『オグリ! オグリ!』
中山を揺るがすオグリコール。
誰もが、『終わった』『力尽きた』と思っていた
『おい、お前、オグリキャップやからな』
鞍上の天才のエールに応え、最後の最後に見せてくれた夢。
あの熱量の夢は、今までの長い調教師生活でも味わった事の無い、最高の夢だった。
そう、最後だった『はず』の夢……。
「……いかん、寝過ごしたか」
散らかりきった資料の山で目を覚ます。
どうも、真剣に調べものや考え事をしている内に、自室の机で寝落ちしてしまったらしい。
昔はそんな事は無かったというのに……いやはや、歳をとったものだ。体を起こした途端、腰や背骨がポキポキ鳴って、正直痛い。
しかし……
「ずいぶんと懐かしい夢を見たなぁ……」
あの時、強く思ったモノだ。
この
オグリの子や、孫たちを鍛え上げ、GⅠ……否、オグリが挑む事すら出来なかった、ダービーに乗り込んで、誰かが栄冠を手にするのだろう、と。
そんな『熱い夢の続き』を夢見て……夢は夢として終わった。
無論、分かっていた事だ。
競走馬としての能力と、種牡馬としての能力は違う。
何より、サンデーサイレンスという、種牡馬としては桁の違う才能の持ち主が日本に現れた、という時期も悪かった。
今では自分の厩舎で面倒を見ている産駒の殆どが、サンデーの系譜に連なる馬たちばかりだ。
だが……
「……凄い連中も居たモノだ」
誰が想像しよう。
その夢で終わったハズのオグリの孫が、サンデーの忘れ形見と死闘を繰り広げる、今の日本競馬界を。
そして……そのオグリの孫の片割れと、あの時オグリが挑めなかった皐月賞で、自分が迎え撃つ立場になろうとは。
しかも……
「自在脚質なんて……今どき、とんでもない代物を石河さんも繰り出して来たものだ」
出走する馬の脚質やタイム、騎手のクセその他から逆算すれば、おおよそのレース展開は読める。少なくとも、それだけの蓄積は自分にはあるし、他の調教師たちもほぼ同様だろう。
だが……『何でもアリ』の脚質が交ざる事によって、レース展開の予測そのものが、玉突き事故のように変化してしまい、勝利への筋道を検索する事は、より困難になる。
そう、クアッドターボが仕掛ける自在脚質という負荷は、レースそのもの以上に、裏方である調教師に重くのし掛かって来るのである。
だが……
「とりあえず、『逃げ』は無いな」
老練な調教師は、あえて、その選択肢をバッサリと捨てた。
全兄であるバーネットキッドや、クアッド自身の初陣に眩まされそうになるが。
『あの馬の本質は、後方から直線での末脚にある』と、彼は見ていた。
無論、『賭け』である。
あの狂気の怪盗を擁する石河厩舎だ。奇襲作戦なんてお手の物だろうし、それが自在脚質の馬なんて繰り出して来たら『完全な予想』など不可能だ。
だが……
「よし、よし……見えて来たぞ」
脚質一つ分の可能性を潰しただけでも、展開そのものを絞り込める。
更に、鞍上のクセ、調教師が好む展開。
『自由である』という事は。
逆を言えば騎手や調教師等『担い手の癖』が『露骨に出る』という証左でもある。
何より。
今年こそ『あのオーナー』にクラシックGⅠを勝たせたいという思いに、彼は燃えていた。
散々世話になって来た……否、美浦も栗東も。
世話になっていない調教師など存在しないのではないかという名物オーナーではあるものの、勝利自体にはさほど恵まれておらず。
だからこそ、サムソンという『勝てる』馬が自らの厩舎に来た時点で『何としてもGⅠを取りたい』と、強く思ったものだ。
そんな風に。
夢中になって資料や映像を読み漁り、メモを取りながら思考に耽るその姿は。
彼自身が諦めた『夢の続き』を前にして、目を輝かせる子供のようであった。
(……参ったなぁ)
控室で、クアッドターボの鞍上、館ナユタが溜息をつく。
調教師である石河吾郎からの、皐月賞に関しての騎乗オーダーは、ただ一つだった。
『自由にやって構いません』
『レース展開に理想があるならば、そのように調教します』
究極の手放しである。丸投げ、とも言える。
逆を言えば『勝て』としか要求されていない、ある意味『天才』に相応しい注文であった。
無論、クアッドターボがそれに相応しい馬でもある事は疑いない。
なにより、中山1600を二歳で上がり3F33・8秒というタイム。それでいて前でも後ろでも好きに走れる自在性を証明したのだ。
『好きにしていい』か。……よし、ならば後ろから行こう。
道中、多少不利になっても最後に捲れば問題は無い。クアッドならばソレが出来るし、それだけの脚を持っている事は、既に実戦で証明済だ。
そう彼が決意した時点で……全ては決定していた。
「……ん?」
馬主席からパドックに降りて。
俺――蜂屋源一は、馬主としてその場の空気に違和感を感じていた。
「どうしました?」
「いや……なんというか、うん……何なんだろう?」
あ、そうか、目線だ。恐怖とか、絶望とか。
迷いの有る『あんなの相手にどうすりゃいいの?』っていう目線。
それが無い……とまでは言わないけど、普段より薄いのだ。
「……負けるのかな?」
「え?」
俺が口にした言葉に、新野女史がぎょっとした顔でこちらを見る。
「いや、なんというか……他の出走する騎手の人たちとか関係者の人たちに『迷いが無さ過ぎるな』って。
何かしらのプランを練っていて、かつ自信がある、って事なんだろうけど……」
「はぁ……」
「ほら、去年のジャパンカップ。
あのレースを見直すと、ハーツクライがキッドに仕掛けようとして不発だったのが見えたの。
で、有馬で、ディープもそうだけどハーツにも滅茶苦茶追い詰められたでしょ?」
「ああ、あの時『要警戒』って言ってた理由って、そういう」
「うん。で、なんというか、あの有馬やジャパンカップと同じ感じがする。
もしかしたら『仕掛けられてる』んじゃないか、って……まあ、今更焦ったってジタバタしようも無いんだけど」
などと。
感じた違和感を、自分なりに論理的に説明すると。
「『妖怪単勝転がし』のご託宣ですか。馬券買っちゃうとバカに出来ないですね」
「アテにならない『臆病ウサギの戯言』と言って……って、買ったの?」
「3000円ほど。クアッドターボ、メイショウサムソン、アドマイヤムーンのBOXでそれぞれ1000円ずつ。ちなみに、どれで勝っても2000円くらいですね。
で、先生は?」
「応援馬券でクアッド単勝1000円。
一番人気だから1.7倍だけど……パドックみて倍率の『割が合わない』と考え中」
「呆れるほど固いですね」
やがて、『止まれ』の合図と共に、鞍上が集まり。
地下馬道へ誘導されていく各馬。
……うーん……ハードなレースになりそうだなぁ。
「そういえば、蜂屋オーナーはこのレース、どう見る?」
パドックから上がって出走までの空き時間。
松基オーナーに問われ、俺は正直に答える。
「正直、パドックの状況を見て『厳しい』と。
ほぼ全部の陣営が、クアッド対策で『何か』を練って来てるでしょ?
ソレが『何か』は分からないんですけど、クアッドが絡む以上、色々とレースがカオスになるのは確定でしょうし、その仕掛けがドコでどう爆発するかなんて分からないとなると……まあ、もう館さんと石河の親父さんを信じるしかないな、と」
「親父さん?」
「あ、ああ、石河
「ほぉ……なんというか、本当にオグリの時とは、ある意味正反対だねぇ……」
「え? ……ああ、なんか馬主が交代したとか、色々揉めたとか噂で……その頃、幼稚園なんで伝聞でしか知りませんが」
「うん。当時、酷いモノだったよ……なにもあんな使い方しなくても、って。
そういう意味で、孫のキッドやクアッドは『オーナーに恵まれたなぁ』と思うよ」
「そう、ですかね?
どちらかというと、石河師に対して、いつも素人の無茶振りで振り回しちゃってる自覚はあるので、我ながら酷いオーナーだと思ってますが」
「それで結果を出しているワケじゃない? ……楽しいでしょ、馬主」
「ええ、まあ……多分、長い事は馬主業は出来ない分、楽しませてもらおうと思ってます」
『長居はしませんよ』と暗に告げると。
オーナーは、実にもったいなさそうに。
「えええ、せっかくここまで来たのに?」
「だって、私は『馬で稼げなくなったら』馬主終了ですから。
親父さんともそういう約束で、馬主と調教師の関係を結んでるワケですし」
「ああ……テレビで言ってたね。『馬が分からなくなったら辞めなさい』って。
アレ、本当だったんだ」
「ええ。
だから本当になんというか……奇縁なんですよね、今、自分がここに立っている事そのものが。
だからこそ、いちゲーマーとして、勝ちも負けも含めて『馬主を辞める最後まで』楽しんで行こうかな、と」
「『ゲーマー』ねぇ……つまり、本物の競馬もゲームの延長上なのかな、君にとっては」
うっ……まあ、嫌がるよねぇ、こんな若造。
でも……
「あー、というかソレしか知らないんですよ。
本当に『レースで走らせたい馬がいる』から、馬主登録をしたダケの人間なので。
馬主の肩書とか特典とか振舞とか、そういうのが全然分からないからこそ、もう知識として知っているのは競馬ゲームの世界しか無いんです。
他の馬主様たちには申し訳ないんですけど、それが現状いっぱいいっぱいで……というか、二十歳そこそこの普通の若造に求められても、どうしたものかと」
と……
「おや、君のお爺さんから、そういうのは聞いてない?
てっきり、後を追って来たのかと」
「!? じいちゃ……失礼、祖父を、ご存じで?」
意外な発言に、思わず被っていた余所行き用の化けの皮が外れかけた。
「ああ、馬主としては、私の先輩にあたる人でね。
私が馬主になって数年で、事業の失敗が元で馬主を辞めてしまわれたが、色々教わった方の一人だよ。『蜂屋』という珍しい苗字からピンと来て、少し調べさせてもらったら案の定だった。
君の馬主資格の審査も、その絡みで通りやすかった、みたいな噂も聞いたよ」
「はぁ……知らなかった。
その、祖父はあまり自分の過去の事とか、教えてくれなかったので……」
というか、父が死んで以降、色々と世話になったじいちゃんは、高一の冬に逝くまで、俺の事をなにかと可愛がってはくれていたが。
考えてみると、じいちゃんが『昔、何をやっていて、何であんなに遺産があったのか』なんて、全然教えてくれなかったからな……
「本当に、なんというか……奇縁なんですね、自分がここに立っている事そのものが」
色々と衝撃を受けて茫然としている俺の前で。
それでも、出走を告げるGⅠファンファーレが、高らかに中山に鳴り響き始めた。