師走、美浦トレセン。
ウッドチップのコースを、二頭の馬が併せ馬で走っていた。
二頭共に、紫地に金文字で描かれたゼッケン……すなわち、G1馬たる証明を背負い、馬場を駆け抜けて行く姿は、正に二頭共に美浦のエースに相応しい力強さを示していた。
『ったく……全然元気じゃねぇか古いの。何が引退だよ』
『けっ、元気じゃなくっちゃボスは務まらねぇんだよ』
バーネットキッド、そして……ゼンノロブロイ。
二頭の併せ馬は、比較的緩く、しかし……
「引退、ですか」
「ええ……」
『ゼンノロブロイ、有馬記念を最後に引退』
その一報は、厩舎や関係者のみならず。
美浦で暮らしている馬たちにも衝撃を与えていた。
なんといっても、ゴリゴリの縦社会である馬の世界で、美浦トレセン全体に睨みを利かせていた大親分である。
それが引退ともなれば、後釜やら序列やらの変動が起こるのは、社会性を持つ生き物である以上、当然の出来事であり。
そんな事情を気にしないのは、美浦の馬社会である種のキチガ……もとい、
『ったく。ジャパンカップの時点で、もう既に引退キメてやがったんだろ、親分?』
『ボスが迂闊に話を洩らせるかよ。
まあ、暫くはかわい子ちゃんと戯れる生活になるみてぇだが……その前に、有馬でしっかりツラを拝んでおきたい相手も居るからな』
『誰?』
『『お前を一番追い詰めた』って栗東の野郎だよ』
『あー……』
そういえば、ロブロイ親分、ディープのヤツとは一度もぶつかってないんだよね……年齢差を考えれば当たり前なんだけどさ。
というか、3歳馬と5歳馬で、3度もG1レースで激突し合ってる、俺とロブロイ親分の関係のほうが、色々とおかしいワケで。
『お前から見て、どんなヤツだ?』
『牝馬みたいにちっこくて、普段はのんびりしたフツーのヤツです。
でも、レースになると性格が変わるタイプですね。負けん気が凄いから大変らしいです』
『……誰かさんみてぇな野郎だな』
『はて何のことやら』
しれっと返事を返すと。
親分が真剣な顔で問いかけてくる。
『ところで、若いの。
お前、何時まで
『古いの。俺が『ボス』なんて
『あのなぁ、少しは自分の影響力を自覚しろよ?
お前が自分の厩舎だけでもボスに就けば、
『そりゃ大変ですね。
俺を飼いならせる度量を持つ、親分の後を継げるヤツを探せ、って事なんですから』
と……
『一頭、力量的に後釜に相応しいのが居るには居るんだが、なぁ……』
『ほう』
『そいつは傾奇者でな。群れようとしねぇんだ』
『ふーん、やる気が無いならショーがねーんじゃないですか?』
『なんとかヤル気を出させる方法はネェもんかね?』
『どーなんでしょーねー……『群れの親分』なんて柄じゃないんでしょ、ソイツは』
などと、話を振って来た親分に応えてみると。
親分は深々と溜息をつき。
『まったく……最近の奴らは分かんねぇよ。
馬として、雄として生まれたなら、群れの頂点を目指すモンだろうが』
『その『分からないモン』を傍に置きながらも、美浦全体を統率する度量が要るんでしょー? 『
大体、親分ってのは『分かりやすく見せないと』下が付いてこないモンです。
誰だって『何考えているか分かんない基地外』になんて、付いて行きたく無いんですよ』
『……まいったね、傾奇者に群れ長の心得を説かれるとは』
『まー、ぶっちゃけ、知ってるからやりたくないの。そーいうのは弟に任せた』
『そういうのを『知ってるヤツ』に担って欲しかったんだがなぁ……』
『お疲れ様です、親分。最後のお勤め、お気張りなすって』
『あっさり他人事にして逃げやがって……なら、しゃぁねぇか』
そう言うと、鞍上の指示で最後に別れ際。
『おう、若いの……』
『譲りませんよ。有馬も』
親分の言葉を遮って、返事を返す。
『ちっ……少しは浮かれて油断しろよ。可愛げのねぇ』
すんませんね、親分。
どう頑張っても、『あいつ』相手に油断なんて出来ないんですよ。
で、いつものクールダウン(?)のひと泳ぎのために、プールに行くと。
カメラを始め撮影機材を抱えた人たちが何人かと、アナウンサーと思しき女性が一人。
……園長がおらん所を見ると、競馬関係の番組だろうか?
そういえば有馬が近いし、一応、有力馬の端くれだったか、俺も。
しかし、公開調教で見せるのがプールか……よし、ちょっと頑張っちゃおう。
「じゃ、泳がせますよー」
で。
いつもより少し力を入れて、ザッパザッパと泳ぐこと暫し。
「一周、18秒から17秒。これって早いですよね?」
「はい。大体一周50メートルで、泳ぎが苦手な馬だと40台後半から50秒台。得意な馬で20秒台前半ですから、かなり得意……というか、多分、美浦だと最速ですね」
「これ、ギネスに載せられるんじゃないですかね?」
「『世界一速く泳ぐ馬』ですか? 記録とかジャンルがあるんなら、確かに載せてみたいですね」
などと、やり取りをする石河
で、プールから上がると……
「うわぁ……プールに入る前は白くてモフモフで『可愛いなぁ』って思っていたんですけど。
プールから上がると、毛が濡れてムキムキの筋肉が浮かび上がって。『ああ、競走馬だ』って……失礼ですが、やっぱりその……こうして見ると本当にG1馬なんですね」
「まあ、園長の動物園だと人懐こいコメディホースをやっていますが、実際は現役の競走馬ですからね。
何だかんだ、調教は素直で真面目にこなしてくれているので、本当に助かっています」
おお、筋肉か? 筋肉がウケるのか?
……はて? どんなポーズを取ればいいのだ? つか、人間のボディビルダーみたいなポーズって、馬にあったかな?
「じゃあ、最後に、有馬に向けての抱負を……」
おう、〆だな。
じゃあ、せーの……アイーン♪
「キッド、だからアイーンはいいの、アイーンは! そっちの番組じゃないの!」
「いえいえ、オイシイ映像、頂きました。ありがとうございました♪」
変顔をして芸をする競走馬……最早、不動のアイドルホースと化したバーネットキッドの姿を見て、くすっ、と笑う声が部屋に響く。
だが、モニターを見つめる、厩舎関係者と騎手全員……それも、最大のライバルと目されるディープインパクトを預かる、関係者の面々は微笑こそあれど目は真剣だ。
「冬だってのに、よく泳ぐモンだなぁ」
無論、美浦も栗東も、トレセンのプールは温度管理もされた温水プールであり、更に馬という生き物は、比較的寒さに強い生き物ではあるものの。
それでも『積極的に冬場に水泳をしたい』などという馬は稀である。
「担当厩務員曰く。
少しプールを制限したいらしいんですが、そうすると勝手にトレセンを脱走して、霞ケ浦まで泳ぎに行きかねないそうです。
実際、夏場に一度、深夜に馬房から脱走して、トレセン抜け出す寸前まで行って軽く騒ぎになったとか……報道はされていませんが」
「ああ……その噂は聞いたな。札幌記念で相当に機嫌を損ねたとか何とか」
「それこそ、あの札幌記念みたいな状況になれば、ウチのディープの独壇場なんですがね……」
いくつかあるバーネットキッドの武器の中でも、大きな武器の一つ……テン1F11秒台がデフォの最速のスタートダッシュは、それこそ直線短距離の『アイビスサマーダッシュですら通じるのでは?』と思わせる程に鋭く。それでいて1枠1番という『出走馬中、最長時間のゲート入り』も苦にしないという、落ち着きっぷりである。
その点は圧倒的にゲートが苦手なディープよりもキッドに軍配が上がる。
「で、美浦に行って、直接見て来た感想はどうだ?」
「どうも何も……多分、キッド自身が僕の事、完全に覚えていますね。
僕が顔を出してる時の調教は、本当に適当に流している感じでした」
「まあ、そうか。
しかし、キッチリ仕上げて来たなぁ……石河さんも」
モニターに映る、バーネットキッドの馬体を見て、老練な名伯楽が呟く。
水にぬれた馬体は、うねるような張りを持つ筋肉を浮かび上がらせ、仕上がりの良さを如実に主張していた。
「どうだ? 勝てそうか?」
「勝ちますよ。
前回はディープ自身も僕も、初めて見るキッドの大逃げに対応出来なかった。
今回は違います」
あのサイレンススズカを彷彿とさせる『溜め逃げ』を思い出す。
アレで完全に仕掛けどころを『見誤らされた』結果、苦杯を舐める事になった。
だが………
「『ある』と分かっていれば、ディープならば『なんとかなる』と信じます。
どのみち、レースは確実に時計重視の『真っ向勝負』になるでしょうから」
「そう、それだ。
時計で気になったんだが……『去年のゼンノロブロイ』、超えて来ると思うか?」
2分29秒5。
去年、有馬記念にゼンノロブロイが『秋古馬三冠』の称号と共に刻んでいった、有馬記念のレコードタイムの蹄跡。
それに対して……
「『超えるか否か』は兎も角。確実にそれに近いタイムで来るでしょうね」
「だよ、なぁ」
一時停止したモニターの中で、仕上がった馬体を見せつけるバーネットキッドを見て。
ディープインパクトの騎手と調教師の二人は、激闘の予感をひしひしと感じていた。
「まったく、厳しい戦いになりそうだ」
アイドルホースやってる白毛の可愛いソダシが、シャワー浴びた途端、濡れて萎んだ白毛の下からムキムキの筋肉が浮かび上がって来て『あ、競走馬だ……』って否応なく理解させられる、あの感じです。