「よし! 良いタイムだ」
栗東のとある厩舎で、ジャパンカップに出走する『ある馬』の、最後の調整が行われていた。
「これなら……」
「ああ、『バーネットワールド』にも十分対応できる」
バーネットキッドの絡んだレースは、軒並み超高速展開が繰り広げられることから、既存の競馬とは一線を画した世界に放り込まれ……結果的に既存の調教では実力を発揮し切れない馬が出るケースが多発する事から、一部では『バーネットワールド』『バーネット展開』などと揶揄され始めている。
それでも、一流の調教師、騎手たち、そして生え抜きの精鋭たる馬たちは、その展開に対応できるようになりつつあった。
無論、馬にかかる負荷の大きさもまた、加速度的に増していく事となり……タダでさえ神経を使う競走馬の宿命であるケガや疲労の大きさもまた、増えていく事になる。
(スピード、スタミナ……そして何よりも馬体の頑丈さと回復力。
正に『総合力』の競馬が問われる世界、か……)
もとより、瞬発力に優れ勝負根性の高いサンデーサイレンスの系譜には、しかし、フジキセキやアグネスタキオンを筆頭に、スピードに優れてはいるものの、脚部に不安を抱える馬が(母数の多さを差し引いても)意外と多い(無論、ステイゴールドのような例外もそれなりにいるが)。
だが、バーネットキッドは……聞く限り、競走馬としては異様なまでの食欲とタフさを備えており、500キロ級の大型馬にも関わらず、あれだけ激しいレースを繰り返しても『脚部不安が出た』なんて話は、ついぞ出て来ない。
更に従順で人懐こく、調教にも積極的で大人しく従い、勝負根性に優れて負けん気も強く。それでいてレース自体を理解しているのではと思わせるほどに賢いのだ。
こんな馬を相手に、無茶をしてレースに勝ったとしても……そのレース限りで終わってしまっては、タダでさえ短い競走馬としての寿命を更にすり減らす事になってしまう。
正直、調教師としては、あの怪盗に関しては『うらやましい』と嫉妬せざるを得ない美点ばかりである。(なお賢過ぎて色々やらかしている奇行や悪行と、それに伴う石河調教師の禿げ上がり具合については、石河厩舎の人間以外、全員見なかったことになっている。万人全て、隣の芝生は常に青いのだ)
そして研究した者たちの共通の結論として、バーネットキッドの末脚は『一流ではあっても、ゼンノロブロイ、スイープトウショウ、そして……最大のライバルであるディープインパクトといった『超一流』には及ばない。G1の舞台で『通用』はするが、『絶対の武器』ではない』と見ていた。
(だからこそ、早々に逃げ馬として活路を見出して、スタミナと巡航速度も含めた総合力で勝負に挑む、現代では異端のスタンスに落ち着いた……と)
結果……本当に溜息をつきたくなる程の、正に飛翔と呼ぶにふさわしい戦績を残す怪盗に対し。
自分の管理する厩舎の牡馬の中でも、現時点でエースたるこの馬は……G2、G3では堅実な結果を残すものの、G1ではいまいち勝ちきれていない。
だが……
「17年の時を超えて……か。
これで燃えなきゃホースマンじゃないよなぁ……」
そう呟きながら、『マイソールサウンド』……タマモクロスを父に持つ馬を管理する調教師は、雪が降り始めた外を遠い目で見ながら呟いた。
なお、その頃、同じ栗東の馬場では……
「スイープ……僕もぉ疲れたよ……なんだかとっても眠いんだ」
雪が降りしきる中。
パトラッシュに寄り沿うネロの如く、実験的にキッドを利用した調教をやめた結果、機嫌が悪くなって動かなくなったスイープトウショウに縋りつく、体に雪が積もった主戦騎手の姿があった。
「……やっぱり、キッドをダシに使わんと無理か……」
遠い目で、スイープトウショウの調教師が呟く。
秋の天皇賞から二週間後のエリザベス女王杯にて。
出走前にダダをこねて5分遅延という『風物詩』をやらかした結果、三度目の調教注意から30日の出走停止を喰らい、G1タイトル獲得と同時に今年の冬シーズンを棒に振ったスイープトウショウは、目下、来年新設されるヴィクトリアマイルを目指して調教中であった。
「……あ、キレた……」
新野女史との打ち合わせの後、部屋に閉じ込もって十数日。
食事はマンションの下にあるスーパーで買い物すりゃいいが、いくらインドア人間だとしても、全く外に出られない生活というのはストレスが溜まる。
新作ソフトも積みゲーも消化し切り、数少ない積みプラモも消化してしまい、もう出るに出られず遊ぶに遊べず、ひたすら執筆執筆でストレスが限界を超え……心の中の何かが、プツン、とキレて。
「もぉやってられっかぁぁぁぁぁ!
ええい、取材だ取材! 取材って事で外出すんぞー!!」
と叫ぶと、運動も兼ねて、自宅からママチャリを漕ぎながら、散歩がてら東京競馬場へと向かったのである。
……うん、かなりヤケクソ感のある行動だったが、見張っていた人間にはスルーされたらしい。
そりゃそうだ、ここ二週間、買い物以外まったく外に出てないんだから。
「あー……久々の運動気持ちいいなー……って、あ……」
上着のジャンパーに長袖シャツにGパン姿で、家の鍵と携帯と財布だけ持って、チャリで出たのだが……ふと、府中の正門に着いたあたりで気づいてしまったのだ。
「府中競馬場の駐輪場って、ドコにあるんだっけ?」
勢いだけで出てきてしまい、肝心な事を考えておらず。
はた、と困って……そこで更に、気づく。
「そっか、俺、馬主だから、馬主特典ってヤツが使えるじゃん?」
うむ、特典があるのならば、使わない理由は無い。
なので……
「すんませーん、馬主特典でここにチャリ留めていいですか?」
「……はぁ!?」
正門前の馬主専用駐車場に話を持っていくと。警備の人たちが見せつけられた馬主登録証にひとしきり困惑した顔をしてたが……なんだよ、ドレスコードがある馬主席なら兎も角『チャリで競馬場に来ちゃいけない』なんてルールはあるまいよ?
で、自転車を置かせてもらうと、とりあえず博物館やら銅像やらを見物して、系譜別に纏められた競走馬の歴史に思いを馳せつつ。……詳しく解説された特別展のオグリの展示を見ると、なんかだんだんジワジワと『あの悪童の祖父って、ホントみんなに愛されて凄かったんだなぁ』とか考え込んでしまう。
……いや、冗談抜きに残して行った軌跡が、少年漫画みたいな展開だよな、ホントに……
そして、昼飯に、色々と屋台なんかをつまみながら『一般の場所ってこーなってんだー』と観客席やら何やらを見て回り。最後にパドックでも覗いてみるか……と思い……
「あ」
「!?」
石河……賢介のヤツが、パドックで自分の厩舎の担当馬を引いてた。
というか、目が合って互いに気づいても向こうは仕事中だから、黙々と引綱を引いている。
……ふむ……今、第8レースか……
考えてみると、俺って馬券を買った事が無いのである。
まあ、あれだ……ちょっとした運試しだ。要はこの連中の中で一番『走りそうなヤツ』を選べばいいんだな?
「……うん、8番のシルクダッシュだな」
とりあえず、現在の所持金の総額は3000円なり。なので財布から1000円を突っ込んで……
「あ、当たった……」
単勝5.4倍、配当金5400円なり。
よし、お遊びだ、次もアタリを全部突っ込もう。
「このレースは……うん……メジロニコラスだな」
そして……
「おう……当たった」
単勝7.2倍なので、38880円。ちょっとしたもんである。
「次だ次……うん、これは間違いないな、マチカネキララだ」
当たった総額から、端数の80円を差っ引いて投入。
倍率は1.3倍だからさほどでもないが……
「5万飛んで440円か……まあ一番人気だしこんなもんか」
端数の440円はポケットへ。
そして……
「うん、4番のデンシャミチだな……」
7.1倍に5万円。で……
「……あ、当たった」
35万5千円。
うん、大金だ。ここで止めるのも手だけど……
「まあ、元は1000円なんだし、最後の12レースだ、楽しんで行くか……うん、ヒカルウィッシュだな」
そう割り切って、全額を再び単勝でブッコミ……
「しまったぁ……袋もカバンも持ってくるの忘れた」
馬券のまま財布に入れて持っておけば良かった、と気づいたのは、興奮して換金してしまった後で。
流石に150万近い大金を、むき出しのまま生でママチャリの前かごに入れて持ち歩くワケには行かず。
ふと『コレって税金の申告が必要になる金額だよなぁ、確か一時所得だよね?』と思い直し、また面倒な事になりそうだなぁ、と頭を抱える。もう年末だし、早めに税理士さんに書類ぶん投げないと……
「しょうがない……こうするしかないよなぁ」
透明なビニール袋に札束を突っ込んで包むと、それを服の中にしまい込んでガムテープで固定。
「じゃっ、ありがとうございました~♪」
目立たないように駐車場のすみっこに置いてくれた警備員さんに感謝しつつ。
そのまま、初勝利に気分を高揚させながらママチャリを漕いで無事帰宅し……。
『先生……昨日、東京競馬場で先生を見たって人がいるのですが。
というか、正確にはおじ様が馬主専用駐車場から先生がママチャリ漕いで出ていく所を見かけたそうなんですけど』
翌日の朝、掛かって来た電話で、篠原会長経由で、新野女史にあっさりとバレていたらしく。
以降『馬主専用駐車場にチャリを持ち込むな』とキッチリお説教を喰らいました。……ぎゃふん。