暗雲は僅かの隙間もなく空を覆い隠して只管に黒く、強く降り続ける雨が海と時雨の体に叩きつけられて音を立てた。いつ止むとも知れないこの雨ばかりは、時雨も好きにはなれなかった。
主砲を握る手に必要以上に力が入った。
前髪から滴る水滴の向こうで不敵に笑う、時雨の知っている彼女でいてくれているか判別できない彼女は、顔の右半分を覆う灰色の仮面の下からじっと時雨を見ていた。
彼女の目に映っているのはかつての仲間でななく、ただ一匹の駆逐艦だった。
淡いベージュ色をしていた柔らかかった髪は青白く変色し、闘争本能の象徴とも言えた赤い瞳は赤と黒が入り混じった濁色になっている。セーラー服が破れて下着姿に近くなっていても気にしている様子はない。気がついているのかすら定かではない。脇腹など抉れた部分は臓物が見えるはずだが、影が細部を黒く覆い隠している。
「アハッ♪」
夕立『だったもの』は躊躇いなく魚雷を何本も時雨に向けて放った。当たるはずもない魚雷を無闇に発射するなど、かつての夕立ならば絶対にやらない愚策だ。躱しながら時雨は、こんなのは酷過ぎると唇を噛んで主砲を夕立に向けた。これ以上痛い思いはさせたくない。しかし夕立を止めるにはもう身体の機能を限定的に奪うしかない。時雨の背後で魚雷が立て続けに爆発して何本もの水柱が上がる。
「目を覚まして夕立! 今ならまだ間に合う!」
「ザコ駆逐艦ダァ! サイコウニ素敵ナ……何ダッケ? マアイイヤ!」
「僕のことを覚えていないのかい!? 時雨だよ! 白露たちも艦隊の皆も待ってる!」
時雨が撃った砲弾を、それの数倍の量の弾幕で夕立は押し返した。
「くっ!?」
残弾を気にする様子などまるで無い。時雨に反撃させる暇も与えす夕立は残骸から搭載できるだけ拾い集めた砲で弾幕を張った。通常の駆逐艦が装備できる量を数倍は超えている。過重で彼女の足は膝付近まで海中に没していた。圧倒的な数の主砲は装填の隙を作らず機関銃のフルオートのように砲弾をばら撒いた。個々の砲は砲身が曲がっているなど故障品も同然であるため狙いはまともに定まらないが、とても彼女に接近を許す火力ではない。
「アハハハ! ネエ逃ゲルダケ? イイヨ、アト何秒逃ゲラレルカナァ?」
横に大きく動いて躱す時雨の顔の真横を砲弾が掠め、編んでいた髪がほどけた。夕立より少し短い黒髪が流れて雨を弾いてゆく。
後先を考えない夕立の猛攻は壁となり、必死に叫ぶ時雨の声を砲撃音がかき消した。跳ね上がった水飛沫が雨より強く時雨を打つ。
「もう君を独りにはしない! 絶対に! だから!」
「雑魚ノクセニ避ケルのジョウズダネエ。サスガ幸運艦――アレ? ドウシテ知ッテル?」
夕立が首を傾げたその時、乱射していた主砲のうち一基に時雨の弾が当たり爆発した。爆発は隣のもう一基も吹き飛ばした
今しかない。まだ多数の砲が勢いを緩めず砲撃を続けているが、僅かにできた隙間めがけて時雨は夕立に向かって全速力で突進した。
「夕立!」
時雨は左手を伸ばした。この手を掴んでくれと願い、声よ届けと叫んだ。それを確かに見た夕立は、ゆっくりと左腕を上げた。
時雨に合わせるように左手を伸ばした夕立は左掌を時雨に突き出し、『そこから撃った』。弾は時雨の胸に真直ぐ吸い込まれ、貫通した。
「ぁ…………」
時雨は自分が撃たれるまでを目視していながら避けなかった。避けられなかった。見ていながら、こんなのは嘘だと、胸に衝撃が走り体から力が抜けた後になっても、自分を撃った砲が何かの見間違いだと信じようとした。だが再び弾が炎と共に吐き出されてよろけた時雨の右脇腹を抉り、今度こそ逃れようのない事実となった。
夕立の左腕は皮を被っただけの兵装に変質しており、骨格のように砲身を内蔵し掌から突き出たそれはもう夕立が人間ではないことの証だった。
時雨は夕立がまだ『彼女』だった時に、彼女が左腕に攻撃を受けて大きく損傷してしまった瞬間を見ていた。その時の彼女は左腕を躊躇い無く諦めて、自分一人に攻撃が集中するよう怯まず敵に向かっていったはずだった。しかし時雨の前に再び夕立が姿を表した時、左腕の欠損した部分が黒い何かで埋まっているのを見て、傷は塞がっているらしいと自身を欺いて安堵した。海面に崩れ落ちながら時雨は、これは夕立の左腕を捨てた覚悟を踏み躙った代償だと悟った。
胸と脇腹を抉られた衝撃は指先にも至る体の隅々まで走り、接近していた勢いのまま夕立の足元へと体を投げ出した。右手に持っていた主砲は手を離れて水中に消えた。海水の冷たさを頬に感じて沈みかけていることが分かった。視界は霞み、夕立の嘲笑は近いはずなのに遠く聞こえた。
「アッハハハハハハ、弱イ弱イ! ソンナニ弱イノニ何シニ来タノ!? モシカシテ誰カノ敵討チ? ソレトモ自殺?」
「……どっちでも、ないよ」
致命的な量の血液が海に流れ、しかし絶え間なく降る雨と上も下も黒く暗い世界が血の色を塗り潰してゆく。雨でさえ全身を押さえつけるように重いと時雨は感じ、夕立もこのように苦しんだのだろうかと考えた。
「フーン。ジャアドウシテ? ドウシテ?」
「約束、したから、だ、ケホッ……君と……もし深海棲艦に、なったら、時雨に沈めて欲しいって言ったのは夕立、君……じゃないか」
「ナニ言ッテルノ? 死ニカケデ頭オカシクナッタ? シッカリシテヨ時雨。……ア、アレ? 時雨ッテ誰? 敵ノ名前? オマエ知ッテル?」
「よく……知ってるよ。僕が白露型2番艦の時雨で……はぁっ、はぁ……君は4番艦の夕立だ。白露と村雨、それに僕を、庇ってたった一人で戦った、駆逐艦だよ」
「……ワカラナイ」
「もう、絶対に君だけ行かせたりは、しない。どんな姿になったって夕立は、僕たちの大切な姉妹だ」
「ワカラナイ。オマエ……オマエ、全然ワカラナイッポイ!」
意識が薄れゆく中で夕立らしい言葉遣いを聞けてクスリと笑った時雨は、ポツポツ呟きながら最後に許された力で両手を伸ばした。右手で夕立の足を掴み、左手は魚雷を引き抜いた。
「ナニ、ヤ、ヤメロッ!」
気付いた夕立が頭に狙いを付けるより早く、時雨は魚雷を起爆させた。
残された時間はあまりに短く、最後まで言えたかどうか時雨にも分からなかった。
「ずっと一緒だよ、夕立。この雨が止んだら、また同じ姉妹として会えるさ」
◆――――◆
「……あー、爆発オチですか」
村雨の感想に「ツッコミどころ、そこじゃないっぽい!」と夕立が素早く反応して台本のコピーを床に叩きつけた。それを拾って、今度は白露に叩きつけ直した。
「あいたっ!」
「これもう深海棲艦どころかターミネーターだよ、これもう! 時雨が自爆しても煙の中から歩いてくるパターンっぽい! 時雨が無駄死に!」
「ちょっと、夕立……これ以上僕をズタボロにするのやめてくれるかい。気分が……」
時雨は乗り物酔いのように顔を青くしていて、まさに台本の最後で自爆する時に相応しい顔色である。
「ねえ白露、ちゃんとした台本が他にあるんだよね? まさか『よさこい祭り』のステージで本気でこの演劇しようとか考えてないよね?」
「もう! 失礼なこと言うねえ時雨ってば。この台本から溢れ出す本気パワーを感じたでしょ?」
「……白露一人に任せた僕らも悪いとは思うよ。でも『よさこい祭り』だよ? お祭りなんだよ? 盆踊りの合間に挟まれる和気あいあいとしたプログラムだよ? そんな場所で何が悲しくて姉妹が殺し合う演劇を披露しないといけないんだい?」
「うーん、悲しかったといえば……ホラあれ、『アナと雪の女王』」
「それでしょう、白露がやりたいって言ったのは」村雨がズバリ指摘した。「桃太郎とか浦島太郎とかありきたりじゃなくて、『アナと雪の女王』みたいなのがやりたいって言ったじゃない」
「うん。だから後でちゃんとDVD借りて見たんだけどね」
「見てもないのにやりたいとか言ったっぽい!?」と夕立。
「テレビで言ってるほど面白くなくて」
「ディズニーをディスりはじめたっぽい!?」
「姉妹は出てくることだし、バトル要素を膨らませて台本作ったの」
「バトル映画じゃないっぽいー!!」
天井に向かって吠えた夕立は一息入れて「……真面目に見てないでしょ。内容覚えてる?」と全く信じていない風に尋ねた。
「完璧。女の子がブリザド → ブリザラ → ブリザガって覚えていく映画でしょ?」
「「「 違う 」」」と三人。
「じゃあ、ブリザラ → ブリザガ → ブリザジャ?」
「「「 だから違う 」」」
「……マハブフダイン?」
「「「 ゲームタイトル変えても違う! 」」」
息の合った三人は同様に頭を抱えた。『よさこい祭り』まで残り日数はあまりなく、当然ながら準備など何一つ進んではいない。
鎮守府近所の祭りで地域交流の一環として艦隊から一組を舞台に出すことになり、白露が手を挙げたのだった。今更になって「できません」とは言えない。しかし白露が作った台本通りの演劇などそれ以上に出来ない。もし実行に移せば地域交流どころかドン引きされること請け合いである。
「どうしよう……」
「どうしようか……」
「どうしようね……」
「ダメなの? この『ずっと一緒だよ』、せっかく頑張って作ったのに。じゃあ分かった、こうしよう。『アナと雪の女王』そのものをやろう。そうすれば当たり外れがないというか絶対ウケ――何その目、三人とも、ちょっとやめて見るの。ねえ、ねえってば聞いて。傷つくよ? さすがの1番艦も傷つきますよー?」
◆――――◆
時雨・村雨・夕立が三人寄ってどうにか文殊の知恵をひねり出そうとし、そもそも自分たちにはきちんとした演劇は向いていないとの認識でやっとのことながら一致し、出来ることといえば深海棲艦との戦闘くらいとの結論でまとまった。
派手な色の炎を出す空砲を用いて音と色で拙い部分を誤魔化しながら、申し訳程度のストーリーに添ってステージ上で深海棲艦との戦闘を繰り広げることになった。
ストーリーは至ってシンプルに、ひとりの艦娘が仲間とはぐれてしまった時に運悪く深海棲艦と遭遇、ピンチに陥ったところで仲間が駆けつけ敵を撃退する、というものである。デパートのチビッコ向けヒーローショー丸パクリである。
部隊からはぐれる役は多数決で白露になかば必然的に決まり、祭りまで時間がなかったため、練習は白露が深海棲艦にやられて大破する箇所だけ徹底的に拘った。
「もっと頑張るとこ他にあるよね!? ねえ!?」
よさこい祭り当日、公園中央に高く組まれたやぐらとは別に派手に明るく装飾されたステージが用意され、この日のために練習を積んだグループが華やかな踊りや会場を震わせる太鼓などを披露していった。たった数日で演劇をでっち上げた時雨たちは順番を待ちながら、祭りの陽気な雰囲気に背を向けてなんだか申し訳ない気分になった。装備に積んでいるのは実弾より軽い空砲であるはずなのに、むしろ普段より重いような気がした。
そしていよいよ出番の時が来た。
拍手と共にステージに上がった遭難役の白露はいきなり予定から大きく外れ、
「これから敵の空母が現れますが大丈夫です! この白露型1番艦、白露が皆さんをお守りいたしましょー!」
マイクに威勢良く叫んだ。
あの阿呆に特別なポジションを与えるんじゃなかったと後悔と絶望に打ちひしがれる三人だったが、少なくとも真面目に取り組もうと頑張りはした三人に、この土壇場でようやく助けの手が伸びた。
勝手に自己アピールまで始めた阿呆の次にステージ上に現れたのは、会場全体が小さく悲鳴を上げて数人が本気で逃げようとしたほど真に迫った深海棲艦、空母ヲ級(の姿を真似た葛城)だった。深海棲艦に本当になりかけた葛城がそれらしい格好をして恐ろしくないはずがない。これだけは適役ではあるものの事情が事情なだけに頼みにくい葛城に平気な顔をして約束を取り付けた白露の手柄だった。しかし白露の一人ライブで盛り上がっていたところを黙らせるほどとは誰も予想しておらず、葛城も特別な細工はせず(むしろ化粧は普段より気合を入れていた)衣装と小道具を揃えただけでこれほど恐れられるとショックを隠し切れなかった。
「出たなー空母ヲ級! よーしこの白露様が相手だー!」
一人はしゃぐ白露に葛城はイラッと来て、台本を無視する阿呆を八つ当たり相手に決めた。まずは一発当てられる予定の白露の主砲が火を噴く前に、葛城は先制雷撃(ドロップキック)を見舞ってやった。白露の口からカエルが潰れたような音が漏れた。葛城の頭からヲ級のなんだかよく分からない大きな口が取れても気にせず、ステッキで白露の尻をペシペシと叩きまくった。この辺りでようやくニセ空母ヲ級を安心して見れるようになった観客が安堵して笑いが沸くと、満足した葛城は予定が大幅に遅れた爆撃で白露を派手に、大胆に、練習通り、しかしいささかやり過ぎ感もあるくらいに白露を大破させた。最も拘った場面なだけに会場は、特に男性陣(狙い通り)は肌を惜しげもなく露出させた白露に釘付けとなった。
以降は予定通りつつがなく劇は進行した。助けに駆けつけた三人の駆逐艦が長時間衆目に晒すのはまずい大破白露を裏手に放り込み、ステージ上を実戦をイメージしながらくるくる廻って派手な空砲を撃ちまくり、最後は駆逐艦三人の三連続特殊攻撃で空母を見事打倒して、盛大な拍手に包まれながら四人は揃って頭を下げた。
一仕事をやり遂げた四人はよさこい祭り会場を回って花火を見た。自分たちの空砲も悪くないとは思っていたが、やはり夜空に咲く花火はたまらなく綺麗だった。鎮守府から他に祭りに来ていた者もいて、なかなか面白かったとか何とか言われた。行き交う人々から四人は次々に握手や写真を求められ、せっかく買ったかき氷を食べる暇もない。よさこい祭りの運営委員からは絶賛されたものの、大破演出について来年は子供の目があることも考慮して欲しいとも言われ、四人は曖昧に返事をした。来年のことなど誰も想像できなかった。
大きな満足感と少しばかりの寂寥感を土産に四人は帰路に就いた。
「葛城さん。今日はもう遅いし、こっちの鎮守府に泊まっていけばいいっぽい」
「ありがとう。でも明日早く出る用事があるから」
三人と一人は手を振って別れた。
鎮守府までの長い下り坂を三人は歩いた。
「来年かあ」と夕立がぽつりと海岸の方を見ながら呟いた。
「来年は終わってるかな、戦争」
村雨と時雨は答えに迷った。自分たちが終わらせるんだ、そんな事を安易に言える雰囲気ではなかった。今、口を開くと、どうしても大破状態の白露を放置したまま忘れてきたことに言及しなければならないからである。夕立も察したらしく、三人は街灯が並ぶ歩道を黙々と歩いた。しかし鎮守府の門の敷居を跨ぐと同時に時雨のスマートフォンが鳴り、やっぱりダメだったかと三人は綿菓子のように粘っこい溜め息をついた。
あー修正してたらキリがない……