球磨の薬指   作:vs どんぐり

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第25話 エラー猫のパラドックス

◆― 金剛の知的好奇心 ―◆

 

 副提督という立場であれば無責任をほしいままにできると口の端を釣り上げ、さんざん好き勝手放埒悪辣自己中心的に部隊を運用していた一ノ傘鉄子であったが、近頃はその仕業もセーブすることを止むを得なくなっていた。正当とは言い難い理由で独自の作戦を立てて部隊を動かし、天照大艦隊内でクーデターでも起こす気かあの人は、と艦娘たちに噂されていた姿はもうなく、第二執務室に籠もりキーボードを叩く日々が続いた。パソコンの両脇に集合住宅のように積まれた書類は一ノ傘を囲む壁となり、閉塞感はむしろ彼女を少しだけ安心させる数少ない要素だった。栄養ドリンク剤やコーヒーの空き缶は椅子の周囲に雑草の如く置かれて、日に日に足場を侵食していった。

 それにしても風呂に入りたい、と彼女は思い出すように考えた。あたかも自分が綺麗好きであるかのように錯覚しているが、最後に風呂に入ったのが何日前であったか記憶にないし、そうでなくとも第二執務室は元からガラクタで溢れた倉庫のような有り様だった。今や彼女はゴミ山の女王と成り果てて君臨してしまっている。

 一ノ傘の道楽三昧と自分勝手に愛想を尽かし、やたらと冷たく当たる電にさえも「あの……おにぎり作ったので、ちょっとでも食べたほうがいいのです」同情され気遣わせた原因となったのは他でもない、近隣の鎮守府に着任した従姉妹にして天敵、一ノ傘姫乃である。

「ヘーイ副提督、マーフィーの法則って知ってマス?」

【金剛:Lv.89 → 99】

「めっちゃ頑張って今やっと書き終わったメールは消えるって法則。――金剛ちゃん今ちょっと不吉なこと言うのやめようか。あと30秒くらい黙っとこうか」

「Oh...ソーリー」

 身内がかつてブラック鎮守府の責任者として名を馳せていたことを最大限に悪用し、様々な過程を省略して提督となった、どころか深海棲艦になりかけた艦娘の監視と運用を任されるまでになり、その上前例のないトラブルを呼び込み楽しんですらいる悪魔、一ノ傘姫乃――傘姫の身内人事のツケが今、ここ第二執務室の主に怒涛のような勢いで流れ込んでいるのである。

 あまりに事情が複雑であり誰に何を説明しようと全容を把握しているのが当事者である一ノ傘(鉄子の方)ただ一人である以上、いくら説明を繰り返したところで上層部の把握はまったく追いつかない。今、恐る恐る送信ボタンをクリックして送信した内容も、いったい何度説明したことやらと彼女をウンザリさせるものである。酷い時など、上層部の配属変更により担当となった新米らしい者から「正規空母の葛城なる危険因子が登場した理由と安全性を説明せよ」と今更かつ見当違いも甚だしい要求をされたこともあった。秘書艦が止めていなければキレた一ノ傘が電話越しに相手の鼓膜を攻撃するところであった。

 傘姫に関する問題事については厄介を極めるが、上層部の方針は至ってシンプルだった。

「元々はお前の管轄だった鎮守府と海域にお前の身内を配属させたのだから、お前が責任を取れ」

 一ノ傘以外の誰もがそもそも思考を放棄しているため、彼女の苦労は最初からすべて無駄であり、そのことを分かっていてなお対応義務のある彼女は今まで好き勝手にやってきた代償を払うように不毛な仕事に没頭した。

「アイツほんとクソやろ……前送ったメール添付しとんのに普通これ皮肉って気付かんかねぇ。そのお話は前にもしましたよーあなたの頭の容量は何キロバイトですかー」

「……Excuse me? ちょっ、ウェイウェイ! メール打ってるヨ副テートク! 今のはまずいデース!」

「あん? ……おおホントだ。指が勝手に動いとった」

「ダークサイドに堕ちかけてたヨ。ちょっと休憩したほうがイイネー」

 寝不足が続くにつけ、封筒にカッターナイフの替刃を入れようとしたり、暗黒メールを送信したりしそうになるなど危うい行動に走りやすくなった一ノ傘に従事する秘書艦は、専ら副提督の監視を最近の仕事としていた。どうせ今の一ノ傘に他人に仕事を割り振る余裕などなく、秘書艦は執務室の掃除や一ノ傘のパシリくらいしかやることはない。ちょこちょこ暗黒面に堕ちる一ノ傘を恐れて通常の艦娘は近づくことすら躊躇い、耐性があるか、もしくは図太い艦娘ばかりが秘書艦になった。必然、秘書艦は副提督とは対照的にくつろいでいることが多かった。本日の秘書艦、金剛はというと、空いた時間を家具カタログの精査に当てていた。

「そういや金剛ちゃん、さっき何か言いかけとらんかった?」

「ちゃんと言ったつもり……そ、そうデシタ。マーフィーの法則ってありますよネ?」

「有るか無いかで言われたら無いとは思うけど、あるねえ。それが?」

「じゃあ『バター猫のパラドックス』はご存知?」

「えーと……………………バター猫のパラドックスとは二つの言い伝えを皮肉った組み合わせに基づいた逆説、のことやろ。知っとる」

「目の前でWikipedia音読される知ったか振りは初めてデス……まあ説明の手間が省けて助かりマース」

「ほほーう。バター側から落っこちるトーストと空中で体勢整えて落ちる猫を貼り合わせると、空中で回転し続けると……これ猫じゃなくてもトーストとトーストじゃ駄目なん?」

「トーストは意地でもカーペットを汚そうとしマス。マーフィーの法則に従うと、二枚重ねたトーストを落とした場合は縦に落っこちて、パカッと割れて両方がカーペットにベチャリと」

「あーなるほど」

「トーストと猫。この二つを組み合わせることで、回転し続ける永久機関の完成デース! ワァオ! ダ・ヴィンチもビックリネー! どうデス副提督、興味ありませんカ? 妖精のテクノロジーをも凌駕したスーパーサイエンスを手に入れたいと思いますよネ? タイヨウコウハツデンとかいう技術もコストも機器寿命も人間のオツムも追いついてないファックな呪縛から世界を解き放ちたいと思いますよネ?」

「使い方次第なエネルギーにイチ艦娘が変なこと言うのやめとこうねー」

「イェッサー」

「まー面白そうではあるねぇ。猫がクルクル回るのとか特に」

「デショ!? それじゃあ善は急げ! Let’s experiment!」

「そんなに暇やったん?」

 

 

◆― トーストと猫 ―◆

 

 

「トースト焼いてきたヨー」と金剛は片手にバターを塗った熱々のトーストを乗せた皿を持って元気に第二執務室に戻ってきた。そのやたら楽しそうな表情を見て、つい先程まで心身に余裕がなくなるまで働いていた一ノ傘は、僅かながらも怒りを覚えずにはいられない。

「は? ちょっ、ここで実験する気?」

「そりゃそうデショ」

「なんで?」

「なんでって、Why?」

「……いいけど。そんで猫はどうするん?」

「心配Nothing. さっき比叡に五分以内に捕まえてこいって言いましたカラ、そろそろ届くと思いマス」

「この鎮守府で野良猫ってそう見らんのやけど……竹櫛も言っとったけどさ、君ら姉妹って実は仲悪いの?」

「What? 金剛型シスターズ・ラヴは艦隊ナンバーワンですガ? ああ球磨型と比べるのはやめてクダサイ。あっちはクレイジーな一線を超えてますカラ」

「どっちもどっちやと思うけどねえ」

 胸を張って得意気になる金剛に(歪んどるねえ)と失礼な評価を下す一ノ傘である。

 まったく期待できそうにないシスターズ・ラヴを待つよりは金剛の焼いてきたトーストを食べて仕事に戻ったほうがいいか、と考えていると「お姉さまー!」と廊下からはつらつとした声と、何か重量物がゴロゴロと廊下を転がってくる音が聞こえてきた。少し自分の価値観に自信を無くす一ノ傘であった。

「お待たせしました金剛お姉さま、ご依頼のネコです。あ、どうもです副司令」

【比叡:Lv.81】

 今に始まったことでもない、ついでのように挨拶されるのも、ささくれ立った一ノ傘の気分には引っかかった。表情に出たのだろう、比叡は尻込みして「……す、すみません騒がしくして」ペコペコ頭を下げた。

 一ノ傘の不機嫌は艦隊全員の知るところであり、彼女に近づきたくないと言う艦娘の割合は非常に多い。積極的に世話を焼こうとする雷や、睡眠時間を削って仕事をしている人間の前で平然と家具カタログを読んでいられる金剛のような者はごく少数だった。

「ヘイ比叡、ソレ何ネー?」

 比叡は猫を抱いてはおらず、台車に布団の塊を乗せて運んできた。これから粗大ゴミに出しに行くかのように。

「何って、お姉さまに言われたとおりネコですけど。ああ、この蒲団はですね、ネコが炬燵から出てくれなかったので、そのまま蒲団でラッピングしてお届けに来たんです」

「にしてもビッグサイズですが、まあいいデショ。ご苦労様ネ」

「いえいえ、お姉さまの頼みとあれば」

「せっかくだし比叡も見学していきますカ? 今から歴史的実験を行うのデスが」

「えーっと……」チラリと一ノ傘をうかがう比叡。

「せっかくのお誘いですが、今日は……その……防御力を高める訓練といいますか、砲弾を素手で弾く特訓をしようと思ってましてですね」

「さっきまでPS4でDestinyやってた奴のセリフとは思えネーヨ。つーか砲弾を素手でとかデンジャラスなことは霧島とか球磨とか、人外のやることネー」

「と、とにかく訓練がありますので。では一ノ傘副司令、お忙しいところを失礼しました」

 台車を捨て置いたまま、比叡はそそくさと去っていった。

 蒲団にくるまった猫は台車の上で、比叡に慌ただしく運ばれて来たにも関わらず逃げようとも動こうともしなかった。

「このビッグキャット、ちゃんと生きてるんでしょうネ?」

 金剛が上部を指でつつくと蒲団がわずかにもそりと動いた。

「ふむう……Take this!」

 何を考えてか次は横から、突き刺す勢いで指を蒲団にめり込ませた。これには中のネコも堪らず「ふにゃあ!?」と明らかに擬音語表現ではない人間の声で悲鳴を上げて蒲団から飛び出した。

「さっきから何にゃ、多摩はいま忙し……あれ、多摩の部屋は? 副提督と金剛? ここはどこにゃ? 吾輩は誰にゃ? でも猫じゃあないことだけは確かにゃ」

【タマ:Lv.ネコ】

 誰しも得手不得手を持つように、金剛のように秘書艦業務を任せられる者、比叡のように業務から逃げる者もいれば、タマのように秘書艦業務にまったく向いておらず、執務室に近寄ることすら稀である艦娘も一定数存在する。歯に衣着せぬ言い方をすると竹櫛、一ノ傘曰く「邪魔だから来るな」といった具合である。

 そんなタマにとって第二執務室は初めて足を踏み入れる場所だった。竹櫛のいる第一執務室は指折り数える程度は見たことがあったが、ここはあまりに盛沢山だった。仕事になんら関係の無さそうなオモチャと仕事の憂鬱さを如実に表す書類で溢れている。

「にゃあ……にゃあにゃあ」

 新たな縄張りを巡回するように室内を観察するタマは何故か、満更でもなさそうだった。

 自室に戻る余裕もない時に一ノ傘が仮眠を取るためのソファと毛布を発見すると、吾輩ここに居場所を見つけたり、遠慮という概念を持たない野生動物のようにソファの上で毛布にくるまり丸くなってしまった。

「日向に匹敵するメンタルネー」

「さすが球磨ちゃんの妹……」

 

 

◆― 実験準備 ―◆

 

 

「サーテ。問題はどうやってタマにトーストを固定するかネー」

「え、実験やるん? 猫は?」

 何を言っているんだコイツはと言いたげに金剛はタマを指し示した。

「……うん、もういいや。トーストはほら、ウィキペの絵みたいに紐で縛ればいいんやない」

「スーパーサイエンスなので装置もスーパーにしたかったのデスが、まあいいでショウ。副提督、なんか紐ありマス?」

「ある……かもしれんけど」

 一ノ傘の事務所 兼 私物倉庫と化している第二執務室は物で溢れ返りすぎ、適当な紐一本を拾うのにも逆に難しそうな様相を呈している。ビニール紐やガムテープといった日用品を雷に管理させ、いざ自分では使えないのは一ノ傘の良い年した女として非難されるところであった。

「じゃあコレで代用しまショウ」と金剛がガラクタの山から引っ張り上げたのは、PCモニタ用のアナログケーブルだった。確かに使わんから放置しとったし別にいいけど金剛ちゃんもうちょっとこう私への遠慮とかそういうのはしてもらえんのかね、と言いたくても言えない倉庫の主だった。

「Heyタマ、Good morning!」

 いなり寿司の油揚げのように被っていた蒲団を勢い良く引っぺがすと、「猫じゃにゃいけどフシャー!」と犬歯を剥いてタマは威嚇態勢に入った。

「ハイハイ後でなんでも奢ってあげマスから大人しくしましょうネー」

「…………海鮮丼、松で」

 威嚇態勢、解除。ちょろい。

 背中にトーストを当てられて「あ~温かいにゃ」アナログケーブルで腹をグルグルと巻かれるタマの姿は、少なくとも一ノ傘にはとてもシュールに見えた。

「OK, これで準備はバッチリデース! さーいよいよ実験開始デスよ? 副提督、論文のための記録準備はバッチリデスか? 目を離しちゃあ捏造疑惑かけられるからNo! なんだからネ!」

「金剛ちゃんが楽しければいいよ、私は」

 

 

◆― 一方、隣の第一執務室では ―◆

 

 

「なあ叢雲、さっきからペン回しが上手いようだが……」

「え? あ、ごめん。ちょっと気が抜けてた。大規模作戦が片付いたからって私ったら」

 どこか遠い場所を虚ろに眺めていたことを咎められた、そう思い姿勢だけでも引き締めようとした叢雲だったが、竹櫛は「いや、そういう意味ではなくてだな」と歯切れ悪く言った。

「器用に回しているそれ、ペンじゃなくて……ナイフなのだが」

「はい?」

 自分の右手が持っていたものを見た叢雲は「……うっそぉ」勝手にナイフを抜いてしまう自身の無意識にドン引きした。

 鎮守府が海でなく陸から襲撃されて以降、彼女は球磨に陸地での格闘戦技を習い、右足にナイフを常備するようになった。理由は明確、すぐ側にいる男をいついかなる時も守るためである(と彼女の口からは裂けても出てこないが)。もし再び鎮守府内に銃を持つ暴漢が現れたとしても、今の彼女であれば迅速かつ安全に処理できる。ただ睨みを利かせる他に何もできなかった情けない過去を穿ち己の刃で活路を切り開く。まだまだ球磨には遠く及ばないものの会得した技術は彼女に確かな自信をもたらした――はずだった。

「ここのところ不調続きではないか。二度も医務室で寝込んだのも普通ではないし、叢雲、心当たりがあるのではないか? 私にはお前の体調を管理する義務もあるが、それ以上に私の右腕が心配なのだ」

 叢雲は思わずニヤけそうになり、ストレスも一時的にほんのりした嬉しさで上書きされた。今までの努力もこのナイフも、全てはこの信頼を勝ち取るためにある。だからこそ不調の明確な原因を打ち明けるわけにはいかず、今度はジレンマに悩まされる。

 不調といえば確かに不調、ここ最近、彼女は寝不足に悩まされていた。週に三日ほど夜々中に体力消費を強要され、睡眠時間を極端に削られるのである。

 ナイフを太腿のホルスターに仕舞った。

 いっそナイフで問題を解決してしまおうかとも勿論、彼女は考えた。使わないに越したことはないナイフをまさかルームメイト相手に初使用することになるとは……いったい何のための訓練だったのだろうと煩悶するも、いや相手も特殊装備とかふざけたことを言ってふざけたモノを持っているから已む無し、と理論武装してまずは軽く脅すつもりでナイフを抜いた。これが逆効果になってしまうとは、いったい誰が予想できたろうか。

『う、美しい……美しいぞ叢雲! その隙のない構えは間違いなく強者の証! やはり艦隊の剣である総旗艦は伊達ではない。ああ、広報に華々しく取り上げられる撃沈王大和に安直に憧れていた自分が恥ずかしい。そうだとも。本当の強さとは海上のみでは計れない。例え寮の私室であっても状況を開始できる鍛え抜かれた精神こそ我ら艦娘の真の力! 未熟者の私がそんな叢雲と同室できて光栄の極みだ。今更だが艦隊のエースと布団を並べて眠れるなど私は何と運の良いことか。しかし私とて誇り高き艦娘の端くれ、背中を預かることはできなくとも、せめて私室での安息だけは何があろうと護り抜いてみせよう。だからどうかこの部屋にいる時だけは心を休めて欲しい。休息なくして戦闘は成り立たん。実は丁度良いタイミングで吹雪に次の特殊装備を借りたばかりでな――これなのだが全身のマッサージにも使える優れものらしい。しかしそれ故に強力過ぎるから使用には注意を払えと言われてな。以前のピンク色のアレとは比べ物にならないほど……待て逃げるな叢雲。心配するな。危険なものをいきなり叢雲に使用する愚は犯さん。まずはこの磯風が安全性をしっかり確かめる。だから逃げようとするな、大丈夫だ。安心してその身を任せてほしい。貸してくれた吹雪とて叢雲に負けず劣らずの練度だぞ、この電動マッサージ器も優れものに違いない』

 といった理由で、叢雲が鍛えたナイフスキル初の攻撃対象は電動マッサージ器になってしまった。

 悪気は無かった二人のためを思ってのことだったと言い訳する吹雪に知っている限りの関節技をかけても、しょうもない理由で折れた彼女のプライドと大きく欠けたナイフの刃は元には戻らなかった。そして追い打ちをかけるように、落ち込む叢雲を慰めようと彼女の布団に潜り込んでくる、懲りることを知らない磯風。休まる時間などありはしなかった。

 そんなワケで寝不足です、と竹櫛に知られた日には生きてはいけない叢雲である。

「実は……その、言いにくい事なんだけど……」

「なんでも聞くぞ」

「あ、ありがと。……えっと、私っていつの間にか総旗艦って位置付けになったじゃない? 誰かが勝手に呼び始めた肩書きなのに」

「誰も異論を挟まないほど信頼されていたからな。やはり具体化された肩書きはストレスになるか」

「……うん。ちょっと」

 総旗艦という肩書きが重荷になっていることは嘘ではない。しかし彼女が感じている重さの程といえば財布に少々貯まりすぎた小銭程度でしかなく、むしろ竹櫛に「総旗艦」と呼ばれて戦意が高揚すれば軽巡洋艦の主砲すら装備できそうな力で満たされる。

 とはいえ高揚したところで寝不足は誤魔化せない。

 限りなく嘘に近い真実であれば構わない。叢雲は慎重に言葉を選んだ。

「総旗艦って呼ばれること、不満に思ってるわけじゃないのよ? ただ、そうやって自分に言い聞かせて動いてたら、他の皆もこう、そんな目で私のこと見るのよ」

「ほ、ほう。そうか。そんな目でな」知ったような振りをする竹櫛である。

「頼りにして貰えるのは嬉しいんだけど……限度ってものがあるじゃない。えーと例えば大井と北上みたいな」

「あの阿呆共か? 私はもうアレは手遅れだとばかり――」

「間違えた。今のナシ。そんな極例は置いといて、私だってまだまだ未熟なのよ。おんなじ駆逐艦で練度も近い電と雷と吹雪は私が知らな……うん、全っ然知らないレベル上げてるし、私に同じこと期待されても困るのよ。というか何で雷じゃなくて私なの? 磯風は私相手にレベル上げして吹雪から借りる道具も最近は使わなくなっ…………いろいろ疲れて寝不足です。はい」

「そ、そうだったのか」

 竹櫛が気の利いたフォローもせずに考え込んでしまったせいで、第一執務室はしばらく叢雲にとって息苦しい静寂で満たされた。

 

 

◆― 実験開始! ―◆

 

 

「待つにゃ待つにゃ待てコラ金剛オマエ今から多摩をどうする気にゃ!」

 金剛にお姫様抱っこをされたタマは下手に暴れることはできなかった。金剛は秘書机の上に立っているため、今のタマはそこそこの位置エネルギーを獲得している。このエネルギーを元にパラドックスを誘発し、永久機関を完成させるのである。金剛の理論に隙はなかった。

 一ノ傘はストップウォッチを持たされている。これは『万が一』実験が失敗した時、タマがどれだけの時間を回転し続けられたかを計測するためである。ただし一秒を確実に切ってくるであろう時間を正確に計れるか一ノ傘には自信がなかった。

「カウントダウン、いきマース! FIVE, FOUR...」

「だから待てとゆーとるにゃ!」金剛に猫パンチを食らわせるタマ。

「せめて何するか説明くらいしにゃいか!? 想像つくけども! なんとなく想像つくけども!」

「じゃあ問題ないネー。THREE, TWO, ONE. 投下」

 タマの背中に縛りつけられたトーストが床を向くよう、金剛は躊躇なく手を離した。

「に゙ゃっ!?」

「あ……」金剛が手を離したと同時に、やっと一ノ傘は気付いた。少し見上げるほどの高さから背中で着地するのは人体的に非常に危険である。骨や臓物や命への甚大なダメージは免れない。ソファの上で寝返りを打って落ちただけでも神を呪う程の痛みを味わったくらいである。しかしタマは既に金剛の手から離れ、もう間に合わない。ストップウォッチが手をすり抜けた。タマが落ちてゆく刹那、走馬灯のように様々な未来が流れていった。担架で運ばれてゆくタマ。竹櫛や電たちの侮蔑の視線。憲兵が来るより早く届くであろうタマの姉、球磨のナイフ。何もかもが手遅れ。絶望するより他になかった。

 

┣¨

 

 ……かに思えた瞬間、だがタマは床に落ちない。

 

┣¨┣¨┣¨

 

「What?」と金剛。

「へ?」と一ノ傘。

 

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 高さは床から約1メートル。

 

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 回転数はトーストがはっきり見えないほど高速。

 

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 回転方向が横方向ではなく前方向なのは予想外ではあるが、そもそもが予想外。

 

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「そ、そんなアホな……回っているゥ――――ッ!? とても私には信じられんことやけど重力を無視して! まるでソニック・ザ・ヘッジホッグのようにッ! あ、トースト千切れ飛んだ。でも回転は止まらない……どころか速度を上げている……ッ!? だとすれば、これはもはや『バター猫のパラドックス』に従っちゃあいないということ!? 逆理をも超越した現象が今のタマちゃんには働いているというのッ!?」

 

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「いいえ……そういうことじゃあないんデス副提督……この『音』が聞こえませんカ?」

「お、音って……?」

 

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「さっきから床に響いている『┣¨┣¨┣¨┣¨』という重機のような音デス」

「た……確かに……回転にばかり気を取られとったけど何の音?」

「どうやら艦娘の動体視力でしか捉えることはできないらしいネ……」

 

┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨

 

「どういう……ことなん?」

「結論から言わせてもらいマス……タマは前方宙返りを繰り返しているのデス……副提督が着地を視認できない程の超高速でッ!」

「そ、そんな……じゃあこの『┣¨┣¨┣¨┣¨』という音はッ! つまり!」

「そう……タマが床を蹴っている音! 尋常ではない速さが、空中で回転しているように見せかけているのデース!」

 

┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨

 

「さすが球磨ちゃんの妹、計り知れんわぁ……でもさ、ならタマちゃんは何で回っとるん? バター猫の説明もしとらんかったよね」

「Briefingすると逆に実験の妨げになりますからネー。タマには何も知らせないのがBestデシタ」

「じゃあタマちゃん頑張る意味なくない? 着地した時点で実験も失敗しとるし。というかタマちゃんは何がしたいん?」

「さあ? 止まるの待って聞くしかないネー」

「これ止まれる勢いやないやろ」

 

┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨┣¨

 

「加速の臨界点を過ぎて速度が落ちてきてマス。疲れてきたみたいデスし、そろそろ――」

 一ノ傘には見えなかったが、金剛の動体視力はタマが足を滑らせた瞬間をはっきりと捉えた。

 超高速回転していた体が床に落ちると、まさにソニック・ザ・ヘッジホッグよろしく(ネコのくせに)スピンダッシュをしてしまうのは当然だった。そしてガラクタ置き場の様相を呈する第二執務室でスピンダッシュすればどうなるかは考えるまでもない事であるが、今この場合に限っては想像するよりもタマのクラッシュのほうが遥かに早かった。

 

 

◆― OK! Don’t Mind! ―◆

 

 

 目を回したタマをこっそりと誰にも見つからないように医務室のベッドに放り込んだ金剛は深く反省し、しかし性懲りもなく再実験に向けた準備を始めた。一ノ傘の蔑みの視線など戦艦の装甲で容易く弾いてしまう。

 どうやら自分が秘書艦であることは完全に忘失しているらしく、スマホで比叡に再び無理難題を吹っ掛けた。

「ハロー、マイシスター。さっきのタマがダウンしたので次の猫を連れて来なサイ。次は分類学でいうところのネコ科ネコ属イエネコ亜種で。なるべく背中に熱々のトースト貼り付けても怒らない子を選んで――What? 手が離せない? んなもんコントローラー投げ捨てれば済む話ネー。――Friendsの迷惑になる? LANケーブルで繋がっただけのひょろっちい関係なんて友情とは認めまセン。『こんな時間にゲームやってんじゃあネーヨ働けニートw』と煽りメッセ送ってあげるのが真の友情なのデス。比叡のアカウントは私が管理してることを忘れたわけじゃあないでしょうネ? 今直ぐ削除するのも顔写真付きでID晒すのも――Good. 物分かりの良い妹はお姉ちゃん大好きデース。じゃ、第二執務室で待ってマース」

 一ノ傘、本日何度目かのドン引きだった。

「ねえ金剛ちゃんさ……やっぱ嫌いやろ。比叡ちゃんのこと」

「Why? こんなにも愛してマスのに。Burning love! があるからこそ、ゲーム課金のために私のお給料からお金を抜き取られたことがあってもまだ生かしておいてやってるんデスが?」

「そ、そう……」

「詳しくは業務日誌【叢雲の薬指 2】をご参照クダサーイ」

「……気が向いたらね」

「それはさておき副提督。私たちはさっきの実験でどうやら、とっても大切なことを失念していたようデス」

「倫理観とかね。タマちゃんへの気遣いとかね」

「ズバリ、カーペット! ついついバター猫に気を取られてしまいましたガ、前提条件となるマーフィーの法則を発動させる確率を上げるためには高級カーペットが欠かせマセン」

「ああ、そういやさっき家具カタログ見とったね――働きもせんで」

「そ、それは……とにかくカーペットが必要ネー。家具職人妖精のオーバーテクノロジーをふんだんに使った力作が、えっと確か竹櫛提督が無駄に使ってマシタ。ちょっと隣に行って借りてきマス」

 いそいそと執務室を出て行く金剛の背中を見送り、一ノ傘は改めて室内を見回した。特別欲しい家具があるわけではない。服がシワにならず収納できて化粧や全身チェックできるだけの鏡さえあれば構わないと考えている。しかし家具を置かないのと置けないのは別の話である。仕事が一段落つき次第、雷と電に掃除を手伝ってもらおうと決意し、自分一人では掃除もできない生活力に今更ながら泣きたくなるのだった。

 

 

◆― 一方、隣の第一執務室では 2 ―◆

 

 

 気まずい雰囲気が二人の間に漂う中、竹櫛は「その……叢雲さえよければ、だが」叢雲の顔色を窺いながら慎重に切り出した。

「疲れを取るために温泉に行ってみるのはどうだろうか。あれだ、つまりその、慰安旅行というヤツだな」

「はい?」と叢雲はつい素っ頓狂な声を上げてしまった。

「温泉? 慰安旅行?」

「忘れてくれ。何でもない。冗談だ。仕事がありながら私は何を言っているのだ。……はは」

「いや、そうじゃなくて。あんた今までそんなこと一度も言ったことなかったじゃない。急にどうしたのよ」

「た、たまには悪くなかろうと思ったのだ。娯楽も解さないほど野暮ではないつもりだぞ、私は」

 内心「どうだか」とつぶやく似たもの同士な叢雲だった。

「いいんじゃない、温泉。疲労回復に戦意高揚のための慰安旅行。それより美容と健康効果の方が気になる連中ばっかりでしょうけど。でも行ける人数はかなり限定されるわよ? それにお金だって相変わらず……」

「そ、そうではない! 旅行に行けるのは二人だけだ」

 疲れているという叢雲と二人きりのこの状況、期は熟せり。机の引き出しの中で温めていたチケット二枚を、竹櫛はカードゲームの切り札のように掲げてみせた。チケットに早くも染みができそうなほど手は汗ばんでいる。

「それって、あんた自分で買うようなタイプじゃないわよね。どうしたの?」

「傘姫から送られてきたのだ」あっちの艦隊の、と竹櫛は近隣の鎮守府がある方角を指さした。

「一ノ傘の艦隊から脱柵した潜水艦娘を発見して、何一つ処罰せずに艦隊に迎え入れてしまっただろう。その口止めとして送られてきた。この共犯者を作る遣り口はいかにも傘姫らしい」

「あー……アレね」

 叢雲も傘姫の艦隊(特殊深棲監視艦隊)の秘書艦、葛城と何度もメールのやりとりをしていて、伊号潜水艦五名を不自然に抱き込んだことは聞いていた。

「向こうには大本営直属の戦艦様がいるからな。温泉チケットなぞ燃やして明かりにするほど手に入るのだろう。だが人手不足で自分たちには使う暇がないから別の使い方をする、というわけだ」

「傘姫司令官をやけに悪く言うわね。せっかくのチケットなんだから捨てたり換金したりするより誰かにあげちゃったほうがいいじゃない」

「ダメだ叢雲、騙されるな」

「騙されるって、そんな大げさな」

「奴は数多のあだ名を持っているがな、私が覚えている限りで最も新しいのが『羊の皮を被ったエイリアン』だぞ。奴の理解不能さは尋常じゃあない。同じ人間だと思うな」

「よく分かんないけど……じゃあどうするの? そのチケット」

「だから、む、叢雲と、わた、しで使って、し、しまうのだ」

 話の流れに任せて言えたことに、竹櫛は心の中でガッツポーズを決めた。が、すぐに不安に襲われた。

 叢雲が真顔で硬直したためである。普段からしてクールな彼女ではあるが、凛々しい表情と無表情はまったくの別物だと竹櫛は理解した。さらに彼女は硬直したまま椅子を回して竹櫛に背を向け、なにやら小刻みに震え始めた。

 女性を温泉に誘う一世一代の大博打に出るに当たり、天国から地獄まで様々な返答を想像するのは竹櫛も勿論、例外ではなかった。リビドーに溢れた希望から鎮守府を去る絶望まで、目に焼き付けている限りの叢雲像で以って(気色悪いこと甚だしい)反応をシミュレートしたのだった。つまり貧弱な想像力では彼女の見えない部分までは埋めることはできず、背を向けて黙り込んでしまった彼女に、情けなくもダメ押しの声を掛けられずにいた。閂すらかかっていない門の前で破城槌を持ったまま様子見をしているような体たらくであった。

 叢雲も叢雲で、クレヨンしんちゃんのあるルールに縛られるように竹櫛に顔を見せられないでいた。

 野原しんのすけがニヤける時、カメラは絶対に正面に回らない。

 叢雲の顔は、1990年に連載が始まり様々な紆余曲折がありながらも今日に至るまで愛され続けている野原しんのすけの誰も見たことのないニヤけ顔のようになっていた。鏡がないため誰も目視はできないが、叢雲が感じている表情筋のかつてない緩みっぷりから想像されるのはまさしく野原しんのすけのニヤけ顔だった。音でバレないよう静かに深呼吸、ではなく何故かラマーズ法で冷静さを取り戻そうと試みるも、バクバク激しく鼓動する心臓が呼吸器さえも震えさせる。

「あ! あ、あんたが!」

 とにかくこのチャンスを逃すまいと返事を考えるのに必死で、裏声になろうとも気にしてはいられなかった。

「い、いいいい行きたかっただけなんじゃないの!?」

「そ、そんな事はないぞ! わた、私は、その、アレだと思ったのだ!」

 叢雲の素っ頓狂な声につられて竹櫛もヒートアップしてしまう。

「アレって何よ! アレって何よ! なに考えてんのよスケベ! ヘンタイ!」

「んなっ!? ただの温泉ではないか! それに旅行とは言ったが温泉は近場だぞ! 日帰りだぞ!」

「んひゃっ!?」ルームメイトになった磯風を夜毎つっぱねはするも、知らず知らずのうちに毒されていた叢雲だった。だがここで引いてしまえば自分は温泉旅行を破廉恥とみなすムッツリスケベである(事実そうなのだが)。もう後には引けなかった。

「お……温泉旅行っていえば普通は最低でも一泊するでしょ!? そうに決まってるじゃない! だから寝る時は同じ部屋、に、なるわ、け、だし……そ、そんなのに女性を誘うってのがよろしくないのよ! 普通は! なに考えてんのよバカ!」

「そ、そうだな……私と温泉など行きたくないよな……」

「は、はあ!? 誰が行かないなんて言ったのよ!」

 滅茶苦茶であることは叢雲が一番分かっている。だからまだ竹櫛には背を向けたままだった。

「その……仕方ないから行ってあげてもいいって言ってんのよ! つ、疲れてるし、温泉入りたいし。別に、あんたと行きたいわけじゃないけど……えっと、ほらそのチケット、あんたのだし。使わないと傘姫司令官に失礼になるし」

「そ、そうか……! では、だが、どうする? ……日帰りにしとくか?」

「い……一泊二日って言ってんでしょバカ――――ッ!! なんなのバカなの死ぬの!? 私が泊まるって言ったの聞いてなかったの!? あんたってほんとバカ!! シュレーディンガーのバカ!! バター猫のバカ!! キャトルミューティレーションバカッ!!」

 つい我慢ならず椅子を蹴倒して立ち上がり、竹櫛に向かって秘書机を叩いた叢雲。その興奮は竹櫛と目を合わせた途端、顔の水分を蒸発させそうなほどの恥ずかしさに変わった。まだまだ罵倒し足りなくとも、何も言えなくなってしまった。ついうっかり口を滑らせてしまいそうだった。

 温泉どころか宿を取る、嬉し過ぎる誤算となった竹櫛も、今までと同じ目で叢雲を見ることはできなくなっていた。

 言葉が見つからないまま目を逸らすこともできず、しかし決して悪いものではない沈黙。だが二人とも言いたいことだけは昔からあった。いつか必ず言おうと決意していたそれ以外に今は何も紡ぐことができない。

 だったら、もう、言ってしまおう。

 二人の想いは共鳴した。

「なあ、聞いてくr」「ねえ、聞いてほs」

 

「ヘーイ提督ゥ! High-gradeなカーペットを寄越しなサー…………い?」

 

 第一執務室で今まさにLoveがBurningしようとしていた雰囲気を、練度99の鍛え上げられた直感でもってして金剛は扉を開くと同時に感じ取った。

 阿呆戦艦は阿呆戦艦であっても阿呆戦艦なりに、やってはならないボーダーラインは弁えているつもりであった。姉妹にも鉄の掟として教え込んでいる。

 曰く、人の恋路に土足で踏み入りそうになれば自分の足を砲撃してでも止まれ。

 人の恋のためならば世界中の紅茶葉をボストンの港に放り込むことも躊躇うな。

 そう偉そうにのたまった張本人が、ようやく長かった道のりを合流させようと、歩み寄ろうとしていた二人を全力で妨害したのである。艦娘歴の長い金剛も今ほど「あ艦これ」と諦観したのは初めてのことだった。他所様の恋路に足を踏み入れるくらいなら足を撃って止まれと自分で言っておいて、では全身で立ち塞がってしまった場合はどうすればよいのだろうと金剛は考えた。やはり三式弾だろうか。せめてハーグ陸戦条約に引っかからない手段で一瞬で楽にしてはくれないだろうか。

 しかし金剛が脂汗を排出しプルプル震えながら結論をひねり出すより先に、叢雲が壊れた。

「ふっ――フヒッ」

 深海棲艦よりも不気味な笑みを湛え、錆びついたかのように右腕がギチギチと動き、だが手だけはしっかりと太腿のホルスターからナイフを抜いて握った。

 

 

◆― 猫に蹴られて死んじまえ ―◆

 

 

「あ艦これ! あ艦これ!」

 慌ただしく戻ってきた金剛の尋常ではない動揺っぷりに、一ノ傘は何があったのかもしばらく聞けなかった。

 第二執務室に戻ってくるなり扉に鍵をかけ、ソファやら書類棚やらハンガーラックやらを手当たり次第に扉に押し付けて固めてバリケードにしていった。

「テコの原理で固定して……! ああそんなネタに走ってる場合じゃない……!」

 とにかくサイズの大きな物を室内で引きずり回せば当然、一ノ傘の部屋は限りなくゴミ屋敷に近い様相となってゆく。そんな事などお構いなしに金剛は室内を走り回った。目ぼしい重量物が無くなっても、折りたたまれたダンボールや梱包材、手に取った物は片っ端から扉の前に詰め込んでいった。

「普通の人間だったら死んでた……! 普通の人間だったら死んでた……!」

 キャラも忘れてテンパる金剛が、一ノ傘お気に入りの観賞用ライフルまでもバリケードの一部にしようとしたため、一ノ傘は慌てて止めに入った。

「ちょっとちょっと! どしたんよ? 何があったん?」

「ふ、副テートク……ヤバイよ私。殺サレル」

「なんで? カーペット借りるだけがそんなにまずかったん? 竹櫛も小っちゃい男やねえ」

「No. カクカクシカジカで激おこ叢雲が人外サイドに片足突っ込んだんDEATH」

「人外って、そんな女の子を化け物みたいに」

「ちょっと前に球磨は、まだまだナイフ投げも無理だって言ってたノニ……極死七夜とか完全に私を殺しニ……あばバばババばば」

「なんか知らんけど、金剛ちゃんが悪いんやから素直に頭下げに行ってよ。ここで暴れんでくれる?」

「ネガティブ! 副提督は私に死ねと!? 下げる頭を引き千切るのが極死七夜という――!」

 入り口を封鎖してとりあえず今直ぐ死ぬ心配はなくなった金剛の意表を突くように、ピリリリリ! と金剛のポケットからけたたましい電子音が鳴った。自分のスマホの着信音に驚いた金剛はガラクタの山に頭から突っ込んだ。

「Shit...! What’s the fuckin’ call! ――比叡!? こんな時に電話してくんじゃあネーヨ!」

 通話ボタンを押した金剛は開口一番「 F u c k y o u !! 」と叫ぶのだった。

「クソ忙しいのが分かんネーのかクソビッチ! ――あん!? 猫ォ!? 知らネーヨこっちは殺人鬼に狙われてんノ! オマエのネーチャン、叢雲に殺されそうナノ! 早く助けに来なサイ! 今どこほっつき歩いて――はあ!? 傘姫提督の鎮守府!? 何故に猫探しに隣の鎮守府まで――は? そっちの秘書って、いやいや比叡まさか――NO!! NONONONONO!!!! やめなさいバカ! 妖怪猫吊るしから猫借りるとかクレイジーにも程がありマス! 艦隊潰す気かオマエ! ――いなかった? 出張中だったけど伝言がある? 私に? この金剛に? 妖怪猫吊るしから? ……Why? まだ会ったこともないのに意味ワカラン。何だっテ?」

 それがですね、と言伝を預かった比叡は困惑気味に、言葉を重ねた。

 

『『 う し ろ か ら す み ま せ ん。 こ ん に ち は 』』

 

「こ……金剛ちゃん……後ろ!」

 一ノ傘は拳銃を引っ掴んだ。エアガンではない、自決用の役立たずだと馬鹿にしていた鉄砲である。引き金にまで指を掛けていた。

 叢雲の突風のような殺気とは違う、纏わり付くような不気味さに怖気を震った金剛は恐る恐る振り返った。歩幅にしてたった一歩の距離。金剛の鋭敏な感覚にも察知されることなく、小柄な少女はそこに立っていた。

 白いセーラー服。無闇なドヤ顔。そして前足を持って吊るされた白猫。直接会ったことはなくとも、いったい何時から何故この場にいるのか理解不能でも、金剛の艦娘としての奥底から湧く本能的な恐怖が平常心を塗り潰した。通話中だったスマホが手から落ちた。

 

『 猫。 ご 入 用 で す か 』

 

「――撃って副提督」

 極限の恐怖が金剛のギアを、深海の鬼姫クラスを相手取るレベルまで加速させた。全国の艦隊が足並みを揃えて旅団となり、それでも尚、人類の守護者を幾多も葬る理を逸脱した化物。それと同等、あるいはそれ以上の『何か』と対峙していた。

「銃を構えたら躊躇わずに撃つネ――ッ!!」

 戦艦といえども艤装がなければ盾にしかなれない。だが銃を持った一ノ傘の盾にはなれる。決戦モードの金剛は合理的に迅速に、目前の脅威を排除することだけを考えた。しかし発砲音はいくら待っても鳴らず、執務室に現れた少女は金剛にドヤ顔を向け続けた。

 

『 通 信 エ ラ ー で す 』

 

「What? 何を言って――」

 一ノ傘は臆してしまったらしいが、幸い相手もまだ動かない。こうなれば一ノ傘から銃を奪って撃つしかないと、後退しようとしたその時、金剛の背後でゴトリと何かが落ちた音がした。その音に反応してつい振り返ってしまい、化物から目を逸らしてしまった金剛をさらなる混乱が襲った。

 一ノ傘の姿は無かった。ただ床に拳銃が落ちているだけだった。

 

『 通 信 エ ラ ー で す 』

 

 少女は淡々と繰り返した。それが当然のシステムであるかのように。

 金剛は飛び付くように拳銃を拾い上げて少女に向けて構えた。

「副提督に何をシタ?」

 

『 そ の 武 装 は 実 装 さ れ て い な い た め 装 備 で き ま せ ん 』

 

「何をしたかと聞いているネェ――――ッ!!」

 深海棲艦に向けてそうするように、金剛は容赦無く引き金を引いた。

 しかし人差し指は空を切り、ただ指を強く握り込んだだけだった。

 一ノ傘が落とし、それを拾い、構えたはずの拳銃を、金剛は持っていなかった。

 ゴトリ、と金剛の足元で音がした。拳銃だった。手を伸ばして掴み、狙いもままならないまま引き金を引いた。だが再び人差し指は空振る。ゴトリ、と足元で音がした。

 

『 そ の 武 装 は 実 装 さ れ て い な い た め 装 備 で き ま せ ん 』

 

 戦闘面において優秀な艦娘としての金剛は完全な敗北を認めた。勝ち目のない戦闘に執着する愚は犯さない。自分は戦ってはならない相手と対峙している。恐れ慄く暇があるなら逃げろ。

 この撤退する他ない戦況で、しかし唯一の退避経路をバリケードで塞いでしまったのは金剛自身だった。

「あ……ああ……!」

 絶望するより他になかった。

 

『 バ タ ー 猫 の パ ラ ド ッ ク ス。 さ あ 実 験 し ま し ょ う 』

 

 少女が突き出した白猫は金剛の目前に迫っている。自分が腰を抜かしへたり込んでいることにも気付けず、顔を恐怖の色に染めて頭を振ることしかできなかった。情けない声をあげて泣く彼女とは別に、全てを諦観した別の彼女は、こんな情けない姿を誰にも見られていないことが唯一の救いだと苦笑を漏らす。

 

『 さ あ 実 験 し ま し ょ う。 シ ス テ ム 改 善 に ご 協 力 く だ さ い 』

 

 金剛型一番艦として上手くやれていただろうか。

 自分がいなくなった後も妹たちは上手くやっていけるだろうか。

 天照大艦隊の皆は上手くやっていけるだろうか。

 どうか、すべてが上手くいきますように。

 最後に願う金剛の顔に、白猫のプヨプヨした腹がベシャリと押し付けられた。

 

 

◆― エラー猫のパラドックス ―◆

 

 

 第二執務室(四階)の窓を蹴破って室内に飛び込んだ叢雲は問答無用で金剛の上半身と下半身を切り離すつもりだった。さっきの極死・七夜は廊下に逃れることで避けられてしまったが、今は金剛自ら第二執務室の扉を閉鎖し、檻の中で大人しく解体されるのを待っている。狭い室内ではどこに逃れようとも閃鞘・迷獄沙門(ガード不可)の射程範囲内である。叢雲はナイフを逆手に構え、腰を落とした。

「……………………ん?」

 が、室内はもぬけの殻だった。部屋の主、一ノ傘の席も空いている。

 入り口にはソファやら何やらが違法投棄されたゴミ山のような様相で壁を成しており、外からの立入りだけでなく中からの外出もできなくなっている。わざわざ割って入った窓とバリケードで閉鎖された扉を除いてこの部屋に出入り口はない。ならば金剛は(理由は不明だが一ノ傘も一緒に)隠れているに違いないと叢雲は室内をしばらく漁ってみたものの、細かいガラクタに溢れるばかりで人が隠れられるスペースなどないことは、ときどき秘書艦を務める立場から知っていた。他に可能性があるとすれば、一ノ傘が部屋を忍者屋敷のようにこっそりと改造して何かしらのギミックがあるか、あるいはバリケードの中に金剛と一ノ傘が仲良く埋もれることで擬態をしているか、この二択になる。

 阿呆らしくなり、すっかり毒気を抜かれた叢雲はナイフをしまって大きな溜息をついた。

 ふと、床に拳銃が落ちているのが目についた。エアガンだけは丁寧に扱う一ノ傘にしては珍しいものだと拾い上げると。

 

『 そ の 武 装 は 実 装 さ れ て い な い た め 装 備 で き ま せ ん 』

 

 女の子の声が聞こえたような気がして、手でも滑らせたのか拳銃はゴトリと床に落ちた。聞いたことがあるようなないような不思議で不気味な声だった。室内を再度見回したが、やはり誰もいない。頭に血が上り過ぎているのかと叢雲は自省した。

 落ち着いたところで改めて第二執務室の現状を観察すると、これがなかなか酷い有様だった。框ごと窓を蹴破ったせいで、破片を片付けてガムテープで応急処置してハイお終い、というわけにはいかなかった。室内の暖かい空気がポッカリ開放された窓からビュンビュン逃げてゆく。家具職人妖精の力を借りて補修工事しなければ、雨でも降ろうものならちょっとした惨事になってしまう。叢雲の今月の給金の使い道が確定した。

 とりあえず第一執務室に戻りたくても、さっき調べて判明した通りこの部屋には出口が無い。無くもないのだがバリケード化された扉か彼女が入ってきた四階の窓かの二択である。歌月十夜の悪夢にうなされた叢雲であれば二段ジャンプ → 空中ダッシュ → 空対空蹴りで隣室まで移動するのも容易いことだったが、正気に戻ってみれば正気の沙汰とは思えない移動法である。

「ああ、もう……」

 外から助けを呼んだところでどうしようもない以上、富士の如く聳えるガラクタバリケードをちまちまと撤去していくしかない。戦艦の腕力で組み上げられた山を崩すのは、駆逐艦の叢雲にとっては大仕事である。

「……もう怒ってないから出てきていーのよ金剛。ねえってば。副司令官までどうして隠れてるんですか」

 呼びかけてみるも割れたガラスが寒風を切る音しか返ってこない。果たして二人は何処へ、どうやって消えたのか。うんざりする撤去作業のせめてもの慰みに、この密室トリックを暴いてやろうと叢雲はあれやこれやと考えた。出口のない部屋で人が消失するパラドックス。先ほど聞いた女の子の声こそ鍵、あるいは解答そのものであることに気付くはずもなく、益体もない推理ばかりが生まれては消えていった。

 

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