本能寺の変後は羽柴秀吉がいち早く中国大返しを行い、山崎の合戦を主導した。ここから関白就任、天下統一に至る過程は豊臣秀吉の絶頂期である。秀吉が最も輝いていた時期である。
寿徳は羽柴秀吉から引き抜かれて配下になった。秀吉は天下統一事業のために他家の配下で事務処理能力のある人物を引き抜いていった。秀吉の下で寿徳のロジスティックスの才能が十全に発揮されることになる。寿徳は摂津尼崎郡代として三万石の蔵入地の代官になり、尼崎港を管理した。自己は七百石を知行した。
秀吉は織田家の跡目相続と領地の配分を決める清須会議も主導し、信長の実質的後継者の立場を固めた。柴田勝家と羽柴秀吉、丹波長秀、池田恒興が天正十年六月二七日(一五八二年七月一六日)に清州城で会議した。
池田恒興は織田信長の乳兄弟であり、信長の最も信頼する家臣であった。林田藩の初代藩主は建部政長の母は恒興の息子の池田輝政の養女である。恒興は後に長久手の戦いで討ち死にするために二線級の武将とされがちであるが、徳川家康が強過ぎると見るべきだろう。次代の池田輝政は江戸時代に一族合わせて百万石を誇った。
会議は勝家対秀吉、長秀、恒興の連合と描かれることが多い。秀吉、長秀、恒興は山崎の合戦を一緒に戦っており、話がついていたとされる。後の歴史を知る立場としては長秀や恒興が秀吉に味方をすることは織田家を危険にする愚策になる。
しかし、この時点では勝家は筆頭家老として強大であり、勝家の好きにさせた方が織田家を傀儡にすると考えただろう。勝家は忠義の人と見られがちであるが、信長の才覚に服していた。元々、信長がうつけと思っていたら謀反を起こした下剋上の武将である。信長の息子達にも同じ忠義が続くとは限らない。
清須会議の後に秀吉と勝家の対立が起こり、秀吉は勝家を賤ケ岳の戦いで破り、滅ぼした。信長の息子の織田信雄は主家をしのぐ秀吉の勢力拡大を脅威と感じ、秀吉と戦うために三河の徳川家康に援助を求めた。天正一二年(一五八四年)、家康は一万五千の兵を率い、清須城へ入り、信雄と合流した。これに対して秀吉は軍を率い、小牧・長久手の戦いが始まる。
小牧・長久手の戦いの重大局面が天正一二年四月九日(一五八四年五月一八日)の長久手の戦いであった。羽柴軍と徳川軍は小牧で睨み合っていたが、池田恒興が別動隊を率いて家康の本拠地の三河を攻撃することを献策した。秀吉は許可し、恒興、森長可、堀秀政、羽柴秀次を別動隊とした。
ところが、家康は別動隊の動きを見破っており、逆に別動隊を背後から襲った。羽柴秀次を白山林の戦いで撃破した。続いて堀秀政を桧ヶ根の戦いで攻撃したが、ここでは反撃されてしまう。反撃には成功したものの、堀秀政は撤退する。
家康は最後に長久手の戦いで恒興と長可を攻撃する。長可は井伊直政隊に狙撃されて討ち死にした。これで徳川が優勢になった。森長可は本能寺の変で討ち死にした森蘭丸、坊丸、力丸の兄である。恒興は永井直勝の槍を受けて討死にした。息子の池田輝政は逃げ延び、池田家の家督を継承した。この池田氏は林田藩主・建部氏と関係が深い。
恒興と長可の戦死は秀吉にとって打撃である。もっとも秀吉方の武将と言っても織田信長の有力家臣であり、秀吉に対して同僚意識を持っていた。特に恒興は織田信長の乳兄弟である。彼らの戦死は秀吉の政権基盤の確立の上ではプラスになった面があるだろう。
長久手の戦いは家康の戦上手を印象付けた。家康が秀吉に戦で負けなかったことは、後の豊臣政権下での家康の地位向上になり、秀吉没後は天下人に押し上げた。