Sie treffen
1983年1月10日
ドイツ民主共和国 コットブス県
ナイセ川西岸での作戦行動中に逸れてしまったイングヒルト・ブロニコフスキー少尉は、跳躍ユニットの故障で不時着した後、機体から降りて周囲を見渡した。周囲は廃墟となった都市の一角、崩れたビルの中に隠れるように身をひそめる必要があった。湿った冷たい空気が彼女の体にしみ込み、彼女は機体からの連絡を試みるも、通信は途絶えている。
「どうしてこんなことに…」と呟き、ひとしきり身を寄せていた建物に避難する。けれども、彼女の心は焦燥感と不安でいっぱいだった。あたりの静けさが不気味に響き、足音だけが異常に大きく感じられる。
その時、建物の中から微かな音が響く。イングヒルトは足を止め、緊張感が走る。すぐに何かの気配が迫ってくる。思わず身構えた瞬間、暗がりの中から現れたのは、一人の女性だった。
「……おい、大丈夫か?」
その声は優しさを帯びており、どこか安心感を与える。だが、イングヒルトはすぐに警戒を強め、手にした小型の武器を握りしめた。現れた女性、ニコラ・ミヒャルケ大尉は、薄い微笑を浮かべながら近づいてきた。彼女の目には冷徹さと落ち着きが見え隠れし、その姿勢はどこか異質だ。
「ここに隠れているのは危険だ。私と一緒に来てくれ」
ニコラはイングヒルトに優しく言った。まるで戦場の厳しさを知らないかのような穏やかな表情で。
イングヒルトはその申し出に一瞬躊躇したが、直感的に感じたのは、彼女が危険な存在であることだった。それでも、ニコラの優しい声と、その穏やかな振る舞いに引き寄せられるように、少しずつ警戒心を解いていった。
「私はシュタージの一員よ。貴様も私達の仲間になれるかもしれない」
ニコラが一歩近づきながら、暗闇の中でその瞳を輝かせた。
その瞬間、イングヒルトは心の中で警告音が鳴り響くのを感じた。だが、ニコラの微笑みと優しさが、まるで毒のように彼女の心を掴んで離さなかった。
イングヒルトはニコラの言葉に、一瞬動揺を見せた。シュタージ。彼女はその名前をよく知っていた。冷徹で、無慈悲で、徹底的に秩序を守る組織。そのことを頭では理解している。しかし、目の前の女性がどこか無邪気に見える優しさを見せると、心が揺れてしまう。
「シュタージ?私は……」
イングヒルトは言葉を詰まらせ、思わず視線を避けた。何故なら、シュタージの名が自分の口から出ることに違和感があったからだ。イングヒルトはその組織に強い恐れを感じており、加入することはあり得ないと心の中で決めていた。
だが、ニコラはその反応を見逃さなかった。彼女の冷静な目には、イングヒルトの心の中で揺れるものが見えた。ニコラは微笑んだ。
「……怖がるのも無理はない。でも、シュタージに入ることが恐ろしいことだとは限らない。私達は秩序を守り、無駄な殺戮を避ける。それに、貴様の能力を生かす場所としては最適だ」
ニコラの言葉は、まるで蜜のように甘く、しかしその中に確かな力を感じさせるものだった。
イングヒルトはその言葉に心が揺れるのを感じた。自分がここで生き延びるためには、助けが必要だ。しかし、シュタージがどんな組織で、どんな目的を持っているのかを知っている以上、安易に乗ることはできない。
「でも……私は、あなた達のやり方を信じられない」
イングヒルトの声は震えていた。それは恐怖からくるものではなく、自己を守りたいという本能から来るものだった。彼女は心の中で、決して他者の命を軽々しく扱うことができない自分を強く感じていた。
ニコラは暫く黙ってイングヒルトを見つめ、彼女の心を読んでいるかのように微笑みながら言った。
「私達が守っているものは、貴様にとっても大切なものだと思う。貴様の選択に従うこともできる。でも、その選択が最終的に貴様自身を守ることになるかどうかは、わからない」
彼女の声はどこか冷たく、だが確信に満ちていた。
その言葉に、イングヒルトは再び心を掴まれた気がした。彼女の中で決して揺らいではいけない「何か」が少しずつ崩れ始めていた。それでも、心の奥ではニコラの意図を見抜こうとする自分がいた。
「私は……」
イングヒルトは口を開きかけたが、その先に言葉が続かなかった。
その時、建物の外から銃声が響き渡った。イングヒルトとニコラは反応し、すぐに身を伏せる。
「来たな」
ニコラが冷静に言った。
「これが貴様の答えを引き出すきっかけかもしれない」
銃声が鳴り響く中、イングヒルトはその音に一瞬で反応し、身を低くして建物の影に隠れた。冷静に状況を分析する。だが、心の中で何かが揺れ動くのを感じる。
ニコラも同様に素早く行動し、イングヒルトを隠れるように指示した。
彼女の動きは訓練された兵士そのもので、どこか冷徹で計算されたものだった。
「ここでじっとしていなさい。」
ニコラは低い声で命じる。
イングヒルトは彼女の指示に従い、無言で建物の隅に身を寄せる。その心臓は早鐘のように鳴り、銃声が耳元で響くたびに、身体が緊張していった。外からは足音や断続的な発砲音が聞こえ、明らかに戦闘が繰り広げられていることがわかった。
「何が起きているの?」
イングヒルトは、息を呑んでニコラに問いかけた。
ニコラは暫く黙って、外の様子を伺っていた。視線が冷徹で、まるで事態を予期していたかのようだった。
「恐らく、私達を追ってきた部隊だろう」
ニコラは低く呟いた。
「シュタージの勢力圏内にいるとはいえ、貴様がここにいることを知っている者たちもいる」
イングヒルトはその言葉を聞き、心の中で驚きと恐怖が交錯した。シュタージがどれほど大きな影響力を持っているか、そしてその裏にある陰謀を少しずつ理解し始めていた。
「それなら、どうするの?」
イングヒルトは緊張を押し殺しながら聞いた。
ニコラは少しの間黙っていたが、次に発した言葉には力強い決意が込められていた。
「私達がここで生き残るためには、今すぐに決断しなければならない」
ニコラは、イングヒルトの目をしっかりと見つめながら言った。
「……貴様がシュタージに加われば、私達は助かる。でも、もしそれを拒否するなら、すぐにこの場を脱出しなければならない。どちらを選ぶかは貴様次第だ」
その言葉に、イングヒルトは深い葛藤を感じた。ニコラの目には、優しさの中に鋭い冷徹さが感じられ、彼女の言うことが本当に正しいのかを考えざるを得なかった。
突如、外で大きな音が響き、さらに銃声が近づいてきた。足音が近づいてくるのを聞いたイングヒルトは、意識がさらに集中していくのを感じた。
「行動を起こす時間が迫っている今、選ばなければ、私達は逃げられなくなる」
ニコラは、イングヒルトに冷静に告げた。
イングヒルトは息を呑んだ。外の音はますます激しさを増し、時間がないことが身にしみて感じられた。
「シュタージに加わるべきなの……?」
イングヒルトは心の中でその答えを探し続けるが、目の前で繰り広げられる戦闘の音がその思考をかき消していく。
イングヒルトの脳裏に浮かんできたのは、親友のアネット・ホーゼンフェルトと666中隊の次席指揮官であるファム・ティ・ランの事を気に掛けていた
イングヒルトはアネットの事が心配だろう。だが、そうは言ってられない状況だ。
その時、イングヒルトの目に一つの決意が宿った。
「……わかった。行動を起こします」
ニコラはその言葉に微笑みながら、静かに立ち上がった。
「貴様の選択を尊重する」
二人は息を合わせて、建物を出る準備を始めた。外では、間違いなく戦闘が激化している。だが、それがイングヒルトにとって新たな道を歩み始めるきっかけとなるのだ。
イングヒルトは静かに息を吐き、覚悟を決めた表情で立ち上がった。ニコラの冷徹でありながらも理解を示す視線が、どこか彼女を後押しするように感じられる。彼女の決断は、戦場の喧騒の中で新たな道を切り開く瞬間だった。
「行動を起こします」とイングヒルトは強く言い、頷いた。
ニコラはその言葉に満足げに微笑み、静かに背を向ける。彼女の足取りは冷静で、まるで既に次の行動を計算しているかのようだった。イングヒルトもその後を追い、二人は建物を離れた。
外の世界は依然として戦火の中にあり、銃声と爆発音が耳をつんざくように響いていた。だが、その音に混じって、どこか遠くで爆撃の音が聞こえ、建物の壁が震えた。街は完全に崩壊し、彼女たちの周囲には焦土と化した廃墟が広がっていた。
「私達の仲間が待っている場所に向かう。少しでも早く、ここを離れた方がいい」
ニコラがイングヒルトに声をかける。
イングヒルトは少し顔をしかめ、何かに気づいたように足を止める。暗闇の中に、人影がちらりと見えた。
「誰か…」
イングヒルトは声をひそめながら、目を凝らした。
「何も見逃すな」
ニコラがすぐに反応し、腕を引っ張ってその場を離れるように指示した。
その時、遠くから足音が迫ってきた。誰かがこちらに向かって歩いてくる。その影は見覚えのあるものだった。イングヒルトは一瞬、心臓が止まるような感覚を覚えた。あの人物が、あの部隊が…と頭をよぎる。
「アネット?」
イングヒルトは呟いた。
アネット・ホーゼンフェルト、彼女の親友。かつて同じ部隊で戦っていた彼女が、今はどこにいるのか。イングヒルトの心の中で、仲間としての絆が再び強く感じられた。だが、この場で彼女と再会することが、どういう意味を持つのか――イングヒルトはその問いに直面し、心を決めなければならなかった。
「来るな!」
突然、ニコラが冷徹な声で命じた。
イングヒルトがその声に反応し、振り返った時、アネットの姿は既に遠くへと消えていた。彼女が目にしたのは、ただの影だったのか、それとも――
「行こう」
ニコラは再びイングヒルトを引き寄せ、急かすように言った。
イングヒルトは深く息を吸い、再び歩き出した。シュタージという選択をした自分が、今後どうなるのか。その未来は、まだ見えなかった。しかし、彼女はその一歩を踏み出すことしかできなかった。
彼女は心の中で、アネットのことを思い続けていた。そして、その思いを胸に、暗闇の中へと足を踏み入れた。
イングヒルトは重い鉄の扉を開け、シュタージの基地へと足を踏み入れた。冷たい金属の廊下が、彼女を迎え入れる。ニコラの後ろを黙ってついていく中、イングヒルトは心の中で反響する思考を押し殺すことができなかった。
「これが、シュタージの本拠地…」
ニコラが立ち止まり、イングヒルトに振り向いた。
「ここからが本当の試練だ。覚悟はできているか?」
イングヒルトは一瞬、答えを躊躇した。しかし、目の前に迫る現実と、この選択に踏み込んだ以上、もう後戻りはできない。決して後悔しないために、自分を奮い立たせるしかなかった。
「はい、覚悟はできています。」
ニコラは頷き、ゆっくりと進んでいく。壁に取り付けられた監視カメラが、彼女の動きをじっと追っている。施設の中は無機質で、まるで人の温もりを感じることができない。どこもかしこも暗く、冷たく、無音であった。
その廊下を進むと、扉が開かれ、広い部屋に案内された。部屋の中にはシュタージの高官たちが集まっており、その目はイングヒルトを鋭く見つめていた。
「こちらが、新しい仲間、イングヒルト・ブロニコフスキー少尉です」
ニコラの声が響くと、イングヒルトはその視線に耐えるように背筋を伸ばした。
部屋の中央に座る人物、白髪の男性がゆっくりと立ち上がり、イングヒルトに向かって歩み寄った。彼の冷徹な目が、まるでイングヒルトの心の中まで見透かしているかのようだ。
「ようこそ、イングヒルト・ブロニコフスキー少尉」
彼は静かに言った。
「シュタージの秩序を守るために、貴様の力が必要だ。だが、覚えておけ。私達は容赦しない」
その言葉が、イングヒルトの胸に重くのしかかる。シュタージの冷徹な現実が、彼女の目の前に立ち現れたのだ。
「私達は厳格だ」
白髪の男性は続けた。
「そして、貴様の能力を活かす場所もここにある。しかし、もし反逆を試みるなら、その代償は計り知れない」
イングヒルトは黙ってその言葉を受け止めた。だが、心の奥では依然として揺れ動く思いがあった。アネットのことを思い出す。彼女がシュタージのような組織に加わることは、果たして正しいことなのか?もし、自分がこの場で忠誠を誓えば、アネットとの関係はどうなってしまうのか?
その時、白髪の男性が再び口を開いた。
「ミヒャルケ大尉、彼女を初めての任務に向かわせてよいか?」
ニコラはすぐに頷いた。
「はい、少尉は既に訓練を受けており、十分に任務をこなせるはずです。」
イングヒルトはその言葉を受けて、改めて自分の状況を確認した。彼女はもはや、単なる兵士ではない。シュタージという大きな組織の一員となり、冷徹な任務に従わなければならない。だが、どこかでそれが自分をどう変えていくのか不安であった。
「任務はすぐに始まる」
ニコラはすぐに立ち上がり、イングヒルトの腕を引いて部屋を出た。彼女の顔に浮かぶ微笑みは、どこか冷徹でありながらも、優しさを感じさせるものだった。
「少尉、これが貴様の新たなスタートだ」
ニコラは言った。
「でも、覚えておけ。シュタージに背を向けることは決して許されない。それは、貴様にとっても命に関わることだ」
イングヒルトはその言葉を噛みしめながら、任務に向けて準備を整えるために動き出した。
イングヒルトは、シュタージの新たな任務に向かうために、準備を整えた。彼女の装備は、戦闘用の軽装備と精密な武器が組み合わされ、まさにシュタージの兵士としての姿に仕上がっていた。ニコラが隣に立っている。
「これが、シュタージの仕事だ」
ニコラは冷静に言った。
「任務を遂行することが最優先で、個人的な感情を挟む余地はない」
イングヒルトはその言葉を無言で受け止めながら、任務内容の詳細を頭の中で反芻していた。彼女が与えられた任務は、反乱分子の摘発だった。シュタージ内でも、高官たちにとっての「裏切り者」を見逃すことは決して許されず、そのための手段は極めて冷徹だ。
その任務対象は、シュタージの内部情報を漏洩させているとされる人物だった。イングヒルトはその人物の名前を聞いたとき、驚愕した。その人物は、かつての仲間、ファム・ティ・ランだった。
「ファム姉さんが…裏切り者?」
イングヒルトの口から思わず出た言葉に、ニコラは冷静に答える。
「国家の規律を破った者に容赦はない。どんなに彼女が貴様の仲間だったとしても、我々のルールを犯せば、その代償を払わなければならない。」
イングヒルトは暫く黙って歩きながら、心の中で混乱していた。ファム姉さんが裏切り者?彼女がそんなことをするはずがない。それでも、シュタージに従わなければ、命が危うくなる。彼女は自分の立場を痛感していた。シュタージの規律を守るか、自己の信念を貫くかの選択が目の前に迫っている。
任務現場に到着すると、周囲は静寂に包まれていた。イングヒルトは、暗がりの中でファムを発見した。彼女は、かつての親友であり、共に数多くの戦闘を乗り越えた仲間だった。
「ファム姉さん…」
イングヒルトは呟くように声をかけた。その声には、懐かしさとともに、揺れる感情が込められていた。
ファムはゆっくりと振り向き、イングヒルトを見つめた。彼女の顔には疲れと苦悩が浮かんでいるが、同時に冷徹な決意も感じられた。
「イングヒルト、あなたが来るのを待っていたわ」
ファムは静かに言った。
イングヒルトは武器を構えながらも、心の中で迷いが生じる。
「どうして、ファム姉さん?シュタージに逆らう事は出来ない筈です」
ファムは冷静に答える。
「私は逆らってなんかいないわ。ただ、真実を追い求めているだけよ。シュタージが隠しているもの、それを知ってしまったの」
イングヒルトは一瞬驚愕するが、すぐに警戒を強めた。ファムが言う「真実」とは、シュタージの内部に隠された闇のことだろうか?それとも、彼自身が何か重大な秘密を知ってしまったのか?
「それが、国家の裏切りだということは分かっている…」
ファムは続けた。
「だが、私はこのまま黙っていることができなかった」
イングヒルトは、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。彼女の心は引き裂かれそうだった。かつての仲間を裏切らなければならないのか?それとも、ファムとともに戦うことを選ぶのか?
その瞬間、ニコラの声が響いた。
「イングヒルト、躊躇している暇はない。命令を果たすんだ」
イングヒルトは武器を構え直し、ファムを見つめた。
「ごめんなさい、ファム姉さん…でも、私はシュタージに従わなければならない」
ファムは静かに頷き、彼女の決断を理解しているかのように見えた。
「分かっているわ、イングヒルト。あなたが選んだ道は、あなたのものよ」
その言葉が、イングヒルトの心をさらに揺さぶった。彼女は最後の一瞬まで躊躇したが、結局、シュタージの命令に従い、ファムに向けて銃口を向けた。
銃声が響き、ファムの体が地面に倒れた。
ファムが地面に倒れた瞬間、イングヒルトはほっとしたような気持ちと、どこか胸の奥で空虚感を感じていた。しかし、その後すぐに異変が起きた。ファムがゆっくりと体を起こし、傷一つ負っていない様子で立ち上がる。
イングヒルトは目を見開き、信じられない思いでファムを見つめる。
「な、何…?」
ファムは冷静に微笑んだ。
「空砲よ。あなたが私を殺せるわけがない、イングヒルト」
イングヒルトはその言葉に、衝撃を受けるとともに、自分の心の中で何かが崩れ落ちる音を聞いた。彼女は銃を手にしているが、それが本当に自分の意思で発したものなのか、それともシュタージの命令に従っただけなのか、分からなくなっていた。
「どうして…?」
イングヒルトの声は震えていた。
「どうして、シュタージに逆らうの?あなたがそれをしてはいけないことは、分かっているでしょう?」
ファムは深く息をつき、ゆっくりとイングヒルトに近づいた。
「イングヒルト、私は第666戦術機中隊の一員よ。私は真実を知ってしまった。シュタージが隠しているもの、それを暴かなければならない」
イングヒルトは立ち尽くし、ファムの言葉が胸に重く響く。ファムの顔には決意が浮かんでいる。しかし、その決意を見ていると、イングヒルトは自分の心が裂けるような思いを抱えていた。
「真実…それが何なの?」
イングヒルトは心の中で、もう一度自分に問いかけるように言った。
ファムは少し沈黙した後、目を細めて言った。
「シュタージは、この国を支配するために、数々の汚い手段を使っている。そして、その手段には、私達のような人間を利用することも含まれている。」
イングヒルトはその言葉に耳を傾けるしかなかった。シュタージは、真実を隠している。それが何を意味するのか、彼女にはまだ分からない。しかし、ファムが感じている苦しみと決意は、確かに伝わってきた。
その時、イングヒルトの耳にニコラの声が再び響いた。
「イングヒルト、何を躊躇している?命令は下されているんだ。任務を終わらせろ。」
ニコラの冷徹な言葉が、イングヒルトの心を再び引き戻す。彼女はファムを見つめながらも、肩の力が抜け、揺れ動く気持ちの中で必死に答える。
「でも、ファム姉さん…」
ファムは優しく笑い、イングヒルトの肩に手を置いた。
「あなたはまだ迷っているのね。私は、あなたに決断を迫っているわけじゃない。ただ、真実を知って欲しい。それが、あなたの心を縛るシュタージの力から解放してくれるかもしれない」
イングヒルトの胸中は、激しく乱れていた。シュタージに従うか、ファムと共に戦うか。それは、単なる選択の問題ではなかった。自分の信念が試される瞬間が、今、目の前に来ている。
「私にできることは?」
イングヒルトは最終的に声を絞り出した。彼女の心は、決断を下す時が来たことを理解していた。
ファムは少し立ち止まり、イングヒルトを見つめた。
「あなたが選ぶべきことは一つ…それは、自分を信じること。それだけ。」
その言葉に、イングヒルトは再び迷いを抱えたが、次第に心に浮かんだ決意に背中を押されるような気がした。彼女は再び銃を手に取り、決して引き金を引くことがなかった。
その時、ファムの目がきらりと光った。
「イングヒルト、私達を支配する者がいる。私と一緒に、その支配者に立ち向かって―――私達のために、そして未来のために。」
イングヒルトはその瞬間、覚悟を決めた。シュタージの命令、そしてニコラの冷徹な言葉に反して、彼女は今、真実のために戦うべきだと感じた。
「ファム姉さん…私も戦う」
イングヒルトは銃を腰に戻し、ファムの前に立ち、決然とした表情で言った。
その瞬間、彼女たちの新たな戦いが始まることを、イングヒルト自身が感じていた。
この光景を見たニコラは呆れていたが、小さな笑みを浮かべつつこう言った
「……ここで粛正された事にしてやるから今回だけ見逃してやる」
ファムは冷静にニコラの目を見返し、どこか皮肉な笑みを浮かべながら答えた。
「そう…あなたの恩情ね」
彼女の言葉には、少しの嘲笑と、同時に深い苦悩が隠れていた。
ニコラの冷徹な言葉には、彼女の本心が見え隠れしていた。シュタージにおいては規律を守ることが何よりも重要であり、そのためには部隊のメンバーをも犠牲にする覚悟が必要だ。しかし、ファムのような存在、かつての仲間を処分することで、逆に内部に激しい反発を招くことをニコラも理解していたのだ。
「見逃してやる」と言ったその言葉には、ファムに対する手のひらを返したような冷徹さと、上司としての立場を守るための冷静な判断が混じっていた。しかし、彼女の目にはわずかな揺らぎも見え隠れしていた。仲間に対する愛情、それが微かながらも彼女の心の中に残っている証拠だった。
イングヒルトはそのやり取りを見守っていたが、心の中で葛藤していた。シュタージという組織が掲げる規律を守ることが正義だと信じていたが、今のファムの姿を見ることで、それが本当に正しいのか疑問を抱かずにはいられなかった。彼女の心は、再び二つの道の間で引き裂かれそうになっていた。
ファムはニコラの言葉に対して、一瞬無言で立ち尽くしていたが、やがて口を開いた。「見逃してくれると言うのなら…それが私の最後のチャンスだと理解しておきます」
彼女は静かに、そして無情に言い放った。
その時、ファムの背後で、シュタージの隊員たちが徐々に集まり始めているのが見えた。彼女たちの目には、怒りと冷徹な決意が宿っていた。ファムの行動が全てを台無しにする可能性を秘めていたからだ。だが、ニコラがファムを見逃す決断をしたことで、今のところ彼女は命を取り留めた。
「これで終わりだと思うな、ファム・ティ・ラン中尉」
ニコラの声は再び冷たく響いた。彼女はファムに向かって冷徹な目線を送る。だがその目には、わずかに彼女を思う気持ちが込められているのかもしれなかった。どんなに厳しい決断を下したとしても、それでもかつての仲間を見逃すという選択をしたことは、彼女にとっても一つの試練だった。
イングヒルトはその光景を目の当たりにし、心の中で再び決断を迫られていることに気づいた。シュタージの規律と真実、仲間との絆。そして今、彼女が目の前で見ているのは、そんな全てを背負った二人の女性が交わす言葉と行動だ。どちらが正しいのか、誰が最終的に道を選ぶのか、それは今後の戦いで明らかになるだろう。
ニコラは最後に言った。
「だが、次にお前が動く時、シュタージの決まりを再び破れば、容赦なく処罰する。それを肝に銘じておけ」
ファムは無言で頷き、周囲の冷徹な視線を一身に受けながら、ゆっくりと背を向けた。その瞬間、イングヒルトはもう一度心の中で自問した。これで終わりなのか?それとも、これからもっと深い闇に足を踏み入れていくのか?
物語の先に待つのは、イングヒルト自身が選び取るべき運命であり、ファムとシュタージとの戦いの結末だ。
その後、イングヒルトはファムの姿を見送ると、冷徹な決断を下したニコラの方へ向き直った。空気が一瞬重くなる。イングヒルトは胸の中でまだ整理がついていない感情を抱えながら、ニコラの冷徹な目を見つめる。
「ニコラ…」
イングヒルトの声には、何かしらの決意が感じられた。
「あなたが選んだ道、私も従う覚悟を決めるつもりです。ただ、私の心の中で答えは見つからない」
ニコラはその言葉に、少しだけ目を細めた。彼女がどれほど冷徹であろうと、仲間や部下の心情にまで無関心ではないことをイングヒルトは知っていた。その表情には一瞬、微かな同情が見えたが、すぐに無表情に戻る。
「お前の心情は理解している。でも、シュタージが求めるのは忠誠だ。それを越えた個人的な感情は、組織にとっても、そしてお前にとっても害となる。」
ニコラはゆっくりと歩き出し、イングヒルトを先導するようにその後をつけた。「ただし、今の選択が正しいかどうかは、時間が証明するだろう。」
イングヒルトは黙ってその後をついていった。ファムを見逃すという決断、そしてシュタージの命令に従ったこと。それらの行動が今後どう影響するのか、まだ確信は持てなかった。
彼女たちは、再び厳重な警戒が敷かれた区域へと向かっていた。シュタージ内の重要な施設に向かう道中、イングヒルトの目にはいくつかの暗い影が映り込んでいた。ファムの「真実」とは一体何なのか、そしてシュタージが隠している「闇」とは何を意味するのか。その答えを知るためには、あの場でファムを見逃した自分が、もう一度その背後に潜む真実に向き合う必要があるのかもしれない。
だが、それを実行に移すには、さらに危険を伴う決断が必要だろう。イングヒルトは、今後自分がどんな選択をしていくのか、思い悩む日々が続く予感がしていた。
その時、ニコラが立ち止まり、振り返った。
「イングヒルト、私たちの目的地には、今後の行動を左右する重要な情報がある。それを手に入れることができれば、シュタージ内部の力関係も大きく変わるかもしれない。」
イングヒルトはその言葉に少し驚きつつも、すぐに答えた。
「情報…それが私たちの次の動きに繋がるということですね?」
ニコラは無言で頷き、再び歩き出した。
「そうだ。この情報を持つ者が、今後のシュタージを動かすことになる」
その言葉を胸に刻みながら、イングヒルトはさらに険しい道を進んでいった。
イングヒルトがヴェアヴォルフ大隊に正式に配属された日、冷徹で鋭い眼差しを持つベアトリクス・ブレーメ少佐との対面が待っていた。ヴェアヴォルフ大隊はシュタージの中でも精鋭部隊として名高く、その大隊長であるベアトリクスは恐れられ、尊敬されている存在だった。
大隊本部の冷徹な空気の中、イングヒルトは控えめに姿勢を正し、少佐の前に立った。ベアトリクスは、彼女を無言でじっと見つめ、深く息を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
「イングヒルト・ブロニコフスキー…シュタージの中でも頭角を現している新たな衛士だと聞いている」
その声には、他の者たちに対して見せるような冷徹さだけでなく、どこか興味と警戒の入り混じった響きがあった。
イングヒルトは軽くうなずき、胸を張った。
「はい、少佐。シュタージの命令に従い、任務を全うします」
ベアトリクスは静かに微笑むと、席を立ち、イングヒルトに向かって歩み寄った。彼女の動きは素早く、まるで鋭い獣が獲物に近づくかのようだった。その表情に一切の迷いはない。
「良い覚悟だ。しかし、この大隊では何もかもが命がけだ。貴様が抱いている『正義』や『信念』など、ここでは通用しない」
彼女はイングヒルトをまっすぐに見つめ、その瞳に冷たい決意を込めて続けた。
「我々ヴェアヴォルフは、国家のため、シュタージのために戦う。無駄な感情や疑念を持つ者は、たとえ優れた兵士でも、最終的にはその命を落とすことになる」
イングヒルトはその言葉に心の中で一瞬、何かが引っかかる感覚を覚えたが、すぐに表情を引き締めた。彼女はすでに覚悟を決めていたのだ。どんなに過酷で冷徹な状況でも、任務に従うことしか選択肢はない。それがシュタージに仕官するということだ。
ベアトリクスは再び微笑んだ。
「……覚えておきなさい。ここでは、個人的な信念や感情よりも組織の命令が最優先よ。貴様が最初に与えられる任務は、君の忠誠心を試すものだろう」
その言葉にイングヒルトは一瞬、心が震えるのを感じた。
ベアトリクスは無表情で手を伸ばし、彼女の肩に手を置いた。
「私の指示に従うことを約束しろ。それができなければ、いずれ私が君の命を刈り取ることになる」
その冷徹な言葉に、イングヒルトはひとたび目を伏せたが、すぐに気を取り直して答えた。
「了解しました、ブレーメ少佐。私はシュタージに忠誠を誓います」
ベアトリクスはその返答に満足した様子でゆっくりと頷くと、イングヒルトを見送った。
「それでこそ我が同胞だ。さあ、貴様の力を証明する時だ。」
その瞬間、イングヒルトの心には新たな決意が芽生えていた。どんな困難が待ち受けていようとも、今はただ前進するしかないのだ。彼女の未来は、シュタージのために捧げられるだろう。
その後、イングヒルトは大隊の仲間たちと共に、次の任務に向けて準備を始めた。冷徹なヴェアヴォルフ大隊の一員として、彼女は次第にその戦闘技術と精神を鍛え上げていくことになる。
イングヒルトは静かな訓練場の片隅に立っていた。目の前には訓練を終えたばかりのファルカが、額の汗をぬぐいながら軽く息をついていた。彼女はヴェアヴォルフ大隊の精鋭兵士で、イングヒルトにとっては新たな仲間だ。
ファルカは訓練後の疲れを感じさせないほど、明るい笑顔を見せてイングヒルトに声をかけた。
「ブロニコフスキー少尉、最近どうですか?」
その言葉に、イングヒルトは少しだけ肩の力を抜いて返事をした。
「うーん、まあ、なんとかやってるわ。少佐の下での訓練も厳しくて、ちょっと疲れ気味だけど。」
イングヒルトはそのまま少し言葉を続けようとしたが、ファルカの表情が急に真剣になったのを見て、言葉を飲み込んだ。
ファルカは少し黙ってから、静かに口を開いた。
「リィズ先輩のこと、知ってますよね?」
その言葉に、イングヒルトは思わず顔を上げた。リィズという名前が出てきたことに驚いたからだ。イングヒルトはリィズとは一切面識がなかったが、ヴェアヴォルフ大隊内でリィズの名前はよく耳にしていた。その能力や評価は非常に高く、そして彼女が666中隊に配属されたことをファルカから聞いたことがあった。
「名前だけは知ってるけど、直接会った事はないわ」
イングヒルトは少し驚きの表情を浮かべて答えた。
ファルカはゆっくりと頷き、さらに続けた。
「……先輩が666中隊の潜入任務を遂行するんですが、あの部隊の任務って、正直かなり危険で…」
ファルカは一瞬、言葉を切ってから、しっかりとイングヒルトの目を見つめて言った。
「でも、先輩なら大丈夫です。どんなに厳しくても、先輩なら乗り越えられる」
その言葉には、リィズに対する信頼と尊敬の気持ちが込められていた。
イングヒルトはリィズがどんな人物か、詳しく知っているわけではなかったが、ファルカがそこまで信頼を寄せる相手であるならば、彼女の言葉に納得せざるを得なかった。
「その”リィズ先輩”は…すごい人なんだ」
イングヒルトは思わずそう言った。リィズがいかに優秀な衛士であるかを、ファルカの話から感じ取ったのだ。
ファルカは少し遠くを見つめながら、再び言葉を続けた。
「ですが、リィズ先輩が666中隊に潜入した事で、私達も少し危機感を持っているんですよ。あの任務は、ただの潜入任務じゃなくて、実際に命をかけた戦いが待っているから」
その言葉には、隠せない不安がにじんでいた。
イングヒルトはファルカの表情を見つめ、しばらく沈黙してから言った。
「私たちは、どんなに厳しい任務でも、仲間を守るために戦わなきゃならない。”リィズ先輩”が戻ってきた時、何かあったら…その時は私たちで何とかするしかない。」
その言葉に、ファルカは微かに微笑み、頷いた。
「そうですね、少尉。今は先輩が無事に帰ってくるのを祈るだけです」
二人はしばらく静かに立っていた。お互いの言葉は、ただの慰めではなく、これからの試練を共に乗り越えるための覚悟を確かめ合うためのものだった。
今回はイングヒルトが主人公でシュタージの衛士として活躍する話です。
イングヒルトがシュタージに鞍替えするなんてあり得ないと思ってる人はいますが、”テオドールにアネットの事含めて心ない発言されてしまった”という理由なら辻褄が合うと思います。
難しいな………本編通りでやると戦死する運命なのでそこは変えざるを得ないです(ーー;)
仮に生き延びたとしても恐らくシュタージに逆らって反体制派に加担すると思われますね。
この作品を…トータルイクリプスサンダーボルトや他の作品、Pixivで投稿した作品を読んで頂けた全ての方々に感謝しつつ、今回はここで筆を置かせて頂きます
ではまた