左門の下には多くの黒田藩士が刀術を学びにきた。その結果、藩内の他の師範が閑古鳥になった。このために師範達は左門が悪意の企みを謀っているとの悪評を流した。個人主義者の左門は村社会的な馴れ合いを好まない。関係が悪化した左門は福岡を出て豊前国小倉藩の細川家を頼ろうとした。細川家が肥後熊本藩に移るのは寛永九年(一六三二年)であり、この時点では小倉藩であった。
主家を見限って他家に移ることは戦国時代ならば珍しくない。戦国時代を生きてきた武士には「君、君たらざれば、臣、臣たらず」の意識がある。しかし、江戸時代は許されなくなっていた。先祖代々「お家」に仕える時代になってきた。
左門の脱藩計画は露見し、身柄は菅和泉(菅正利)に預けられた。菅は黒田二十四騎の一人である。関ヶ原の合戦では鉄砲隊を率いて島左近を討ち取った。菅は林田左門の刀脇差を預かり、一間を堅固に囲んで押し込めた。左門と菅は師弟関係で特に親しかったので、預けたという。
左門は一切語らなかった。完全黙秘である。細川に内通して小倉に行くつもりと決めつけられ、左門を牢屋に入れることになった。
既に左門を一間に押し込めているが、牢屋に入れるとなると一苦労である。捕らえ損ね、逃がしてしまったならば外聞が悪い。藩士の中で腕に覚えのある後藤金右衛門と林仁左衛門の二人で捕らえることになった。二人は左門がいる部屋に入り、外から錠を下ろさせた。二人がかりで捕まえようとしたが、左門はするすると逃げる。狭い所を三人で立ち騒いだが、まるで捕まらず、二人は疲労が見えてきた。
「仮にこの二人を殺しても他の奴が来るだけだから、逃げられない。罪作りに科のない者を殺すのも、無益なことだ」
このように思った左門は座り、捕らえられた。
「いつも用心のために、木爪の大楊枝を一本懐中しているが、今再三探っても見当たらん。この楊枝があったら、お前らの命は危うかったろう」
左門は二人に語った。ところが、着替える時に、その楊枝が出てきた。
左門は宝満山の麓の牢に入れられた。宝満山は福岡の南東にある。全山花崗岩で、修験道の霊峰である。元和七年(一六二一年)に外から槍で突きさされ、殺害された。林田左門は天下に知られた名高い兵術の名人なので、世の聞こえを憚って密かに殺された。同じ元和七年には徳川家康の側室の茶阿局や織田長益(織田有楽斎)が亡くなっている。
林田左門の剣術は戸田流林田派として残った。備後三次藩の御普請奉行の宮田忠左衛門は戸田流林田派の継承者の一人である。忠左衛門は万治三年(一六六〇年)、三次藩初代藩主の浅野長治に極意を伝授した。長治の娘の阿久里は播磨赤穂藩主浅野長矩の正室である。
文政年間には奥州胆沢郡の医者の藤木道満が戸田流林田派の継承者になった。道満は子分を抱えた義賊であった。子分の一人の「鬼の目」太蔵が飛騨で荒らしており、飛騨郡代の息子の高柳又四郎が追っていた。しかし、又四郎は道満と会い、盗賊の追及を止めて道満に師事する。やがて道満から戸田流林田派の免許を受けた。