球磨の薬指   作:vs どんぐり

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第35話 叢雲の薬指 - 海花と海鳥 ⑥

 第一執務室のエアコンが瑞鶴に破壊され、竹櫛が泣く泣くエアコンを買い直してから丁度一年が過ぎようとしていた。洗いたてのカレー皿のように白く艶やかなボディを持つエアコンは、なんと風向きを変える羽を手で直接動かす必要がなく自動なのである。手動ではない、自動なのである。リモコンのボタンをひとたび押せば勝利は確定、室内にこもった熱気を狙い撃ちである。室内の空気を循環させていた扇風機は涼しくなる季節まで温存できることとなった。自動的に冷房と除湿を行い、さらに消費電力は昨夏まで使用していたものとは比べ物にならないのだから科学の進歩とは深海の悪夢に勝るとも劣らない恐ろしいものである。快適さをひとたび肌で感じればフィルターの掃除など手間とも思われないのだった。

 比べて窓の外は雲も風も一面の海ですらも照りつける太陽に焦がされ、涼しげな要素が何一つ存在しない灼熱地獄である。まだ長月の一日が始まって間もないが、昼食は早くも冷やし中華に決まった。ラムネを腐らせたような色の海がある景色は眺めるだけならば季節感を情緒豊かに味わえる――涼しい部屋からただ眺めるだけならば。窓ガラスが熱を持ち、長月が座る秘書机のあたりをじわりと温めた。

 天照大艦隊が遠方の艦隊の手を借りてまで総動員されている中、涼しげに夏を眺めている長月はグツグツと沸き立つ引け目から逃げるために外の景色を眺めては仲間たちが汗水垂らして働く姿を想像し罪悪感に苛まれるという悪循環に陥っていた。秘書艦を務めた経験があまりなく、執務室という場所に慣れていないのも心の平穏を乱すのに拍車を掛けた。

 室内であるのに手に嵌めた軍手はそういう意味ではなかったのだが、今は、心だけは共に作業をしているという気分を少しだけ味わえる無駄アイテムとなった。

「お茶が入りましたよ」

 長月が窓の方から振り返って見ると、左腕に『提督代理』と書かれた腕章を付けた電が盆に湯呑み一つと急須を乗せて持ってきた。湯呑みから立ち上る湯気がエアコンの風に吹かれて揺れた。室内の温度は二十七度に設定されている。そして長月の見たところ、電が入れてきた茶の温度は九十度前後はありそうだった。

「いえいえ。勘違いはしないでほしいのです」電は長月が何か言いかけるのを制した。

「水分補給はちゃんとしないといけないのですから、長月はこの緑茶を飲み干さないといけません。すると必然的に長月は心頭滅却の心構えを作ることになります。1リットル沸かしたお湯をすべて飲みきった頃には、無想の境地に至った長月は外を気にすることもなくなって反省文に集中できる。ついでに水分補給もできる。こんなに合理的な一石二鳥が他にあるでしょうか。いいえないのです」

「……知らなかった。電って体育会系だったんだ」

「冷たい麦茶の方がよければ早く書き終えればいいだけなのです」

 今は電が使っている竹櫛の席には水滴がしたたるグラスがあった。

「勘弁してくれよ。私だって好きでサボってるわけじゃなくて、何を書けばいいのか本気で分からないんだ。原稿用紙5枚とか1年かかっても埋められる気がしない。400×5で2000字だぞ。般若心経を書き写しても1枚分くらいにしかならないんじゃないか」

「ああ、ナイスアイデアなのです。じゃあ原稿用紙5枚分、みっちり写経してください。日本神話の神様から名前を拝借する艦隊が仏教を参考にするのは変かもですが、まあ反省っぽい感じにはなるでしょう」

「いや待て。私はなんとなく頭に浮かんだものを言っただけで、般若心経なんて難しい漢字だらけだってことしか知らないぞ。それを2000字分って終わらないだろ」

「普通に反省文を書いてたら1年でも終わらないのでしょう。別にどちらでもいいですよ。改行を駆使して原稿用紙を使い切るか般若心経で埋め尽くすか」

「……ブッダデーモン」

「聞いたことのない暴言が聞こえましたよ。言っときますけど司令官は最初、原稿用紙20枚っておっしゃったんですからね。『叢雲の薬指』の1話平均文字数が1万字弱だから楽なものだろうって。私は別に、今すぐ温情を捨てて残り15枚の原稿用紙を持ってきてもいいのです」

「分かりましたよ頑張りますよ一人で勝手に飛び出した私が悪いんですよ」

 電はグラスをもう一つ出して大きな水筒から麦茶を注いだ。

「反省文も写経も嫌なら……報告書でもいいんですよ」

「報告書? 大和が公表したっていうヤツを丸写しすればいいのか。ああ、それに私がスマホを失くしたとか怪我したとか書き足すけど」

「睦月と二人揃って無事なのは何よりです。こうして元気でいてくれて嬉しいんですよ、長月」電の表情が僅かに硬いものになった。

「でも大和さん達の滅茶苦茶な『抜き打ち訓練』に巻き込まれて、散弾みたいな金属片を全身に浴びて、お医者さんが絶望的とおっしゃった摘出手術の最中に三途の川を大ジャンプで飛び越えて傷痕も残さないほどの回復を遂げたり」

 電は麦茶を注いだグラスを「どうぞ」と敢えて長月に差し出した。長月は二つの意味でしかめっ面をして「……どうも」軍手を嵌めた両手でグラスを受け取った。今朝も電に着せられた制服の袖口から包帯が覗いた。酷使した腕は回復が他の傷と比べて遅いか早いかではなく、元々の形を構成していた物質から腕を再構築しているようだった。グラスの重量が両腕に重くのしかかる。痛みも無視できるものではない。軍手と包帯の下を見られる者が今は電の他に数名しかいないのが幸いといえば幸いだった。せめて皮膚の下が元の色に落ち着くまではカレンダーズには見せたくなかった。

「それと急成長を遂げて改二になった睦月です」電の話は続いた。「長月の無事を聞く直前まではひどい顔をしてましたけど、それからの活躍は知っての通りです。カレンダーズの一番艦でリーダーみたいな部分はあったにしてもですよ、さっき向こうからついに、吹雪に続いて長門まで仕事を奪われたって半泣きの電話がありました。姉妹艦隊は元の人たちが戻るまで睦月が完全に指揮しそうな勢いです。……傘姫司令官は面白がって好きにさせているみたいですけど。おかげで私は暇人なのです。竹櫛司令官には叢雲さん、一ノ傘副司令官には雷が付いて行って、私はここで責任者の代理として傘姫司令官と戦うのが仕事だったはずなのに、まあ、向こうで直接話せる睦月のほうが早いですからね。長月が原稿用紙の前から逃げないよう見張ってるくらいしかやることがないのです」

 長月は麦茶に少し口をつけて、グラスを慎重に机の上に置いた。

「喜ばしいことじゃないか、急成長。私の怪我だって、うん、まあ治るならいいじゃないか」

「……原稿用紙、1枚追加します」

「なんで!?」

「私は仲間が大切なのです」

 そう言った電の瞳は真剣で、悲しそうだった。

「それだけ酷い怪我をしないといけなかったほど、あれだけ我武者らに成長しないといけなかったほど、危険な目に遭ったのでしょう? ……お願いですから二度とやらないでください。使命なんて考えずに精一杯逃げてください。自分たちだけの力で何とかしようとしないで、私たちを呼んでください。なにが『抜き打ち訓練』ですか。その嘘は死にかけてまで通さないといけないものなんですか。もし長月と睦月が帰らなかったら私は――少なくとも旧一ノ傘艦隊の皆は、大和さん達を相手にどんな手を使ってでも本当の事を知ろうとします。今だって本当は……。長月はこのまま、何も教えてくれないんですか」

 電の目を見れないまま長月は「ごめん」と呟いた。

「ただ誤解はしないで欲しい。私も睦月も、大和や葛城を恨んでなんかいない。むしろ睦月は今、葛城のために頑張ってるんだと思う」

「ふむ。さようなのですか」ケロリと一転して軽い調子になった電は長月のグラスをひょいと取り上げ、麦茶を一息に飲み干した。

「長月の嘘がつけない素直なところは好きです。誰とは言いませんが誰かさん達に爪の垢を煎じて注射したいくらいですよ。あの陸軍人さんの存在をすっかり忘れてしまうほど大変だったみたいですね。そしてニュースで言っていた『抜き打ち訓練』には間違いなく裏が存在する、と。まあそうですよね。向こうの鎮守府で起こりそうな事件なんて、大方の予想を外れないでしょうけどね。カレンダーズの口がかなり堅いので真相は分からず終いかともどかしかったのですが、ええ本当に長月が素直で分かりやすくて――あれ? ちょっ、なんで泣くんですか!?」

「……だって……ぐすっ…………武蔵とか、みんな、私を子供扱いするんだもん……」

「暁みたいなこと言わないで下さい……。ごめんなさいです。長月のことを下にも上にも見たことはないのです。同じ駆逐艦じゃないですか。ただ睦月に仕事をほとんど取られて時間が空いて、情報だけは入ってきますから色々と考えてしまうのです。ですから、許して欲しいのです。ほら今度こそ冷たい麦茶ですよ。反省文の代わりの写経も一回でいいですから、ね?」

 鼻をすする長月は頷いて、電から再びグラスを受け取った。気が滅入った途端に両腕の痛みが我慢しきれないものとなり、麦茶をすべて喉に流し込んで早々にグラスを机の上に置いた。

「……私、般若心経なんて一文字も知らない」

「知ってる艦娘なんて存在しないと思うのです」駄々をこね疲れた後の暁をあやす時のように電は苦笑いを作った。「ちょっと探しますから」

 竹櫛の机に戻った電はパソコンに向かった。

「でも真面目な話、今回の隠蔽……いえ、マル秘訓練は何と言いますか、外に対してだけアピールするものだと思うのです。思ってるだけですよ? 私は何も知りません。世間様から非難轟々なのは当然として、身内の私たちは好き勝手に受け止めろ、みたいな感じですよね。今はあちらの姉妹艦隊と鎮守府がドタバタしてて考える暇がなくても、元葛城さん達の謹慎処分が解除されれば――」

「モトカツラギ?」

「ええ。――解除されて状況が楽になれば長月と睦月に注目が集まるはずなのです。あの時、叢雲さんからの電話を無視したでしょう。怒り狂った叢雲さんまで飛び出して、動ける人はみんな慌てて後に続いたのですから。私は次の日に備えて早く就寝してたので、騒がしさで布団からは出ましたけど遅れたので待機してました。最終決戦かと思うくらいの大部隊でしたが、聞いた話だと砲撃音が聞こえた後、途中で大和さんに通せんぼされて『今のは訓練でした』って謝られて、堪忍袋を爆発させた叢雲さんはナイフで大和さんに襲い掛かったそうですよ。球磨さんが止めてなかったら危なかったんですって。あの撃沈王を相手に一触即死だったそうですから、いやあ、私も見たかったのです」

「そういえば私、あれからまだ叢雲の顔を見てない……怒ってる、かな」

「叢雲さんが戻ったらアイスの差し入れでも持っていくといいのです。大丈夫なのです、あの人も長月のことはちゃんと分かってくれてますよ。怒られるのは避けられないでしょうけど。――そういったわけで、長月と睦月は既に注目の的なので、皆さんが帰ってきたら質問攻めですよ、たぶん。そういう意味でも心配してまして、頑張り過ぎな睦月は明日にでもこちらに戻ってきてもらうつもりです。この猛暑の中で明らかなオーバーワークですから、長月は睦月をメンタル的に労ってあげて欲しいのです。睦月は長月をフィジカル的に助けようとするでしょうから、何と言いますか、そうしていつものカレンダーズに戻ってください。睦月にだけ帰ってきてと言ったら変に勘繰られるかもですねえ。その時は傘姫司令官に無理を言ってでもカレンダーズ全員に休んでもらいましょう。それがいいのです」

「睦月、そんなに活躍してるんだ?」

 少し自慢気になりそうな長月を電は諌めた。

「司令官さんの代理として言わせてもらいますけど、良いことではないですよ」

「改二にまでなって、さらに急成長してるのに?」

「姉妹艦隊の総旗艦まで任せてと言わんばかりの勢いがいつまでも続くと思います? 今後は天照隊から派遣する形で人を出すことになると思いますが、それであちらが楽になるほど単純な話ではありません。先日までの葛城さんを思い出してみてください。右手に弓、左手にタブレットを持って発着艦と書類仕事を同時にこなす姿を」

 バラエティに富む任務を任されるカレンダーズは実戦経験を重視されており、演習に出されたとしても数合わせであることが多かった。電は思い出せと言うが、長月は葛城と戦ったことがない。しかし雑務のついでのように天照大艦隊の艦娘を軽く捻る過労死寸前の姿は何度となく語られて、長月の耳にも姿を想像できる程に入っていた。

「睦月にも同じことをさせたいと思います? 語り種になってる私たちから見た姿なんて氷山の一角ですよ。あの空母がもし……あくまで仮定ですけど、もし深海棲艦だったら、人類は制海制空どうのこうの以前に戦略レベルでどうしようもなく負ける他ないと私は思います。傘姫司令官みたいな手綱の握り方をする鬼姫が深海棲艦にも存在すればの話ですが、とにかくそんなレベルの業務なのです」

「睦月は私たちが知ってる姿の睦月が一番いい。カレンダーズは、みんな」

「そういうことです」

 電はネットから拾った般若心経を印刷して長月に渡した。

「見たこともない漢字だらけだぞ。そもそもタイトルから何て読むんだコレ?」

「分からなくても写せはするでしょう」

「理解しなくても徳が高くなったりするのか、写経って」

「知りませんけど、ガッツリやりたいのなら調べますよ」

「いやいい。坦々と写す」長月は痛む腕でペンをゆっくりと動かし始めた。

「なあ電。あの時、睦月がカレンダーズに送ったメールは見たんだよな」

「ええ。見ましたね」

「それでさ、どう思う? もし青白い炎を出した奴が――」

「ストップ」電は強引に遮った。「葛城さんは訓練を行うために、本格的な『空母ヲ級っぽい』コスプレのアクセサリーとして青く燃えるように見える何かを用意したんです。その火が何色であれ葛城さん――元葛城さんの目が発火するだなんて常識的にあり得ません。そうですよね」

「……その通りです」

「思わせぶりなことを言った私が悪かったのですが、本当に『抜き打ち訓練』以上の情報は耳に入ってないんですからね。好奇心と同じくらい、傘姫司令官の情報操作に巻き込まれたくないとも思ってるのです。好奇心は猫を殺すと言いますし。で、何のお話なのです?」

「えーとだな。仮に青い炎を魔法みたいに出せる奴がいたとしたら、そいつは何なのかな。例えば……人間よりも深海棲艦に近いのかな」

「それは例えば、龍驤さんのようなタイプの空母に言える事ですよね」

 睦月の事、葛城の事、そして洞観者の事にばかり気を取られていた長月は、摩訶不思議な能力でヒトダマのような光を発し艦載機を操る空母の存在を今の今まで失念していた。

「海は勘違いの畑です。幽霊船の正体見たり無人島。何か心配事があるみたいですが、今更、分からないことが一つ二つ増えたところで、やっぱりそれは今更です。私たちはそんな戦いをしているのですから」

 少し座り心地の良さそうな椅子に深く腰掛けた電がもし、あの時の葛城を見たらどう判断するのだろうと長月は想像した。葛城の側にいたのが睦月ではなく電だったならば事態はより簡単に終息しただろうか。いくら仮定してみても電の言う通り分からないことが今更増えていくばかりだった。

「手が止まってますよ長月。どれくらい進みましたか」

「知らない字を写すのって想像以上に苦痛だぞ。電も暇ならやってみればいい」

「確かに暇とは言いましたが、やるべき事はそれなりにあるのですからね」

「ところでさ、さっきモトカツラギって言ってたけど、どういう意味だ?」

「姉妹艦隊の仲間になるわけですから近いうちに正式な発表があると思うのですけど、変わるそうですよ。艦名。正規空母ってところは変わるでもないそうですが」

「……今回の件が原因か? だとしても名前を変えさせられるって、あんまり酷いんじゃないか」

「まだ傘姫司令官に少し聞いただけなのですが、懲罰的な意味ではないそうですよ。むしろ話した印象だと、今のドサクサに紛れて葛城さんの悪印象を闇に葬ろうとしている様子でした。新しい艦名を考えたのも自分だって自慢気でしたよ。元葛城さんご本人にも既に通知してて、わりに好印象だったのですって。でも『羊の皮を被ったエイリアン』ですからねえ、傘姫司令官。お仕事でお付き合いした感想だと、どちらかというと葛城さんより傘姫司令官の方が深海せ――」

 完全に手を休めている長月に気付いた電は唐突に表情を引き締めてパソコンに向かった。モニターは印刷した般若心経を開いたままだった。

「さあ仕事しますよ、仕事。天照大艦隊の夏は姉妹艦隊のサポートに追われそうですからね。長月も腕の具合が良くなったらスポーツドリンクの輸送任務から始めてもらうのです」

「せめて葛城の新しい艦名くらい教えてくれよ」

「それは勿論、後のお楽しみ、なのです」

「ここまで話したのなら教えてくれたっていいだろ」

「だから……傘姫司令官なら『それは勿論、後のお楽しみ』にする、という意味です。司令官代理の私が一番おあずけされてて、あの人のあることないこと話したくて仕方がなくなってるのです。天照隊が葛城さんのことを誤解せず良い人だって分かってることを理解した上でナイショにしてるのです。わざわざ『この冷蔵庫には高級プリンが入っています。食べてはいけません』ってメモ残します? わざと目に付く所に置いておく嫌がらせです。空母寮でなくても戦争になってますよ。どうして一ノ傘一族ってあんな人ばっかりなのでしょうね。エイリアンに遺伝子ってあるんですかねえ。葛城さん達もせっかくの謹慎ですから、この鎮守府の営倉を使ってくれれば色々とお話を聞けたのに、喫茶店で寝泊まりするなんて素敵じゃないですか。なんていうお店でしたっけ?」

「ハングド・キャット」

「と言いますかその喫茶店も大和型の艦娘がやってるのでしょう? 喫茶店で優雅にカフェすることって謹慎じゃあないですよね? 傘姫司令官のお給料が減らされたのは妥当だとして、私たち元一ノ傘艦隊が使ってた鎮守府を中途半端に破壊した大和さん達がどうなのですよ」

「あと私も怪我した」

「ただの怪我じゃありません、明らかに致命傷でした。今生きているのが不思議なくらいの。天照大艦隊所属カレンダーズ八番艦長月を死なせかけたのに謹慎とは名ばかりの長期休暇ですよ。いくら撃沈王だからって特別扱いにも限度ってものがあるのです。それに、疑惑のある艦娘が深海棲艦として覚醒してしまった時のための抜き打ち訓練なのに、その前提であって懸念材料の艦名を変更してごまかすだなんて長月は怪我のし損じゃないですか。お金だけは入りましたけど撃沈王なら資材とプリンを持ってお見舞いに来るのが筋というものなのです。ああいえ、もちろん長月の命が資材とプリンで補えるという意味ではないのですよ。とにかく、暗躍してコソコソ隠そうとするなんて御天道様は許してはくれないのです! 天照大艦隊なだけに! まあ、事情があるのは明らかなので怒るに怒れないところもなきにしもあらずですけどね。ただのご近所さんが今後は姉妹艦隊になるわけですし、仲良くしていきましょう。天照隊が発足した時は人数が倍になりましたが、今度は単純に増えるだけでなしにあの全員練度測定不能の方々が加わるとなると、長月はどう思います? 私は雷の独走状態がやっと崩れるのが愉快なのです」

「私に真面目に写経させたいのか、雑談させたいのか、どっちだ」

「真面目に手を動かしつつ話し相手になってください。原稿用紙1枚は写経で消費して、残り19枚分のカルマを私との雑談で浄化できるのですから楽なものでしょう」

「カレンダーズ全員分のカルマを合計しても電には届かないと断言できるぞ」

「業務に精を出し過ぎると業が深くなるんですよ。私と司令官の子孫は苦労するかもしれませんね」

「……どうして猫は電みたいな捻くれ者じゃなくて、私を選んだんだろう」

「また珍妙な暴言を吐きましたね長月」

「意味のない独り言ですよ提督代理」

「ところで暁と響が睦月の急成長に興味を持ってるのですが、そのあたり何か知りませんか?」

「今からでも睦月たちを呼び戻せないか」

「まあ酷い。私とのおしゃべりは姉妹艦に押し付けたいと言うんですね」

 無言の返事と共に長月は原稿用紙に向かい直した。構わずしゃべり続ける電の声を聞き流しながら、ふと葛城の事が気になった。

 睦月がこっそりと長月に教えた話では、『正規空母 葛城』は本物が呉にいて、天照大艦隊を襲撃したことのある空母ヲ級に似た葛城は自身の存在に確信を持てなくなったという。睦月が言った「誰にでも間違いはあるよ」で済ませられる事だろうか。加えて艦名が変更されるという情報は、電が勘繰る裏よりも深い何かがあるという気にさせる。深海よりも深い何かが。

「聞いてますか長月」

「聞いてません提督代理。写経で忙しいんです」

「そんなに写経が楽しいならやっぱり原稿用紙20枚、頑張りますか」

「分かったよ頑張って雑談もするよ、もう」

 何かがあるにせよ、執務室は涼しく鎮守府は静かで平和だった。

 

 

◆――――◆

 

 

 夏です。

 すると必然的に、薄着です。

 正午を回ると特に暑さに備えた格好が必要なのは言うまでもありません。

 いつかは堂々と自分の姿を世間様に馴染ませないといけなかったのですから、今回の件は気分的にも外見的にも一新する良い機会でした、なんて血を流した長月ちゃんの前では口が裂けても言えませんが、あの可愛らしくも強い駆逐艦の二人のためにも、僕が卑屈であってはなりません。胸を張って前を向きましょう。

 睦月ちゃんを意識したショートにまでバッサリ頭を軽くしたのは本当に正解でした。人の目が違います。深海のお化けから珍しい外国人にまでランクアップした感じです。提督に紹介してもらった美容室のお兄さんはかなりのワザマエと評価せざるを得ません。最初に僕の髪を「綺麗な銀髪」と言ってくれたところから非常に好印象でしたし。もう人にジロジロ見られる電車もジメッとした暑さも苦ではないのです。この『あたりまえ』を僕はすっかり忘れてしまっていました。

 新幹線の改札口をたくさんの荷物を持った人々が出入りしていきます。その様子はぼんやり眺めていてなぜか飽きることがありません。僕はあまり目立たない所から観察していました。何が面白いのかは自分にもよく分かりません。

 海鳥が乗っている新幹線もそろそろ到着するというのに、話す事が決まりません。積もる話がそれこそ積もりまくっているのですが、海鳥が僕を見た時にどんな顔をするかが気になります。昔の僕ではない僕が「あなたの姉の海花だよ」と言って信じて貰えるでしょうか。電話をした時とは違って面と向かうわけですから、今日一日の会話が記念となるかトラウマとなるかは海鳥にかかっています。お願いだから妹には、好感触とまでは言わずとも想定の範囲内でのリアクションをして欲しいところです。夷川家の今後を考えるのはそれからにしましょう。僕も海鳥も昔のようにはいかないのですから。

 改札を通る海鳥からは見つけやすく通る人様には見られにくい、そんな都合の良い場所なんてなく、僕は不審者にならない程度に柱の影に潜みました。やはりどうしても人目を引いてしまうのは仕方がないとはいえ、今日は別の理由でビクビクせざるを得ません。僕は今、謹慎中のはずです。大和も潜水艦たちも猫吊さんも揃って謹慎しているはずなのです。提督だけは鎮守府の復旧作業があるので普通に仕事をしていますが、給料を九割カットされた上で休む暇もなく働いていますから妥当でしょう。インガオホーとも言いますし。

 鎮守府に居場所がないため追い出されて、仕方なく喫茶店『THE HANGED CAT』の二階に借りた部屋で一日中正座しているべき者が、呉からはるばるやって来る妹に会うなど許されるはずがありません。武蔵さんが妹の方の都合を色々と付けてくれて大和たちが行け行けと背中を押すので僕はこうして新幹線を待っているのですが……スーツを着るような関係者に見つかって処分されることについては百歩譲って良しとしましょう。では「謹慎をやぶって妹と遊んでいる」と天照大艦隊の皆さんにバレたらどうでしょう。僕は今度こそ抹殺されてもおかしくありません。

 夏です。

 すると必然的に、猛暑です。

 正午を回ると鎮守府のコンクリートは焼肉ができそうなほどの熱を持ちます。

 衝撃波が全域のガラスを念入りに砕き、徹甲弾の破片が雹のように降り注いだ鎮守府の復旧作業は地獄的でしょう。

 天照隊の姉妹艦隊という形で僕らの艦隊は取り込まれ、鎮守府の長く使用していなかった寮などの設備はサテライトとして復旧させることになりました。雪のように積もった埃はきっと衝撃波で天井まで舞い上がったことでしょう。潮風がせめて換気扇代わりになってくれることを祈るばかりです。鍵を掛けっぱなしで放置していたので内部では小型多足生物を頂点とする独自の生態系が出来上がっている可能性も否定できません。それに加えて工業地帯の防衛なども普段通り行ってもらうのですから、その名の通りの大艦隊が遠くの他の艦隊にまで応援を要請するほど人手が足りないのでしょう。小型多足生物に限っては文字通り猫の手を借りたほうがよいかもしれません。いっそのこと一帯を吹き飛ばして新しくしてしまった方が早いとの意見も勿論あったそうですが、長月ちゃんが命懸けで守ってくれた鎮守府を一時的にでも壊すだなんて睦月ちゃんが黙っていないはずです。高練度の僕をバケツの水に沈めまくったせいか練度の異常上昇を遂げた睦月ちゃんを筆頭とする天照大艦隊の皆さん――今後は姉妹艦隊となる仲間たちに、今は頑張ってもらう他にありません。僕にできることは謹慎のフリをして妹と遊ぶのみです。バレたら球磨さんに殺されます。マジで。

 さて、予定時刻通りに新幹線が到着するアナウンスとホームに新幹線が入ってくる音が聞こえてきました。

 とりあえず、謝っておきましょう。『正規空母 葛城』は僕ではありません。いつから僕は自分を葛城と名乗るようになったのでしょうか。行方不明となった海鳥の捜索に出てから自分まで行方不明となってしまいお父さんの前に戻るまでの一年の間に、僕に何があったのでしょうか、なんて自分で分からないようであれば誰にも分かりっこありません。軍部だっていい加減なものです。あれだけ僕の事を警戒しておきながら『正規空母 葛城』が二人も存在していることに気付かなかったのですから。

 早い乗客が奥の階段から改札へ流れ込んできます。そんなに急いでどこへ行くのでしょう。……本当にそうでしょうか。葛城が呉の所属となった後でもう一人の葛城が深海棲艦のような姿で現れてもうっかり見落とすことは現実的な確率で起こり得るのでしょうか。そして「バレちゃったなら、艦名を変えればいい。でしょ?」と、まるで予定されていたような手続きが僕には用意されていました。命拾いをした分際でも疑問は持ちます。

 僕は誰なのか。誰だったのか。海鳥なら覚えているはずです。それを確かめなければなりません。

 そして疑問ついでにもう一つ。じゃあ僕の提督で、天照大艦隊の副提督の従姉妹を名乗る一ノ傘姫乃は何者なのか。長月ちゃんや武蔵さんと同じ洞観者となったからでしょうか、あの人こそ放っておいてはならない何かのように思えてなりません。

 海鳥は僕が覚えている姿よりも少し垢抜けたように見えました。僕は柱の影から出て、海鳥に向けて小さく手を挙げました。

 改札を通り抜ける直前に小奇麗な空母ヲ級を見つけた海鳥は一瞬、固まりましたが歩調を強めて真っ直ぐ僕に向かってきました。気を張ったがゆえに切符を通すのを忘れて止められるあたりがいかにも海鳥らしくて、僕の肩の力が抜けました。

 今日は傘姫提督のような変なものは忘れましょう。

 気恥ずかしそうに駅員さんに頭を下げる海鳥に、僕は姉らしく落ち着き払って近づいていきました。

 

 

◆――――◆

 

 

「おい……カレーは三時のおやつじゃないんだぞ」

 ランチタイムを過ぎたハングド・キャットは珈琲一杯で粘る客の休憩スポットになる。満席時に二階に上がらせていた潜水艦たちも降りてきて、五人でテーブルを囲んで怪しげな書類やら図面を広げている。言うまでもなく水着姿ではない。アルバイトと猫には潜水艦グループに近づかないよう武蔵は言い聞かせていた。

 カウンター席に齧り付いて離れようとしない大和は次のおかわりを要求した。

「暇なんだから食べるしかないでしょ。不味いコーヒーと美味しいカレーしかないお店で、他に何をしろって言うのよ」

 武蔵は姉妹艦をこれでもかと蔑んだ。

「仕事を取り上げた途端に最悪の穀潰しだな貴様は。なら私が食っちゃ寝ライフに意義を与えてやる。外でチラシを配れ。謹慎だか何だか知らんが、この店に奉仕しろ」

「お腹が空いて動けません」燃料が枯渇した艦娘に何ができるのかというニュアンスで大和は言った。大和に言わせればハングド・キャットのカレー皿は小さ過ぎるのである。「チラシ配りはいいけれど、それならまず補給が必要でしょう? ほら早くカレー」

「もう残ってない」

「嘘になる嘘を言いなさいな。奥から漂ってくる香りは何?」

「あれは今晩のお客さんの分だ。客でもないお前なんぞに出せる分はもうない。閉店して残った分は食っても構わんが、それまでの夕飯は知らんぞ。いい機会だから燃費について考えろ」

 大和は激怒した。「撃沈王が餓死したら責任取れるの!?」

「自分が大和型であることが恥ずかしいぞ私は……」

 武蔵とアルバイトの軽巡はクレーマーが騒いだことを客に謝った。

 店内の客は全員いそいそとスマホを取り出した。画面を覗き込むまでもなく英雄『撃沈王』が起こした珍妙なかんしゃくをつぶやいているのが武蔵には分かる。武蔵の近くでじっとしていた茶猫が「にゃあ(どんまい)」と鳴いた。

 武蔵は大和の空になっていたコップに水を注いだ。

「一応言っておくが、客ではないとは言っても金を取る事に変わりはないからな。食費が宿泊費を上回っているのは驚くべき特需だ。開店記念日ほどではないにせよ材料を多めに仕入れておいてよかったよ。つい先日、面倒を見る洞観者が一気に六人も増えてな。実は少し助かってもいる」

「自分の艦隊の、自分以外のメンバー全員が怪しげな宗教に入った時の気持ちが武蔵に分かる?」

「猫を崇めている点では宗教と言われても否定はせんよ。だからこそ表立っては動かない」

「つまらない反応ですこと。あーあ、何か面白い事でも起こらないかしら」

 大和がぼやいた時だった。

 店の扉が弾けるように開かれて来客を告げる鈴が乱暴に鳴った。店内でくつろいでいた猫たちが一斉に毛を逆立てる。ダイナミック入店で店内の全員を驚かせた者は一直線にカウンター席の大和に向かって走り、その勢いのまま誰もが羨む躯幹に飛び込んだ。

 完全なる奇襲であった。

「左舷に被弾! ……ぅおぷっ……」

 戦艦大和とて無敵ではない。臨戦時ならばいざ知らず、気を緩みに緩ませた上に貯蔵タンクにカレーと白米をしこたま積んだ状態での脇腹に体当たり被弾は魚雷のクリティカルヒットにも等しい。腹部を圧迫されたことにより食道を逆流しようとするものを辛うじて留めたのは撃沈王の賞賛されるべき根性だった。

 なんだなんだと寄ってくる客やアルバイト、潜水艦に構わず、魚雷の如く大和に突っ込んできてそのまま抱きついた者は国の英雄を敵視するテロリストか? いや違う。昨日イメチェンした姿をカワイイカワイイと褒めたばかりの艦隊旗艦だ。めそめそと泣く情けない艦隊旗艦である。

 大和が口を押さえて顔を青くしているので、仕方なく武蔵が代わりに尋ねた。

「あー、お巡りさんに深海棲艦が歩いていると職務質問でもされたか? 何があったか聞いてやるから、ほら落ち着け」

 その空母の顔は涙と鼻汁を大和になすりつけてもまだグシャグシャだった。

「海鳥がひどいんだぁ……! もうやだ僕の名前……提督のばかぁーっ!」

【偽葛城:150+1 → 斑鳩(いかるが):150+1】

 

 

◆――――◆

 

 

 葛城という名前に込められた想いがあるように、『いかるが』という名前にもやはり何かしら素敵な由来があるのだろうと海花――斑鳩は思っていた。

「かわいい鳥の名前、だよ」

 羊の皮を被ったエイリアン、傘姫の言葉を迂闊にも鵜呑みにしてしまったのは斑鳩がその名前の響きを気に入ったためであった。

 自分の妹、本物の葛城に新しい艦名を得意気に名乗ると当然、それはどういう意味かという話になる。久しぶりに再会した二人にとってはよい話のタネでもあった。

 本屋を探して辞書を立ち読みする古き良き(?)時代だったならば、なるほど斑鳩とは葛城と同じく奈良県に由来する地名なのかと二人は納得したことだろう。そこから海花の昔の艦名はどうだったという話に広がったかもしれない。

 しかしスマートフォンという恐るべき通信端末が姉妹の仲を引き裂いた。

 グーグル先生に「斑鳩とは何ですか?」と質問をしてもろくな返事を貰えないのは艦娘あるあるネタですらある。ならばいっそのこと宇宙戦艦など多種多様な扱いを受ける方が万人に親しまれている証であり格が高い、というのが共通認識であるとも言えた。戦果を上げた後のエゴサーチには更なる戦意高揚の効果も確認されている。

 海花も葛城を名乗っていただけに、きっと二つの名前には深い縁があるのだろうと二人は『葛城』と『斑鳩』でAND検索を行った。それがまずかった。

 斑鳩のバストは豊満である。一方で葛城のバストは平坦である。

 自分の提督の性格を思い出した斑鳩は、よりにもよってこのタイミングで自分の艦名の出所を発見してしまった。それほど長い付き合いでなくとも分かる。あの羊の皮を被ったエイリアンは男性向け巨乳的ゲームから名前を取ってきたのだ。

 

 

◆――――◆

 

 

 アルバイトにスマートフォンで検索させた武蔵は画面を覗きこんで「うむ。間違いなくこのゲームが元ネタだな」と不要な太鼓判を押した。

 潜水艦の五人が斑鳩の周りに集まってきておしぼりで顔を拭いたり水を差し出したりした。野次馬になろうとする他の客を見過ごす彼女らではなく、魚雷の一本すら勿体無い場合に深海棲艦を追い返す時の眼光でもって一人残らずレジに向かわせた。

 大和も慰めようとしたものの、嫌だ嫌だという名前で呼んでよいのか迷い言葉に詰まった。

「そ、それで、妹さんは今どうしてるの?」

「……知らない」大和の脇腹から斑鳩が顔を離すと、左頬が広く赤くなっていた。

 何があったと聞くより早く潜水艦らは勝手にカウンター裏に乗り込み、お冷で濡らしたおしぼりを量産してバケツリレーのように斑鳩の左頬を冷やした。

「見るに平手打ちをされたらしいな」店内から客が一人もいなくなってしまった事実に武蔵は深刻な衝撃を受けたのだが、斑鳩を囲む連中に弱みは見せまいと努めて平然と振る舞った。

「海鳥が叩いた……昔はあんなに乱暴じゃなかったのに……」

 斑鳩がチンと鼻をかむ音が店内に響く。実は店内には耳を澄ませば聞こえる程度にクラシックが流れているのだが、謹慎組が居座るようになってからのハングド・キャットは汚い音で溢れるようになっていた。

 大和は深海棲艦のような者に抱きつかれて複雑な気分になってしまうのを誤魔化すように斑鳩の頭を優しく撫でた。

「悪いのは傘姫提督でしょう? どうして妹さんが暴力を?」

「知らないよ。……ただ検索した時におっぱいの画像がいっぱい出てきて、ちょっと海鳥のを見て笑っただけなのに」

「お前が悪い。何もかもお前が悪い」

 斑鳩のバストは豊満である。一方で葛城のバストは平坦である。

 本物の葛城の容姿を知らない武蔵でさえも、葛城が平手打ちをする場面を思い浮かべることができた。

「今すぐ謝りに戻れバカタレが。海鳥の許しがあるまでお前は入店禁止だ」

「せっかく再会したんだし場を和ませようとジョークのネタにしようとしたのに」

「笑えるか。ゲームキャラから取ったキラキラネームの巻き添えにされた上に体型の事で笑われて、私ならグーで殴っている。むしろ海鳥に代わって殴りたいところだ。せっかく呉から会いに来てくれた妹になんたる仕打ちだ貴様という奴は」

 大和や潜水艦たちの手が止まっていることに気付いた斑鳩は顔を上げた。

 仲間であり友人でもある大和、仲間でありながら過剰に侍する潜水艦、彼女らの表情の変わり様は夏の夕立のように斑鳩に冷水を浴びせるようだった。

 居たたまれなくなった斑鳩は「……すみません。行ってきます」逃げるようにハングド・キャットを出ていった。

 

 

◆――――◆

 

 

 退屈が極まって店を手伝った大和は、閉店後の掃除をしている間中ずっと腹の虫を鳴かせていた。雑巾を動かす手を止めて猫をじっと見つめる大和に「おい、食い物じゃないぞ」と武蔵が声をかけると、「――え? ち、違うわよ! ただ柔らかいお肉……しなやかな体が素敵だなと思っただけです」大和は慌てて口元を拭った。

 アルバイトの軽巡は切り上げて潜水艦たちも二階に戻り、武蔵と大和と数匹の猫だけを残したハングド・キャットは静かだった。

 この店を知る学生や地域の住民は噂する。あの猫カフェなのか艦娘カフェなのかカレー屋なのか分からない店は、閉店すると同時に人間社会から離れ、すべてのカーテンが閉じられた窓の向こう側では猫の集会が開かれているらしい。そこでは艦娘のペットだった猫又が猫でも食べられるカレーの研究をしており、香りにつられた猫たちがじっと完成を待っているという。

「その噂を信じてかどうかは知らんが苦情が来たこともあったな。野良猫を餌付けされると色々と困ると」

「ふうん。どうしたの?」大和は見つめていた猫の背を撫でた。

「この店にはそもそも野良猫は近づかんよ。100km単位の距離を旅する猛者の縄張りだからな。まあ元々は野良猫だったとしても、今では立派過ぎる放し飼い猫さ。長旅の間の行動までは胸を張れる自信はないが、少なくともこの店の周辺には迷惑はかけていない。上手く誤解を解けたと思ったら、猫の集会場疑惑がさらに強くなって夜間の売上がほんの少し上がったりしてな」

 警察まで出てきた苦労事を冗談めかして話した武蔵はカウンターに冷えたグラスを置いた。

「私は明日から艦隊に戻るから店を空ける。だから大和、今のうちに話しておく事があるだろう。お互いに」

「……謹慎中くらい何も考えたくなかったのに」

 二人はカウンター席に腰掛けてから、久しぶりに横に並んだことに思い当たり気恥ずかしくなった。

 先に口を開いたのは大和だった。

「私ね、なんだか軍部が信じられなくなってきちゃった。葛城――ああ元葛城ね、姉の海花。その海花に『何か』があった時は私の艤装が警報を鳴らすようになってたのよ」

「なってた? 過去形?」

「あの日あの事件の直後に壊したわ。機密がどうたらこうたらで触るなって命令されてはいたし、まさか本当に警報が鳴る日が来るなんて思ってなかったから放っておいたんだけど、いざ作動したら誤報だったわけでしょ。目から炎が出てドーカンシャなんて変なものにはなっちゃっても、少なくとも海花は私たちの敵じゃない。だから艤装を壊して内部の警報装置がどんなものなのかを確かめないといけないと思って」

「開けて見て分かる物だったのか?」

「無かったのよ。何も」大和はグラスの水をじっと見つめたまま話した。「正確には音を鳴らすだけのスピーカーと小さい電子部品とバッテリーがあった。ただ音を鳴らすだけでラジオにもなれないようなオモチャを想像すればいいと思う。それ以外のスペースは本当に空っぽだったわ」

「お前の艤装の他の機能を利用している様子も無かったんだな?」

「完全に独立した音を鳴らす箱よ。さらに言うと入切スイッチみたいなものすら見当たらなかった。どう思う?」

「どうもこうも……」武蔵は大和の横顔を覗き見たが、さすがに冗談を言っているようには見えなかった。「警報装置と別の装置を間違えたんじゃないか? としか言えないな」

「自分の艤装よ。ブラックボックスだった部分以外はちゃんと把握してる」

「そのブラックボックスは壊して、今どこに?」

「その場で海に捨てた」

「言うまでもないとは思うが――」

「ハイハイ私は阿呆ですよーだ。でも武蔵だって、そんな気味悪い装置があったら捨てたくなるでしょ? ただ音が鳴る機能を持っただけの空箱が、遠く離れた海花の異変に反応していきなりファンファン鳴り出すのよ? 最初は自爆装置でも起動したかと思って死ぬほど慌てたんだから」

「その装置、本当に電波とか何かしらの信号を受信する機能は無かったのか」

「無かった。一緒に出撃した他の五人にも見てもらったけど、ただの鉄の箱だろうって。無駄に頑丈なブリキのオモチャとも言われたくらいよ」

「そうか。なら鉄の箱なんだろうな」

 武蔵は諦観が半分、納得が半分といった顔で水を一口飲んだ。

 より細かく追求されるだろうと構えていた大和は肩透かしを食ったようで面白くなかった。

「ねえ。私は『ドーカンシャは魔法を使える』ってことで納得するしかないんだけど、武蔵はどうなの?」

「海花の青白い炎、それと長月の事か」

「戦艦六人の三連装砲それぞれ四基で計七二門。鎮守府を月面みたいにする威力だったのに防がれたのよ。撃った直後に長月さんの信号弾を確認した時の私の絶望感が分かる? かと思えばほぼ全弾が空で青く光る網に阻まれて、ギロチンの刃を落とした瞬間に死刑囚の無実を知らされたと思ったら間一髪で刃を砕かれた気分よ。自分で言ってても意味が分からないけど、それくらい私にはもう何が何やら。あれが魔法じゃなかったら何だって言うのよ」

「この世界には深海の闇ですら消せない炎が存在する」

「たまに聞くわね、そのフレーズ。伝承?」

「誰が言い始めたのかは誰も知らない。ただ私も長月が魔法を使っているんじゃないかと疑ってはいるよ。長月本人は否定しているがね。洞観者全員が同じ戦力を持っているなどと考えるなよ。寝床に徹甲弾が降ってきたら走馬灯を楽しむ他に出来ることはない。魔法なんて言わずもがなだ。――魔法と言えば、私はむしろ傘姫提督を疑っている。あれは妖怪猫吊るしと並ぶ悪夢だ。ほら、あの絵を見ろ」

 武蔵が指さした絵画の中で帆船を背景に作業をする男の額には小さな穴が空いている。

「大きなほくろを描き足したんだと思ってたけど、穴だったのね」

「どんな勘違いだ……。お前が鎮守府に砲撃を行った一時間前、奴はこの店で消音器が付いた拳銃を発砲した。さっきお前は軍部を信じられないと言ったな。私はあの個人が信じられん。もう海花を見張る理由が無くなったのならあの艦隊に出向く意味もないだろう。元の軍部直属艦に専念した方がいい。一応、お前を心配してやってるんだからな」

「……尚更、海花の側を離れられないじゃない」大和はしばらく考えてから言った。「あの日、警報が鳴った後で武蔵から電話が来たでしょ。脅されてるから葛城を攻撃するなって。あの時は嬉しかったわ。大義名分でしか動けない私を止めてくれる人がいて。葛城――海花の味方がいてくれたんだって。でも長月さんを待つ短い間に何かがおかしいことに、やっと気付けた。傘姫提督は出張で席を外すとは聞いてたけど、どうして出張先がこの店で、よりにもよってあのタイミングで、しかもドーカンシャなんて得体の知れない人たちを頼ったの?」

「お前、さっきから洞観者をディスりまくるな……。まあ、その通りだ。奴は奇跡的なタイミングで猫吊さんと共にこの店に現れて、海花を助けろと私を脅した。疑問だらけだが、とにかくお前が装備していたブラックボックスと似たような理解できない部分がある」

「――海花に『何か』が起こることを予想していた?」

「妖怪がテレポートしたくらいで騒がないのが艦娘だが、閉店時間後に普通に入り口から入って来たからな、傘姫提督は。しかもハングド・キャットの猫たちを操って私に歯向かわせた。猫と仲良くできるのが洞観者の特権かと思っていたら、その上を行かれたわけだ。まったく嫌になるよ。それだけじゃないぞ。奴はお前と私がネコノツメを開発したことも、三本作ってそのうち一本が長月の手に渡ったことも知っていた」

「あり得ない。だってあの人、つい最近まで軍人ですらなかったのよ? 天照大艦隊の一ノ傘鉄子副提督の従姉妹で、空いた鎮守府と海花の面倒を見るためにコネで提督になった……って、私は、聞いてる、けど……」

「自分で言っていておかしいと思うだろ。いや、海花の異常性を隠れ蓑にしていたのかもな。何せ深海棲艦じゃないかと低くない可能性がある者だ、目はそちらにばかり向くのが普通だろうな。誰にも経験の無い事態だから仕方がない。だが実際は側にいる奴こそ本当に疑うべきなんだ。ある意味、手垢まみれのお決まりのパターンだと思わないか? いや、こうして改めて状況を思えば海花が怪し過ぎて逆に他を疑えと誘導されているようにも思えてくるな。深海棲艦にだってそれくらいの知恵はあると思うぞ。難攻不落の鬼姫がいたと思ったら実は他の個体が強さの秘密を握っていたとか」

「……本当にそうだとしたら、どこまでがあの人の思惑なの? 海花に関しては『斑鳩』って艦名を付けたのが今のところ最後にやられたことだけど」

「名前の元にしてもカモフラージュの意図があったりするかもな。海花にも行方不明になる前の艦名が当然あった。葛城でも斑鳩でもない名前だ。葛城という名前の問題を本人の勘違いと軍の手違いで済ませたとしても、それならそれで元の名前に戻すのが普通だろう。いっそ『正規空母 葛城』が二人いた方がまだマシと言える。今まで気付かれなかったくらいだからな。監視対象の名前をコロコロ変えて混乱を招く馬鹿がどこにいる。意図的に混乱を招くのが目的なら話は別だろうがな」

「そのまま海花の扱いをうやむやにしてしまう――今回の一件は最初から仕組まれてた、ってこと? 海花を解放するために?」

「動機までは分からんが偶然が重なった『抜き打ち訓練』と見るのは現実的じゃあない。まあ、魔法だ何だと話す時点で、撃沈王ですら知らない暗い部分が軍には必ずある。大和、明日は海花海鳥に随伴しろ。警戒するに越したことはないからな」

「……護身の基礎くらいは覚えてるけど、陸に上がった戦艦は無力よ?」

「撃沈王が目立っておけばいいんだよ。海鳥には自分が付いているとアピールできれば極端な動きはないだろう。海花の本当の艦名を知る、一応は唯一の人物ということになるからな。その海鳥が今のところ無事だからといって、海花の存在に疑念を生じさせる存在であることに変わりはない。もし傘姫提督なんかが海鳥の前に現れたら――」

 

「現れたら? どうなるの、かな?」

 

 閉店時間を過ぎた薄暗いホール、武蔵と大和が並んで座っているその背後に、傘姫は立っていた。綺麗に整えた制服姿ときっちり揃えられたオカッパ頭がハングド・キャットの雰囲気に妙に馴染んでいた。華奢な体躯が照明を消した店内にこそ不気味に似合っている。傘姫の隣には猫吊さんがいつものドヤ顔で控えている。店内の猫が動かないことを除けば、海花の事件の日に武蔵の前に現れた時と同じだった。

 振り返った武蔵と大和は言葉を失った。

「物騒なこと、考えてない? 斑鳩の妹ちゃんはみんなの家族も同然なんだから、みんなで守らないと、ねえ。お父さんはゲームキューブで殴られて、とっても残念な状態だし、天照大艦隊の姉妹艦隊になったからには、その辺りを竹櫛くんと鉄ちゃんに頼ってみようかなって、まあそれはダメ元の難しい話、だけどね」

「……どうして、ここに?」大和はそんな事を聞きたいわけではなかった。しかし質問攻めにしたくとも頭が追いつかない。

「いやあ。恥ずかしながら、睦月ちゃんに仕事を取られてねえ。先日から頑張るなあ、とは思ってたけど、私の仕事までやっちゃうんだから、立場がなくて。参った参った。明日からは睦月提督って呼ばないと、かなあ。――冗談だよ? そんな前衛芸術みたいな顔で、私を見ないでよ。謹慎してる部下の様子を見に来たんだから。ほら、差し入れも」

 傘姫は手に下げていたビニール袋から缶チューハイを取り出して見せた。

「店内ではアルコール禁止だ」銃を向けられ猫に引っ掻かれた時の悪夢を思い返さずにはいられない武蔵は外面を引き締めるだけで精一杯で、その混乱は大和のものを超えていた。

「穿って考えてる二人にこそ、ほらお酒だよ。さあ飲もう飲もう。迷ったらお酒に頼るのもひとつの手段、なんだから。ビールとかおつまみとか色々買ってきたから、好きなの取って」

 そう言いつつ、傘姫は適当な缶を武蔵と大和に押し付けた。

「さあ、良い機会だし親睦会しよう。私に聞きたいこと、あるでしょ? お酒を飲ませれば口が軽くなっちゃう、かもねえ。私も武蔵さんと大和のこと、もっと知っておこうと思って。ほらほら固まってないで、冷たいうちに乾杯、しよう?」

 大和型の二人が戸惑っている間に猫吊さんはハイボールの缶を開け、自前の白猫の喉に無理やり流し込もうとしていた。

 

 

◆――――◆

 

 

 駅からしばらく歩くと短いトンネルに差し掛かります。辺りに人影はなく、走って駆け抜けたくなるほど不気味なトンネルです。人がいたらそれはそれで怖いのですが。トンネルを迂回しようとするとハングド・キャットまで随分と遠回りになってしまうため、僕は小さく意を決して一歩を踏み出します。

 その瞬間、背後から猫の鳴き声がしました。いつの間にか三毛猫が僕の後ろを付いて来ていました。

「驚かさないでよ、もう」

 三毛猫は警戒するでもなく近づいてきて、僕が左手を差し出すと腕に飛びついてきました。首輪に付いている小さなドッグタグ(キャットタグ?)がハングド・キャットの猫であることを示しています。

 三毛猫は空母斑鳩の左肩に搭乗しました。夜道をその優れた目でもって警戒してくれるのか、ただ店までのタクシーにしたいだけなのかは分かりません。何にせよ不気味なトンネルは何ということもなく通過できました。

 それにしても、日中はあれだけ人通りがあったのに、時間が時間とはいえ前にも後ろにも人の姿がありません。二車線の道路をたまに車が通ります。それだけです。僕の鎮守府周辺ですらどこに行くのか帰るのか人は通ります。単にこの道がそういう道、ということでしょうか。

 人が見ていないことを良いことに僕は海鳥が教えてくれた『××』という艦名を思い出しました。すると心のざわつきが頂点に達すると同時に、左目から青白い炎が噴き出します。トイレの水では消せなかった炎です。

 左肩の三毛猫が驚いて僕の頭に何度も猫パンチを食らわせてきたので、すぐに大和が食べたピザの枚数を数えて心を落ち着けます(正確にはげんなりします)。そうすることでガスの元栓をゆっくり閉めるように炎の勢いは弱まり、やがて消えていきました。

 もしかしたら昼のレストランで炎が出てしまった時、誰かに見られたかもしれません。これが普通の熱い炎ならばちょっとしたボヤ騒ぎになる勢いですから、騒がれなかったということは海鳥以外には気付かれなかったということでしょう。そうでないと困ります。

 人目につかない所で海鳥と検証した結果、分かったことが三つあります。

 一つ目は、どうしても『××』を僕が認識できないことです。海鳥に言ってもらうだけでなく、字を書いてもらっても頭が認識を拒絶して、心がざわついて、左目が燃えてしまいます。自分でも意味が分かりませんが、燃えるものは燃えるんです。

 二つ目は、心を落ち着けることで炎をわりとあっさり消せること。これは前に長月ちゃんに教わった通りなのですが、炎という明確な感情の昂ぶりを表すものがあるために、コントロールもいささか簡単になったように思います。だからといって感情の上げ下げに何度も耐えられるほど僕は強い人間でもありませんので、今は対策が無いわけではない、くらいに考えることにしています。

 そして三つ目は海鳥には内緒にしています。青白い炎を出している時、とても不愉快な感情が心を満たすと共に、体の方は謎めいた強い力で満たされるんです。何も試せない謹慎中の身ですが出来そうな事には思い当たりがあります。

 今まで僕は傘姫提督の超少数精鋭主義のせいで空母らしからぬ装備を扱うことが多々ありました。潜水艦たちにはマルチロール空母と言われたりもしたくらいです。ですが正規空母が艦砲や魚雷で敵を殴りに行くなんて阿呆です。必死で練習してどうにか最低限の取り扱いができる程度なのに、余計な装備を積んで飛行甲板を盾に突撃する空母など愚の骨頂の権化と言えましょう。僕に余計な魔改造を施す余裕があるのなら一人でも多くの艦娘を連れて来なさいよ馬鹿提督という話です。――人手不足の件は天照大艦隊に統合されたことで解消されましたが。

 僕が青白い炎の力を知覚した時に最初に感じたことが、戦艦の艤装もいけるのではないか、でした。提督が言っていたブッダをも恐れぬ悪魔の所業、戦艦と空母のハイブリッド! 航空戦艦じゃないですよ。今まで通り多種多様な航空機を飛ばしつつ大口径砲も同時運用する、究極のアウトレンジ戦法です! ……は以前はさすがに無理だ阿呆だと試しもしなかったのですが、それが今ならできそうな気がするのです。

 この世界には深海の闇ですら消せない炎が存在する。

 どこかで聞いたような言葉が脳裏によぎります。確かな力を感じながらも僕はどうしても浮かれることはできません。当たり前です。理屈を考える必要すらなく、絶対に手を出してはならない類の力でしょうから。魂のような不気味な炎を燃やしながら戦う艦娘と深海棲艦にもはや違いはありません。僕が僕でありたいのならば、尚更です。

 などと思いつつ、つい数時間前に見つけたこの力にはもう使い道を決めてあります。僕は睦月ちゃんと長月ちゃんに助けられて生きています。だから今度は僕が二人を、そして二人の仲間である天照大艦隊を守る番です。どんなに自惚れても長月ちゃん程に強くなったと思い込むことすらも敵いませんが、仮に、もしも、先日の絶体絶命の窮地にあった時に僕が長月ちゃんの立場にあったとしたら、徹甲弾の嵐から二人を守ることくらいはやってみせるつもりです。絶対に、例え僕自身の身体を装甲として使ってでも、僕の背後には傷一つ付けさせません(……潜水艦たちとあの陸軍人さんもあの場にいたわけですが、何が起ころうともなんだかんだと生き延びる気がするので、放っておいてもたぶん大丈夫です。たぶん)。

 そこの郵便局を曲がった先がハングド・キャットです。

 最悪の事態を避けるための艦隊ですから、天照大艦隊という名前の通り大きな組織に加わった今後においては、僕が青白い炎を出すのがさっきので最後になるよう願うばかりです。誰かを守る決意よりも誰かに何も起こらない願いの方が良いに決まっています。それに、心のざわつきは短い間ならば我慢できなくもないのですが、長く続けば人類を滅ぼしたくなったりする感情も理解できてしまいそうです。僕の気持ちを踏み躙った弱者共を圧倒的な力で消し炭にするのはきっと理性を喜んで捨てたくなるほどの至上の快楽に違いありません。……それくらい炎が不快だという比喩ですからね?

「そう思ってるわけじゃないからね?」

「にゃあ」

 物分かりの良い三毛猫くんです。本当に外見通りの猫なのかしらん。

 明日こそは海鳥とちゃんとしたデートです。姉らしくしっかりと、謹慎中らしくこっそりと、間違っても人波の中で取り乱したりしないよう今から心構えを作っておかなければなりません。海鳥には長い間、心細い思いをさせてきたんです。今日も余計な心配をさせてしまいましたから、せめて明日は新幹線に乗るまでささやかな休暇を楽しんでもらいましょう。

 閉店したハングド・キャットには猫の額を照らすほどの明かりもなく、すべての窓がカーテンで閉じられていて昼間のお客さんが出入りする姿が嘘のようです。僕は帰ったら裏口のチャイムを鳴らすよう言われています。

 店に近づくと――これは洞観者の能力的なものでしょうか――直感しました。店内に傘姫提督がいます。自分の目を疑うわけではありませんがやっぱり店の中の様子は見えません。街と一緒にひっそりとしています。でも分かってしまいます。奴がいます。なんだか赤い糸ならぬ紫の糸で結ばれているようで甚だ気持ち悪いです。赤い糸の色は赤外線だから見えないと言いますが紫外線だって見えないので納得です。体のどこかに糸クズが付いていないか確かめましたが残念ながら探せませんでした。

 あの人は鎮守府の復旧作業のために外に出る暇もないはずです。多種多様な理由で提督がここに来るなんてあり得ないのです。僕がこれだけあり得ないと思うという事は、直感はやっぱり正しいのでしょう。あの人の天邪鬼的奇行は羅針盤だって狂わせます。考えるだけ無駄です。考えたら負けなのです。今のところ負け続けている僕が言うのですから間違いありません。

 提督は恐らく現在進行形で大和と武蔵さんを困らせていることでしょう。

 ごめんなさい大和型の二人とも。僕は今日はもう疲れました。

「ねえ三毛猫くん。お店にこっそり入れる入り口とかない?」

 三毛猫は僕の左肩から降りると、建物外壁に何気無いよう見せ掛けられたキャットウォークを華麗な身のこなしで登ってゆき、換気扇くらいの高さにある換気扇くらいの大きさの戸まで到達しました。そこで三毛猫はちらりと僕を見下ろしました。

「いやいや、無理だよ……」

 僕がそうつぶやくと、三毛猫は僕を見捨てて戸を潜ってしまいました。

 分かりましたよ分かっていますとも。僕の仕事の半分は提督の相手をすることです。いつでもどこでもあの人からは逃げられないのです。気色悪い紫の糸で結ばれているのですから。

 ただ、せめて心の準備がしたいです。いきなりあの人の相手はシンドイです。

 裏口の扉の前で深呼吸をしていると、扉が勢い良く開きました。

「おかえり~斑鳩。はいこれ、斑鳩の分のビール、だよ」

 酔っぱらいが鳩時計の鳩のように飛び出してきました。

 それはそれは驚きましたとも。左目から青白い炎が噴き出すくらいに。

 

 

 

 

【海花と海鳥 編】 完

 

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