林田の歴史   作:林田力

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室町時代の林田郷

播磨国揖保郡林田郷は室町時代には播磨国守護赤松氏の勢力下になった。赤松氏は室町幕府草創期に赤松円心(則村)が足利尊氏を支えた。円心は鎌倉幕府打倒に尽力したが、建武の新政では不遇であった。このため、尊氏が建武政権から離反すると、足利方として戦った。

 

この功績により、赤松氏は室町幕府で三管四職の四職の一つとして重きをなした。三管は管領に就任できる守護大名であり、斯波・細川・畠山の三家である。四職は侍所所司に就任できる守護大名であり、赤松・一色・山名・京極の四家である。

 

赤松氏の家臣の喜多野新左衛門忠助が応永年間(一三九四年から一四二八年)に林田郷に入った。忠助は林田町上伊勢に空木城(うとろぎじょう)を築いた。

 

赤松満祐は嘉吉元年(一四四一年)に嘉吉の乱を起こし、将軍足利義教を殺害する。満祐は播磨国の本拠地に戻って抗戦した。山名宗全の軍勢が攻めてきた。林田郷の空木城には小野七郎右衛門が入って山名勢に抵抗した。最終的に山名勢に鎮圧され、赤松氏は断絶し、山名氏が播磨・備前・美作守護になった。

 

赤松氏の遺臣は長禄元年(一四五七年)の長禄の変で後南朝から神爾を奪った。その功績で長禄二年(一四五八年)に満祐の弟の孫の赤松政則を当主とする赤松氏再興が許された。政則は応仁の乱で細川勝元方に与し、山名氏から播磨国を取り戻した。

 

林田町松山には松山城が築城された。永正年間(一五〇四年から一五二一年)は赤松氏の被官の衣笠長門守村氏が城主であった。同じく永正年間には赤松氏の被官の谷沢甲斐守国氏が林田町林田に窪山城を築城した。同じ赤松氏の被官と言っても、国氏は村氏の影響下にあった。

 

永正一五年(一五一八年)に備前守護代の浦上村宗が主君の赤松義村と対立し、居城である備前三石城に退去する。村氏は村宗の姪婿であり、村宗に同調して赤松氏から離反する。国氏も村氏に従った。しかし、松山城も窪山城も赤松義村に攻められて落城した。

 

その後も浦上村宗と赤松義村の抗争は続き、最後に村宗は義村を室山城に幽閉し、謀殺した。村宗は赤松の跡目に義村の嫡子才松丸(政村)を擁立し、その後見人となり、赤松家の実権を握った。しかし、政村との抗争が表面化し、享禄四年(一五三一年)の大物(だいもつ)崩れで、政村の攻撃を受けて戦死した。

 

その後は宇野氏の勢力が伸び、長水城主・宇野政頼は四男の宗祐を本郷祐義の養子とし、松山城主とした。織田信長は羽柴秀吉に中国攻めを命じ、天正五年(一五七七年)から播磨攻略が始まった。宇野政頼も本郷宗祐も秀吉に抵抗したが、天正八年(一五八〇年)四月に小寺官兵衛孝高や神子田半左衛門の軍勢に攻略された。秀吉は降伏した宗祐の所領を取り上げ闕所(欠所)とした。家来など下々のものは奉公させ、難所整備の労役を課した。

 

秀吉は信長の命によって播磨国の検地を実施し、支配拠点として姫路城を築城し、浄土真宗の寺内町だった英賀から町人を呼び寄せ、城下町を整備した。空木城も松山城は城割令によって廃城になった。秀吉は播磨から西の毛利領に進軍した。

 

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