林田左門(林田内膳)は戦国時代から江戸時代にかけての兵法者である。林田隠岐守の子孫は何家にも分かれ、左門の家は戦国大名有馬氏の家臣になっていた。左門の父は有馬晴信に仕えていた。
隣の佐賀では龍造寺隆信が勢力を拡大していた。隆信は肥前統一の戦いに邁進していた。天正六年(一五七八年)には有馬領に攻めてきた。その戦争で父は戦死し、晴信は降伏する。
晴信は龍造寺に臣従することで命脈を保ったが、左門の家は切り捨てられた。母は実家に戻り、左門は流浪の旅に出た。目指すは剣客である。左門には剣術の才能があり、既に有馬家の中ではちょっとした神童扱いになっていた。左門は武者修行の旅を続け、越前国に至る。
越前国で冨田勢源(とだせいげん)に出会い、師事する。勢源は冨田流の創始者である。この冨田流は後に戸田流と称されることになる。勢源自身は中条流の継承者と位置付けていた。イエス・キリストが自身をキリスト教徒、仏陀が自身を仏教徒と位置付けていないことと重なる。中条流も戸田流も小太刀が有名である。左門も小太刀を得意とした。
左門は勢源に学んだ後、再び武者修行を続けた。左門は剣客同士で慣れあうことはしなかった。武者修行を続けた左門は兵法者として名前が知られるようになった。格別に珍奇な手法を弄する訳ではなく、ごく簡単にあっけなく勝負をつけた。
兵法者として有名になった左門は、あちこちの大名から招かれたが、仕官は長続きしなかった。左門には主君を選ぶ戦国時代の気風を持っていた。有馬家から切り捨てられた不信感が根底にあった。最後に仕えた主君が黒田長政である。
林田左門を黒田家で有名にした逸話が足軽六人斬りである。左門は黒田家で物頭を命じられた。これは足軽の頭である。足軽と言うと江戸時代は最下級の武士で、上士から見たら武士とも言えない連中と蔑まれる悲哀のイメージがある。しかし、戦国時代は実働戦力の中心であり、江戸時代初期までは荒くれ者の気風があった。
「大変です。長兵衛ら六人が人を殺ししました」
林田左門に配下の足軽六人が人を殺して出奔したとの報告があった。
「今はどこにいる」
「佐賀に向かって逃げているようです」
それを聞くと林田左門は足軽達を馬で追いかけ、途中で追いついた。とはいえ左門は一人、足軽達は六人である。剣術の達人でも六対一は容易ではない。
左門は静かに馬から下りて言った。
「その方達六人同じく人を殺すといえども必ず罪に軽重があるだろう。六人が皆、同罪ということはない。拙者がここへ来たのはその是非を明らかにしようと思うためである」
左門が足軽達に歩み寄ったところ、最も近くにいた足軽の一人の心は得体の知れない恐怖に包まれた。彼は訳も分からぬまま、刀を抜いて斬りかかった。林田左門は刀に手をかけず、表情を変えず、足も動かさずに「軽率な振舞いをするな」と言った。近くに来ると「無分別者め」と言って抜くや否や斬り伏せた。
「落ち着いて我が言葉を聞け。敵対する故に斬ったのだ。敵対しなければ斬りはせぬ」
ところが、また一人斬りかかってきたため、「馬鹿者め」と言って斬り伏せた。
左門は、わざと後退し、足軽が踏込むところを避け、その後に斬り伏せた。これは足軽達に気を緩めさせ、一度に斬ってかからせないようにした策略であった。このようにして一人ずつ斬っていった。足軽四人を斬り殺し、二人を負傷させた。負傷者は帯で縛って連れ帰った。
林田左門の戦い方は、集団に一人で戦うための実践的な戦術であった。斬りあいせず、一太刀で切り殺す点も迅速に複数人を相手し、刀を消耗させないための実践的な方法であった。ところが、武士道が精神論になりつつあった江戸時代には批判も生じることになる。