板に載れば、元は取れる金額だから」
「では、あの懇意にしておられた牧場に直接電話をして確認を」
「ひいいいいい、ストップストップ!!」
「……………本当の値段を言わないと、家族に黙って馬を買った事をお母さまにバラしますよ?」
「に、二千万ほど上乗せしております……」
「お・と・う・さ・ま」
「か、勝てば! ここ一勝すれば!! 素質はあるんだ! 頼む!」
懇願する新野パパ。
そして、運命の『札幌競馬 第7レース 3歳以上500万下 ダート1700m』が始まり……
「申し訳ありません、おじ様。先生。
少し母や兄たちと、緊急の家族会議を開きますので今日はお暇させて頂きます」
「いってらっしゃい、由香里」
「会社には『直帰した』って俺から伝えておきますねー」
見事に掲示板外に大爆死してドナドナされて行く新野パパを、俺と篠原会長は生暖かい目で眺めながら見送っていた。
「なんだろう……この塾バックレて一緒にゲーセンで遊んでる友達が、カーチャンに取っ捕まって引きずられていったみたいな気まずさ」
「まあ、社交だ何だって言っていても、本質的に『ゲーム』であることに変わりは無いからね……」
……のめり込み過ぎると、あーなるって事だよな……俺も注意しなきゃなぁ。
遠い目で外を眺める。
窓の外の雨はいよいよ勢いを増して、ザーザーという音が響いていた。
お、クアッド勝ったか……
待機してる馬房から、馬イヤーで歓声と共に流れるアナウンスを聞きながら、結果を悟る。
……兄弟そろって新馬戦勝利からの勝ち上がりか。幸先いいな。
やがて……
『兄さん、勝ったよ♪ 勝った♪』
『おお、おめでとうクアッド!!』
馬装を外したクアッドが、待機用の馬房に戻ってきたのを迎え入れる。
さーて……これは……兄の威厳を示す意味でも負けられんなぁ!
……と、思っていた時が俺にもありました。
「ひひーん!(嫌だっ! 嫌だって! 完全に大雨じゃねーか!!)」
「こーら、キッド! レース! レースだって!
ああもうほら、多少は悪ふざけして構わないから、パドック行くぞパドック!」
「ぶるるるる……」
馬装を終えてパドックに行く頃には、怪しかった空は既に本降りの大雨になっており。
精神的にコンディション最悪な状況になっていたのである。
「ったく、なんでプールやシャワーは大好きなのに、雨を嫌がるかね?」
「ぶるるるる(全然違うわ!)」
確かに水は気持ちいいけど、雨は最終的に泥まみれになるから嫌なんじゃ!
雨合羽姿の厩務員君と一緒に、パドックをぐーるぐると回るのだが……やっぱり雨だけあって人が少ないというか……こんな状況下で前に出てパドックの馬たちをガン見してるのって、殆どが赤鉛筆耳に挟んだ、香ばしい顔のオッチャンばっかり。
……俺、この手の人たちからは嫌われてるんだよなぁ……笑いかけても変顔してもウケが悪いし……
「ぶるるるる」
ばたばたと首を振って、水滴をまき散らしてやる。
「わっ……わかったわかった。後で人参やるしブラッシングもしてやるから、キレイにするから」
「ぶるる……(その言葉を忘れんなよ)」
やがて、止まれの合図と共にやってくる
「兄貴、この雨でキッドはご機嫌斜めだ。こりゃとっとと行って帰ってくるに限る」
「要するにいつもと変わらない、だろ?」
「まあ、そうなんだけどさ。
このコンディションで馬群に飲まれたら、どうなるか分かったもんじゃないからマジで気を付けてくれ」
「ああ……そういえばそうだったな。雨の日にダートで併せ馬したら、途端にやる気なくしてたもんな」
「ぶるるるる(あん時ぁ最悪だったわ!!)」
泥まみれのぐっちゃぐっちゃで、出来損ないのシマウマみたいな姿になって帰ってくる羽目になって、自力で水道の栓開けてホース咥えて水浴びしたよ! ……周囲にびっくりされたけど。
「一応、アナウンスだと馬場状態は良馬場だって言ってたが……鵜呑みには出来んな」
そして、返し馬が終わり、ゲート入りし……
『ぷぺぺぽぴー!!♪ ふぉーんふぉん♪ ぷぺぺぽぴー!! ふぉんふぉんふぉんぷぴー!!』
ぶっ!! な、なんじゃあのファンファーレは!?
なんか物凄く力の抜ける、頓狂なファンファーレを耳にしてビックリする。
……後で知ったのだが、札幌記念のファンファーレって全国の競馬場の中でも一、二を争う程、演奏が難しいらしく。
更に雨の中で屋外待機させられた北大の楽隊の皆さんは、楽器、人間共にコンディション最悪な状態で演奏する事になったためだとか。
さもありなん。
もー……洋芝はぬちゃぬちゃするし、雨は酷いし……ああもう! さっさと勝って帰るぞこんなレース!!
俺の枠順は2枠2番。
偶数のゲートに入り……さあ、いつもの競走馬の時間だ!
俺の最大の武器、ゲートが開いた瞬間の開幕ダッシュを……
ずるっ!!
(……え?)
「うっ!」
キメようとしたスタート直後……僅かに足を滑らせてしまい、いつもの加速が出せず。
結果、ほぼ横並びのスタートとなってしまい……って、え!? ちょっ!? こら、寄るな! 俺は前に……って、おい、テメェ出鞭とか、お前ら逃げ馬じゃないだろうって……え…うそ……おい……
「嘘だろう!?」
なまじ、内枠だっただけに。
僅かな出遅れが原因で、がっつりとスタート直後から馬群に飲まれ、前も横も完全に周囲をロックされてしまった。
……っていうかこれって……
「くっそう! やられた!」
札幌記念の天候やらレースやらを調べてるうちに聞いた、例の『プペペプピー』を聞いて以降。
自衛隊その他の方々がどんだけ綺麗に演奏しても、脳内に北大のアレがこびりついて離れません……