戦艦の寮から少し離れた空母寮、その裏手はコンクリートが敷かれた箇所まで侵食するほど雑草が好き放題に勢力を拡大している。誰にも興味を持たれない場所であることの証だった。そんな場所で、建屋の壁に寄りかかった金剛は虫たちの合唱に突き上げられるように顔を上げて、彼女の目は自然と北極星を探していた。
もし夜の海で道具が破損したとしても、星だけは絶対に私たちを裏切らず導いてくれるから、恐れず出撃しなさい。そう言って榛名の肩を叩いた日に限って天候が急変し、上を向いて目を開けることもできないほどの豪雨に見舞われ恥をかいたことをふと思い出し、金剛は「Fuck」とつぶやいて缶コーヒーを飲んだ。
彼女は妹たちにコーヒーを飲んでいるところを見られたくなかった。だから戦艦寮から離れている。
「あんなコールタールみたいなカラーの泥水なんて誰が飲むネー」と言ってしまった手前、ブラック無糖を今のように口の中で揺らせて夜な夜な気取っているなどと知られたらどのような目で見られることか。
紅茶(アールグレイ)も美味いが珈琲(サントリー・ボス)もまた美味い。未成年者が隠れて煙草を吸うかのように、週に二・三度、彼女は姉妹たちが寝静まったところを抜け出して空母寮の荒れた裏手を訪ねていた。
北極星を中心として空が、彼女が観測できないほどゆっくりと、しかし確実に回っている。これでもかと散りばめられた宝石群から星座を探すのは難しい。そもそも彼女は星に詳しいわけでもない。ならばと彼女は、よく目立つはずの夏の大三角を探すことにした。
「アレガ……デネブ……アルタイル……ベガ…………う~ワカラン」
すぐに飽きてしまい、適当に明るい星を三つ選んで『金剛大三角』と名づけた。缶に口をつけて再び空を見上げると、ほんの数秒で、どれが金剛大三角を構成する星だったか分からなくなっていた。こうして隠れてコーヒーを飲む時はいつも頭のネジが自然と緩み、それもまた彼女は好んでいた。
缶が空になり、戦艦寮に戻ろうと空母寮の角を曲がろうとした時だった。まさか人が出てくるとは彼女は考えもしなかった。
「きゃっ!」「ワオッ!?」
正面から派手にぶつかり、二人とも尻餅をついてしまった。金剛の足元に小さなものが転がってきた。電灯はないが星明かりでよく見えた。プリンだった。
「いたた……ご、ごめんなさい。まさか人がいるとは思わなくて」
赤城は金剛を助け起こすより先に、素早くプリンを拾い上げた。
◆――――◆
この戦争の敵は何か。
深海棲艦だと答える提督はおよそ半数。もう半分は書類、羅針盤、運、資材、上層部、妖怪猫吊るし、その他鎮守府諸事情といった具合になる。後の半分こそすべて正しい。書類、羅針盤、運、資材、上層部、妖怪猫吊るし、その他鎮守府諸事情と酷烈に刃を交え、余力を持って深海棲艦と戦うのがこの戦争の正しいあり方だ。この仕組み、真の脅威を理解して初めて艦隊は独立した戦力として及第点を与えられるものになる。
では私、叢雲が所属する天照大艦隊の最大の脅威は何か。それは醜悪きわまりない人間関係である。
【1】
つい数分前に出撃した第一部隊に続き、準備を終えた第二部隊が私の前に並んだ。皆ジメジメした空気への不快感から、セーラー服の裾をはしたなくパタパタさせたり扇子を持っていたり、飛龍は改二改造で支給された鉢巻を早くも外してしまい、撫で付けられた髪をワシャワシャとかき上げた。今頃は海面上を滑り、向かい風を全身で浴びているであろう第一部隊の面々も、さっきまで似たような有り様だった。
私もこの蒸し焼きにされそうな暑さには参ってしまいそうだった。昨日までは連日雨続きでウンザリしていたのに、やっと晴れたと思ったらコレである。これから出撃するみんなには悪いけれど、早く執務室に戻って冷房の爽やかな風を満喫したい。
出撃前から暁が音を上げてしまった。
「あーつーいー! レディーをこんなにつらい任務に出すなんて司令官は何も分かってないわ」
[暁;Lv.24]
反射的に返したのは元一ノ傘艦隊の不知火だった。「それなら帰れば?」
[不知火;Lv.55]
涼しい顔をしているがこの暑さは心頭滅却でどうにかなるものではない。暁の軽はずみな発言が余計に気に障ったんだろう。
「この任務は私と陽炎がいれば十分よ。任務中に熱中症にでもなられたら面倒だから、余計な荷物は置いていきたいのだけど」
「なによ! ちょっと練度が高いからって!」
「あら。不知火に何か落ち度でも?」
睨み合う暁と不知火の間に響と陽炎が割って入って二人を遠ざけた。もう何度目だろう、このような衝突は。私のため息もすっかり枯渇してしまった。
ちょいちょい、と蒼龍が手を振り、こっそり手信号を送ってきた。
(なんとかしてよ。今からメンバー変えられないの? 叢雲は出れないの?)
[蒼龍;Lv.119]
旧一ノ傘艦隊の制空を飛龍と共に二人だけで担ってきた歴戦の空母に、期待に応えられない返事をするのは心苦しかった。
(ごめん。冷たいラムネ用意しとくから頑張って)
【2】
「あら叢雲。執務室に戻るところ? 瑞鶴を見なかった?」
[加賀;Lv.97]
弓と矢を持ち、薄汚れた壁や板張りの床にガンを飛ばしながら廊下を徘徊していた加賀はぼそりと言った。「ローストターキーにしてやる」
「やめなさい。いい加減仲良くしてよ、あんたたち空母はもう!」
「失礼ね。まるで一航戦が五航戦を恨んでるような言い方」
「じゃあどうして瑞鶴をローストするの」
「私のプリンが冷蔵庫から消えていたの。他に理由が必要?」
言い返したいことは沢山あるけれど、ここで加賀と議論をしていたら日が暮れる。
「……もう好きにして」
「七面鳥を見かけたら連絡して頂戴」
そう言って加賀は矢を弓につがえ、歩いていった。
売店にプリンを置くのをもうやめてもらおう。いっつもこうだ。
私のプリンがない。食べたのは誰だ。名前は書いていたのか。名前を書いてたはずなのに食べたのは誰だ。
どいつもこいつも暇さえあればプリン争奪戦をおっ始めて仕事を放り出す。あんたたちはそんなに他人のプリンが好きか。他人が買ったプリンがそんなに美味しいか。他のお菓子じゃダメなのか!
プリンに罪があるわけじゃない。悪いのは元からこの艦隊にいた正規空母だ。空母を憎んでプリンを憎まず。
蒼龍と飛龍、一ノ傘副司令の下で鍛えられた二航戦の二人がやって来た時は、間に入って緩衝材になってくれるのではと期待したけれど、結局ただ被害者が増えただけだった。まったく手に負えない空母連中を、どうやって大人しくさせればいいのか皆目検討もつかない。あのアホチン司令官はとっくに諦めているし、板挟みになってしまった大鳳に海でも陸でもずっと気苦労をかけ続けるつもりか。
だいたい、あいつは人の心を分かってなさすぎる。全然分かってない。さっきの第二部隊だって、いつかは和解しないといけないにせよ、考えなしに組ませるのだからタチが悪い。艦隊と艦隊が出し抜けに統合されて困惑した子もいるのだから、もっとデリケートに動かしてもらわないと波が立ってばかりだ。なのに……電一人からのアタックで狼狽えて、情けない! 可愛い子に言い寄られて、放っておいたら秘書艦が電に固定されてしまいそうになる。もっと艦隊のことを理解している私みたいな……。
「あう……」
執務室に向かっていた足が止まった。今日は電が出撃しているから私が秘書艦になったのであって、代打のようなものだった。電も仕事はできるほうだけど私はもっと秘書艦に向いている、と自分で思うなら自分の口からそう言いなさいよ。でもそれが言えないから私はこうして突っ立っている。
「おお叢雲、ここにいたか」
突然聞きたかっ――いやいや――考えていた声に呼ばれた。司令官は子供がすっぽり入りそうなほど大きなダンボールを抱えて階段から降りてきた。
「なに、その荷物」
「分からん。私宛に届いたのだが伝票にな、ほら見てみろ」
司令官はダンボールを廊下に乱暴に置いた。伝票を見ると、届け先は司令官になっていて、内容物に『ショウカクノザッカ』と書いてあった。ショウカクノザッカ。翔鶴の雑貨。……翔鶴の雑貨?
「なに、翔鶴の雑貨って」
「だから分からん。一ノ傘のミスかとも思ったが違うらしくてな、邪魔だから処分しに行くところだったのだ」
「書いてあるとおり翔鶴の荷物じゃないの? どうしてあんた宛かは分からないけど」
「だとしたら余計に腹立たしい。艦隊の提督を集荷所扱いだぞ」
威厳が足りないんでしょ、とは言わなかった。
「だから工廠の妖精にでも好きにさせる」
一ノ傘副司令のことをやることなすこと大雑把だとしょっちゅう非難しているけれど、この男も大概だ。
「私が持ってくわよ。翔鶴に話も聞いとくから」
「いやいい。少し重いぞこれ」
「主砲と魚雷よりは軽いでしょ」
ダンボールを持ち上げた。せいぜい2~3キロくらいだろうか。でも大きさが縦1メートル、幅50センチくらいあるせいで、だき抱えないといけない。ああ暑苦しい。
「無理はするなよ。少しでも面倒になったらその辺にでも捨てていいんだからな」
「私はいいから仕事に戻りなさい。今日が回答期限の話があったでしょ」
はっと気づいたような顔をする司令官。やれやれである。
「ではすまんが任せた」
「はいはい」
素っ気無い返事をする私自身も、やれやれである。
【3】
支える手の汗がダンボールに染みてしまうほどの熱気に、やっぱり捨てようかと途中何度も葛藤した。よく考えたら司令官がこの荷物を持ち運んでいたのは捨てるためであって、翔鶴に渡すのであれば電話で翔鶴を呼び出せばよかった。空母寮の前に来てやっとそのことに気づいたものだからイラッとした。
お金をケチってばかりの司令官の側で働いていると、どうも思考回路がアナログになってしまう。一ノ傘副司令はパソコンとスマホでバリバリ仕事を片付けていくし、そのうち司令官には前に処分したWindows XPパソコンの代わりを用意してもらおう。
空母寮も他の建物同様、玄関や窓はすべて閉ざされていて室外機が回っている。人影は見当たらない。元々そんなに人数はいないけど、仕事がなければどうせみんな(さっき会った加賀と逃げたらしい瑞鶴を除いて)部屋の中でだらけているんだろう。
寮に入ろうとすると、庭の奥の茂みから小さな声がした。
「こっちです。叢雲、こっち」
[翔鶴;Lv.81]
茂みの上から翔鶴がひょっこり顔を出した。暑さで頭をやられたのかもしれない。
「……何してんの?」
「しーっ! 早くこっちにその荷物を」
手招きされるまま茂みの奥に入っていくと「ごめんなさい隠れて!」と肩をぐっと押さえつけられ、膝に土が付いた。これにはさすがにカチンときた。
「ちょっと! 私はあんたのためにコレ運んできたのよ! この暑い中!」
「ご、ごめん! ごめんなさい本当に! 後でなんでもするから今は静かにしてください、ね?」
「後じゃなくて今よ今すぐ! 涼しくなるもの持ってきて。麦茶とかアイスとか。あんたの部屋はすぐそこでしょ」
「それは……今は何もないんです。本当に。全部、加賀先輩に奪われたんです」
「奪われた?」
「冷蔵庫から全部無くなっていたんです。だから……これは本当に良いタイミングで届いてくれました」
そう言って翔鶴はダンボールを乱暴に開封し始めた。『ショウカクノザッカ』はやはり翔鶴の雑貨、という意味で正しかったらしい。
「これ司令官に宛てたのよね。わざとそうしたの?」
「……申し訳ないとは思ったんです。でもこれを私が人目につく場所で直接受け取るわけにはいかなくて」
開いたダンボールの中には梱包ビニールで包まれた、大きさはダンボールと大差ないひとつの箱が入っていた。その箱には美的センスが日本人には合わない感じの英語のロゴタイプと弓矢の絵が大きく描かれていた。
「ちょ、ちょっとあんた、これ」
「はい。コンパウンドボウです」
ビニールを破って箱を開けると、滑車がついたイカツい弓が入っていた。翔鶴や加賀、蒼龍、飛龍、それに司令官が持っている、私の身長を遥かに超える長さの弓とは全然う。これは弓道ではなくアーチェリーに使うものじゃないの?
「……和弓ではどうしても精度に限界があります。鍛錬が足りないと言われるとそれまでですが、遠距離武器として考えると、28メートル先にある直径36センチの的に中るか中らないかを競うレベルの道具なんて正直なところ、話になりません。一ノ傘副提督がエアーガンをお持ちですよね。たまに球磨を連れて道場に遊びに来られるのですが、私が早気に悩んでいる横で何連発でも軽々と小さな弾を当てるんです。的に穴を空けるだけの威力はありませんが、的の周りに散らばる私の矢よりもずっと良いんです。狙ったものに当てられるわけですから。弓道ではそもそも『狙う』という意識すら否定することもあって――」
「あー分かった分かった」
弓道について喋らせると止まらなくなるのは司令官と一緒だ。側の葉の上を蝸牛が、翔鶴の弓道論から逃げるようにゆったり動いている。
「つまり命中率が良い弓を使いたいってことでしょ」
「端的に言えば、そうです」
「なら別に隠すようなことないじゃない。わざわざ司令官を集荷所扱いしなくても、いい装備になるんでしょ?」
「いえ、この弓では戦闘機は飛ばせません」
「じゃあアーチェリー始めるんだ」
「泥棒を狙撃するためです。今日これが届いたのは運命なんです。――今日こそ加賀先輩を仕留めろと」
引き締めた表情で言う翔鶴がより一層、阿呆らしく見えた。
「叢雲、逃げた加賀先輩をどこかで見かけませんでしたか」
「……見てない」
さっきあんたの妹を射殺そうと徘徊していた、とは面倒に拍車をかけそうなので口が裂けても言えない。
「そうですか――では暫く練習してから探しましょう。わざわざ荷物を届けてくれてありがとうございました。このお礼は後でしっかりしますので。……その頃には泥棒もいなくなってますし」
【4】
行儀悪くも私はラムネを飲みながら執務室へ向かった。どうせ廊下には私以外にコツコツと足音を立てる人はいないし、見られる心配はない。まだ昼前だし、これだけ暑ければ、今日が提出期限の書類を持った姿がひとつも見当たらないのも仕方がないのかもしれない。皆がだらだら集まってくる昼食時にせっついて回ればいい。
執務室の扉の前には、もじもじしている怪しい奴がいた。そいつはぎこちなくクロスボウを構えて、取っ手に触れようとしては手を引っ込め、を繰り返している。執務室が襲撃された事は度々あったけれど私の不在時を狙ってくるとは卑怯千万。
「何してるの」
「ひゃいっ!?」
[大鳳;???]
不審者は驚いてクロスボウを落としかけた。その拍子に矢がポロッと外れ、張っていた弦がバン! と勢い良く開放された。順序が逆だったら扉に矢が刺さっていたでしょうが。
わたわたと取り乱す不審者の、身なりだけは大鳳だった。航空機とは縁がない私にはイマイチその良さが分からない化粧直しされた装甲甲板。密閉されているらしい格納庫。私たちが用意する意味があるのかハリケーン・バウ。いざ戦闘では当人の自慢も伊達ではなく少々の被弾ではビクともせず、しかも随一の能力を誇りながら、何よりも頭が常識的である、貴重な頼れる装甲空母様。
……頼れる大鳳様には今朝、出撃してもらったはずだった。
私に向き直った不審者はクロスボウを背中に隠した。
「お、おはようございます。改装済み大鳳です。……えっと、た、タウイタウイのみんなも元気かなー?」
不審者は大鳳になりきっているつもりらしい。普段はツインテールにしている長い髪をお団子にしているのが唯一見られる努力で、他はただ服と装備を盗んできただけのコスプレだった。胸のサイズくらいしか似ている箇所がない。せめて鏡くらい見なかったのか。
「大鳳が帰還する前に盗んだ服は返しときなさいよ、瑞鶴」
「うそっ、バレた!? こ、この変装を見破るなんてさすがは叢雲ね」
[瑞鶴;Lv.80]
「でもこの服と装備は盗んだんじゃなくて借りたのよ」
「ああそう。で? 大鳳の格好で執務室を襲撃して罪をかぶせるつもり?」
シルエットくらいしか似ていないけれど。
「違う違う! この格好は翔鶴姉を油断させるためで」といった瑞鶴は何かに気づいたような素振りをして固まった。しかしすぐに「ううん、大鳳が直接やったって覚られる前に翔鶴姉を仕留めればいいだけの事じゃない」と勝手に一人で息巻いた。
「叢雲、翔鶴姉を見なかった?」
「なに、あんたたち正規空母はバトルロイヤルやってるの? さっき加賀が弓矢持ってあんたのこと探してたけど」
「は? 加賀先パイが? どうして」
「加賀のプリン勝手に食べたんじゃないの?」
「私が!? 食べてない! 間違って翔鶴姉のアイス食べちゃったけど、加賀先パイのは知らない!」
「誤解だろうと何だろうと静かにしたほうがいいわよ。加賀があんたを狙ってうろついてるから」
七面鳥も鳴かずば撃たれまい。
瑞鶴は口をつぐんでキョロキョロあたりを見回した。人影はなく、古くなった冷房の駆動音だけが廊下に響いている。
「どういう事? どうして私が加賀先パイのプリン食べたことになってんの?」
プリンひとつで命が狙われることに疑問を持たないあたりが、さすがは私たち艦隊の正規空母だと言えた。ちょっと人柄がトリッキーな一ノ傘副司令官ですら、関わりを避けてるくらいだしなあ。
「知らないわよ。コロシアイなら空母寮の中でやって。軽空母に迷惑がかからない程度に」
「状況が全然わからない……もうやだどうすればいいの、私は翔鶴姉を殺さないといけないのに……ちょっと落ち着きたいから隠れさせて」
瑞鶴は執務室に飛び込んだ。中から「おい遊ぶならせめて外でやれ」と司令官の声が聞こえた。
私も中に入ろうとすると、カツカツと足早に階段を上がってくる人がいた。相変わらず弓を構えたままの加賀だった。あと少し来るのが早かったら執務室前で矢が飛び交う事態になっていた。
「あら叢雲、また会ったわね。この辺りから七面鳥の鳴き声が聞こえたのだけど、見なかったかしら」
「蚊が飛ぶ音と間違えたんじゃない? 今日はもう休んだら?」
「そうね、冷たいものでも買いに……ん?」
加賀は床から、先ほど瑞鶴が落とした矢を左手で拾った。『かけ』をはめた右手だけで弓矢を器用に支えている。感づかれるかと一瞬ひやっとしたが、瑞鶴が持っていたのは和弓ではなくクロスボウで、矢も派手な紫色をしている(関係ないけど司令官の矢も負けず劣らず派手な青色をしている)。
「この短い矢はクロスボウ用……どうしてこんなところに」
「さあ。一ノ傘副司令が落としたんじゃない? あの人いろんなコレクション持ってるし。こんなもの落とすの副司令もだけど加賀、弓矢を持ち歩くのやめなさい。あんたが威圧して回るせいで怯えて誰も部屋から出て来ないのよ」そういうことにしておこう。
「善処するわ」と言った加賀はつがえたままだった矢を弓から外して、瑞鶴が落とした矢を私に渡した。
「食堂にノコノコ姿を見せた時にでも仕留めるとするわ」
「だから、危ないって言ってるでしょうが」
「心配いらないわ。五航戦や提督と違って私は狙ったものは外さないから。絶対に」
『絶対に』の部分に殺気を込めて言い放つと、加賀は背を向けてさっき上がってきた階段を降りていった。
ひんやり冷たい空気が天国のそれのような執務室に入って、司令官にさっき届いた荷物はやはり翔鶴のものだったと伝えた。予想通り集荷所扱いされていたことに怒ったけれど、私に労いの言葉をかけると仕事に戻った。
瑞鶴は秘書机の下で息を殺して縮こまっていた。司令官は邪魔にならなければどうでもいいとばかりに無視している。今更だけど、うちの正規空母たちは今の練度になるまでよく欠員なく生き残っているなあ。
【5】
「さっさと出ていけ」と司令官がつっけんどんに言うのを無視して、瑞鶴はクロスボウに紐を垂らした。紐にはフックが2つ洗濯紐の洗濯バサミのように付いていて、それを弦にひっかけた。クロスボウ先端の金具を右足で踏んで固定して、瑞鶴は紐の両端を持って引っ張り上げた。すると二つのフックが弦を引き、最後まで引かれるとカチッと固定された。クロスボウは一回撃つ度にイチイチこんな作業が必要になるんだ、面倒な。
「叢雲、それ」と手を出されたので、私は瑞鶴が落とした矢を「ふんっ」押し曲げた。
「あっ、なにすんのよ!」
「さっき翔鶴を殺すとか言ってたでしょうが。黙って見てるわけ――ん? あんた、翔鶴のアイス食べたって言ってなかった? 逆じゃない? あんたが殺される側じゃないの?」
瑞鶴は顔を背けた。「……深いワケがあって」
「強盗殺人の動機ねぇ」
「違う! 脅されてるの! ……私、見たんだ。翔鶴姉がネットでアーチェリー用品探してるの。次バレたらきっと私はあれで!」
本当に強盗殺人を働いたかのような動揺っぷりだ。でも大鳳のコスプレをしているおかげで、まるで緊迫感が伝わらない。
「落ち着きなさい。さっき翔鶴にアーチェリーの道具が届いたけど、あれは加賀を狙うためだって言ってたわよ。冷たいもの全部たべられたからだって」
「……そうなの?」
「ついさっき本人から聞いた話よ」
「じゃあ翔鶴姉は今、加賀先パイを見てるってことね。――背後を取るチャンスじゃない」
「どうしてコロシアイ続行なのよバカ! いい加減にして!」
「だから脅されてるんだって。ばらされてこっちがヤられる前にヤらないと」
「ばらされる? あんたを脅してるのって翔鶴じゃ――」
まったく唐突に、ノックもなしに部屋のドアが開き、弓を引き絞った加賀が屈んで滑りこんできた。弓が天井に当たらないように屈んでいるのだろうけど、銃を構えた特殊部隊のようだった。矢の照準をサーチライトのように執務室内に巡らせた。
私と瑞鶴のやりとりを無視していた司令官も、これにはさすがに額に青筋を立てた。
「貴様、加賀! もう許さんぞ営倉行きだ! 解体も考えるからな!」
椅子を蹴飛ばして軍刀を手に取った司令官が怒鳴ったものの、加賀は冷静に室内に視線を走らせて首を傾げるだけだった。「おかしいわね、七面鳥は?」
瑞鶴ならここにいるじゃない、と言いかけて、横で脂汗を吹き出している大鳳コスプレ馬鹿が見えた。この雑なコスプレが奇跡的に効果を発揮しているらしい。加賀の目がどれだけ怒りで曇っているかが分かる。逆に他の誰かが瑞鶴に変装したら加賀に命を狙われるんじゃないだろうか。
瑞鶴もまさかこのような形でコスプレ(本人は変装のつもり)が役立つとは考えもしなかっただろう。口を閉ざして固まって、歯がカチカチ鳴っているのが微かに聞こえる。姿の真似は出来ても(出来は悪いけど)声の真似はできない。七面鳥も鳴かずば撃たれまい。
司令官が軍刀で加賀の弓の弦を切った。大きくしなっていた弓が加賀の手から離れはじけ飛び、派手に音を立てて秘書机にぶつかって床に倒れた。危ない真似を! と思ったけど矢は加賀の手前に落ちただけだった。
「乱暴なことするのね」と自身を棚上げする加賀。
「今この場で切り捨ててもいいのだぞ」と司令官。
加賀が営倉に入ってくれれば(仲間の営倉行きを望んだのは初めてだ)翔鶴も大人しくなるはずで、少しは静かになるかと安堵して、なんだか疲れた私は椅子に座った。まだ午前中なのに、正規空母の面々はよくもまあ騒いでくれた。
切れた弦と弓矢を拾っていた加賀は、相変わらず直立不動の大鳳モドキを見て――二度見して、気付いてしまった。
「大鳳? あなた今日は出撃したんじゃなかった?」
「おい加賀、さっさと行け。貴様の足でだ」と司令官が駈るのにも構わず、加賀は右手に矢を握り締めて大鳳モドキの正面に回った。大鳳モドキ、瑞鶴は矢のないクロスボウを胸に抱えて後ずさった。加賀はじりじりと瑞鶴に近寄った。
「――今日の大鳳は気配が妙だと思ったのよ。風邪なのかしら。ねえ大鳳? 自慢の装甲はどう? 燃料庫は大丈夫?」
「…………」
「私はあなたを心配しているの。一言、具合がいいのか悪いのか声を聞かせてくれないかしら――あら、なにその手。手信号? 不勉強で申し訳ないのだけれど分からないわ。ちゃんと、声で、教えて頂戴」
いい加減にしろと怒鳴る司令官や私を別世界に追いやり、加賀と瑞鶴は少しの間、しかし二人にとっては恐らく時間が停止する寸前まで圧縮された事象の中で向かい合った。深海棲艦に極限まで接近した時に敵の砲身内部すらはっきりと見える、あの生きるか死ぬかの刹那と同じ。感覚だけが鋭敏に加速して他の全てが切り取られる。それだけ加賀は十分に睨みを効かせ、瑞鶴は情報を打破できる最適解を探った。
ゆっくりと下がっていた瑞鶴の足が壁まで到達し、瑞鶴はついに口を開いた。
「…………食べたのは私じゃない」
加賀が突き出した矢を瑞鶴はクロスボウで受け止めた。どちらも両手が塞がっている。加賀が蹴りを入れようとした瞬間、
「加賀先輩、覚悟ォ!」
届いたばかりのコンパウンドボウを構えた銀髪の阿呆、翔鶴が執務室に突入してきた。
翔鶴はいきなりぶっ放すと、まったく扱えていないらしく、私の左のこめかみ付近の空気が削られるのと同時に窓ガラスが破裂した。私の命が砕け散ったかと本当に思った。
唖然として加賀が翔鶴を見ている隙に、瑞鶴は加賀から矢を奪い取って距離を取り、矢をクロスボウにセットした。
「やめんか馬鹿者が!」と司令官が軍刀を翔鶴のコンパウンドボウに振り下ろした。しかし残念ながら司令官の愛刀『丑の刻摩天楼』は名前負けしているらしく、翔鶴の手からコンパウンドボウを叩き落とすのには成功したが、刀身が真ん中あたりで折れてしまった。宙を舞った刀身はせめてもの道連れに天井の蛍光灯を割った。
ガラス片や刀身が舞い散る中で瑞鶴は、加賀と翔鶴、どちらを狙うか決めかねていた。和弓を薙刀のように構えて接近してくる加賀か、無防備になり最も狙いやすくターゲットにしていた翔鶴か。セーフティを解除し、迷う時間がないのだからどちらでも! ――のところで私は椅子で瑞鶴の頭を思いっきり殴った。その拍子にクロスボウが発射されてしまい、この艦隊が司令官と電で作られた当初から使用されていたエアコンに矢が突き刺さった。瑞鶴が倒れ、エアコンは何かがショートする音を立てて停止してしまった。それを見た司令官、加賀、翔鶴は呆然と立ち尽くした。私は瑞鶴を殴った椅子から手を離してへたりこんでしまい、左手でこめかみを押さえながら執務室の惨状を見回した。そこへ、
「あのー……大丈夫?」
一ノ傘副司令は、落ち着くのを待っていたようなタイミングでそろりと顔をのぞかせた。
◆――――◆
以前よりいっそう静かになったと感じるのは錯覚だろう、そう金剛は理解していたが、気分的に静かになれるのであれば錯覚であっても歓迎した。
三人の阿呆が営倉に移ったおかげで空母寮は、ギャングから開放された町のように平和になった。一時的なものではあるが。
正規空母の主力が一度に三人も抜けたことで、大鳳はよりいっそうの働きが期待され、疲労が蓄積してか睡眠をとる時間が長くなった。今日この日も夕食後、すぐに布団に潜った。蒼龍・飛龍はそれでも一ノ傘艦隊の頃より全然マシだと言った。
コーヒーの缶を手の上で転がしながら、明日は雨が降りそうだと金剛が夜空を見ていると、空母寮の裏にもう一人の客が現れた。
「こんばんは。明日は天気が崩れそうですね」
[赤城;Lv.98]
赤城は大きめの缶コーラを持っていた。
コーヒーを隠れて飲んでいた金剛とぶつかって以来、二人はこうして会うことがあった。コーヒーを飲んでいることを隠したい金剛と、夜食を隠したい赤城。日や時間を決めるわけではなく、この場所で二人のタイミングが合えば話をした。赤城は金剛の隣に並んで、缶を開けて炭酸を弾けさせた。
「私、明日はちょっと遠くまで出撃なのにネー。嫌んなっちゃうヨ」
「私はやっと休みです。ここのところ本当に忙しくて」
「ご愁傷さまデス」
「いえいえ」
「みんな不思議がってるヨ。どうして正規空母が一度に三人も営倉にブチ込まれたのかって。誰かは『痴情のもつれ』って推理してたネー」
二人とも、加賀・翔鶴・瑞鶴のありえない姿を想像して笑った。
「ないない。絶対ないです」
「それ推理じゃなくて妄想ダロ、ってバカにされてたヨ」
「あの三人が処罰を受けたのは執務室で暴れたからでしょう。それを推理するなんて――」
「ヘイ赤城、だから、そこじゃあないから不思議なんデショ? 重要な問題は」
「何がですか?」
「ユーとミーの仲ネ、隠し事はNothingでお願いシマスヨ。本当は関わってるんでショウ?」
「……それは金剛さんの推理ですか?」
「気になる事があると眠れないんデース。明日の出撃に寝坊したら赤城のせいって言いマス」
「こんな時間にコーヒー飲んでるくせに」
「カフェインに強い体質なんデス。ホラホラ、今なら誰も聞いてないヨ、王様の耳はDonkey’s earsって」
「はぁ……内緒ですよ」
金剛は深く頷いた。
「まさかあんな大事になるとは思ってなかったんですけどね……あの暑い日に冷たいものをちょうど切らせちゃって、売店まで行くのも嫌だったから皆のものを――いえ、後でちゃんと返すつもりだったんですよ? でも加賀さんにも翔鶴さんにもゴミを捨てるところを見つかっちゃって、つい、こう……」
「罪を着せた?」
赤城はコーラを呷り、小さくゲップを出した。
「まあ……そうです。瑞鶴さんには特に悪いことをしちゃいました。飲食物の奪い合いは日常茶飯事ですけど、私が翔鶴さんのを貰う前にちょっと摘んでたのを偶然見つけて、上手い具合に三竦みに誘導できるかなって思ったんです。ほら、一方通行ならよくないことが起こりますけど、三竦みなら誰も動けないでしょ?」
「いや動いたから三人が営倉行きになったんデスガ……」
「三人とも大胆な性格だったのを忘れてたというか、私たちの普段が普段なのでちょっと感覚が麻痺しちゃってたのかなー……なんて」
「ナルホド。夏の大三角の中心には赤城の存在があったと」
「夏の大三角?」
「モノの例えデス。事情はよーく分かりマシタ」
「その代わり私が三人の分まで頑張るつもりですからね。そこはちゃんと頭に入れて、誤解はやめてくださいよ」
「仲良く営倉に入ろうとは思イマセンカ?」
「三時のおやつと夜食が出るならそうしてもいいです」
「オーケー……さて、知的好奇心が満たされたところで、私はそろそろ戻りマス」
「あれ? 飲まないんですか、そのコーヒー?」
「ああ、これは……」金剛はずっと手で弄んでいたコーヒーの缶を見た。「明日の任務から帰ってから飲みマス。それじゃあ赤城、Good night」
「今の話、秘密ですからねー」
ひらひらと手を振って金剛は空母寮を立ち去った。
途中、何度も後ろを振り返りながら戦艦寮の前に到着して、周囲に誰もいないことを確認すると、コーヒー缶の上下を持って捻った。すると缶下部から1cmほど上の、輪切りにされたような線で45°回転し、するりと二つに分割された。缶上部は覆いであり、下部に付いているボイスレコーダーを隠すためのものである。
赤城との会話を録音できていることを確認した金剛はボイスレコーダーを缶状に戻し、『指示』された通り戦艦寮の下駄箱の使用されていない箇所に置いた。
ボイスレコーダーを取りに来る誰かを、彼女は知りたいとは思わなかった。彼女が密かにコーヒーを飲んでいることを利用してしまう人物など、何重に先回りされているか分かったものではない。並大抵の知的好奇心では藪をつついて蛇を出すだけだと十分承知していた。
日が昇る頃にはボイスレコーダーは何者かによって既に回収され、彼女が海に出ている間に赤城は三時のおやつも夜食も出ない営倉に入れられる。事は確実に進む。それが分かるだけで十分、彼女は気掛かりなく眠ることができた。