林田の歴史   作:林田力

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秀吉の死

豊臣秀吉は慶長の役の最中の慶長三年(一五九八年)に亡くなる。朝鮮には加藤清正ら日本の大軍が出兵中であった。既に泥沼の戦いになっていたが、秀吉の死が知られれば朝鮮側が大攻勢をかけることが予想された。このため、朝鮮に出兵中の将兵を速やかに撤退させることが政権の課題であった。戦争でもビジネスでも投資でも撤退戦が最も難しい。

 

徳川家康が筆頭大老として天下を預かった。家康は朝鮮からの撤兵という難題を石田三成に押し付けた。諸大名は順次、釜山から博多へ帰着した。

 

三成は朝鮮から撤退した福島正則ら武断派諸将を出迎えたが、ここでひと悶着があった。三成は諸将に疲れをとるために湯につかることを勧める。これに対して、諸将は「それほど自分達は臭いのか」と怒りを大きくする。三成に悪気はないとしても、相手の心を読まない自分勝手な配慮の押しつけが反発を招いた。

 

撤退が一段落すると三成は清正に貸米の返済を催促した。補給もままならない朝鮮で戦っていた清正には酷な要求であった。清正は状況を無視した三成の要求に激怒する。徳川家康は金がない大名に金を貸していた。三成よりも家康に人心が集まることは自然な成り行きであった。

 

しかし、三成には三成の考えがあった。秀吉子飼いの大名である清正を優遇するような対応をしたら外様大名に示しがつかないとの考えである。この公正さは現代に求められている。日本では人情味ある解決がもてはやされがちであるが、それは往々にして外部に負担と我慢を押し付けた身内優遇、既得権擁護になりやすい。それよりは機械的な合理主義の方がまだ公平である。

 

三成と清正では三成の方が官僚的とするイメージがある。しかし、ここでは清正の方が世間の非常識を押し通す公務員感覚の存在になる。二十世紀と異なり、二一世紀に三成の人気が高まった背景には、この点があるかもしれない。

 

徳川家康は、三成が朝鮮出兵の後始末で伏見を離れた間に禁止されていた大名との婚姻など自派の勢力拡大を推進する。福島正則も徳川家と縁組みした。それが後ろめたくて正則は三成から逃げ回っていた。家康の振る舞いは石田三成らには、天下への野心をあらわにし、豊臣家の権力を簒奪する動きに見えた。ここに徳川家康と石田三成の対立が生じ、諸大名は徳川派に属すか石田派に属すか態度を迫られることになる。

 

本来の対立軸は徳川派と、それに抵抗する反徳川派であった。家康の専横に義憤を抱く人々と長い物には巻かれる人々の対立になる。前田利家は豊臣秀頼を擁して大阪城に入った。伏見の家康派と大阪の利家派に分かれて緊張が高まった。

 

ところが、官僚的支配を志向する石田三成への反感が大きく、石田派と反石田派という対立軸に陥りがちであった。これは前田利家の没後に顕著になる。利家が生きていたならば家康の好きなようにはならなかっただろう。この点の三成の無念は十分に理解できる。

 

朝鮮出兵の対応などで三成に不満を持っていた尾張清洲城主・福島正則、肥後熊本城主・加藤清正、三河吉田城主・池田輝政、丹後宮津城主・細川忠興、甲斐甲府城主・浅野幸長、伊予松山城主・加藤嘉明、豊前中津城主・黒田長政の七将は大阪城下の三成の屋敷を襲撃する。これに対して三成は襲撃を察知し、島清興らと佐竹義宣の屋敷に逃れた。

 

そこから伏見に逃れ、伏見城に籠城した。伏見城の守りは固く、戦意は十分であり、戦えば七将の軍勢の撃退も可能であった。襲撃に対して醜態をさらした訳ではなかった。多くの歴史作品では窮地に陥った三成が徳川家康の屋敷に逃げ込んだと描かれる。しかし、これは俗説である。

 

「三成は、かねて昵懇の佐竹義宣の助けをえて大坂をのがれて伏見に至り、伏見城内にある自己の屋敷に立て籠もった。そして三成を追って伏見に来った加藤らの武将たちの軍勢と、伏見城内にある三成と城濠を間にして睨みあいの状態となった」(笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件 歴史認識生成のメカニズムとその陥穽」国際日本文化研究センター紀要22巻、2000年、35頁以下)

 

その後、家康が仲裁に入り、三成は五奉行を罷免され、居城の佐和山城に隠居することになった。三成は政治的に敗北した。

 

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