三成の失脚によって家康は益々専横を強めた。家康は国許にいた五大老・上杉景勝に「謀反の疑いあり」と言いがかりをつけた。上杉家執政の直江兼続は返書で毅然と反論した。これが有名な直江状である。
「景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事」
豊臣恩顧の大名でも天下の形勢を考えて家康になびく人が少なくない状況で、ここまで言い切る兼続には清々しさが感じられる。
一方で直江状にも「上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候」と茶道のような文化を軽視する文言がある。文化を重視する諸将には直江状も千利休を切腹に追い込んだ官僚的支配と同一のものに見えてしまう。官僚的支配を嫌う人々は家康の側に立った。しかも、家康に味方した人々にとって皮肉なことに、江戸幕府も個々の自由を尊重する体制ではなく、豊臣政権よりも締め付けが厳しい面もあった。
家康は上杉景勝を謀反と断定し、上杉征伐を諸大名に号令した。上杉征伐は豊臣家の事業として進めたが、家康は秀吉が行ったような統一的なロジスティックスは無理だと考えた。そこで上杉征伐ではロジスティックスは各大名に任せた。
ロジスティックスを各大名に任せるならば、大名家毎に自己完結させる必要がある。諸大名は兵を出すだけでなく、ロジスティックスも考慮しなければならなくなった。その結果、その準備で出陣が遅れた大名家が出た。小早川家や長宗我部家、脇坂家らである。大名ではないが、建部家もその一つである。
家康は見切り発車で出陣した。その間に上方で三成が挙兵し、出陣が遅れた大名は西軍に取り込まれてしまった。家康にとって三成の挙兵は織り込み済みであった。このため出陣が遅れた大名は葬り去るつもりであったが、想定よりも西軍が大軍になって狼狽することになる。
三成だけでは、あそこまで西軍は大軍にならなかっただろう。そこには大谷刑部吉継プロデュースの功績がある。三成と吉継は刎頸の交わりである。吉継は、らい病(ハンセン病)を患っていた。茶会で三成と吉継が同席した際に吉継の茶碗を三成が飲み干したことがある。
三成と茶では秀吉と最初に出会った時の有名なエピソードがある。喉の乾いた秀吉に、まずは飲みやすい温めの茶を出し、渇きが癒えた後は熱い茶を味わってもらった。この才覚に感心した秀吉は三成を家臣にした。三成は千利休との対立から茶の湯に厳しいと見られがちであるが、相手に快適さをもたらすという茶の湯の本質をつかんでいると言えるかもしれない。
大阪城に入った三成は徳川方に味方した大名の妻子を人質として大坂城に集めようとし、細川屋敷にも兵を送る。ここで細川ガラシャの悲劇が起きた。ガラシャの夫の細川忠興はガラシャに執心で嫉妬深かった。ガラシャの美しさに見とれた植木職人を手打ちにしたとの逸話もある。忠興はガラシャに「人質にされるくらいならば自害しろ」と命じていた。しかし、単に夫の物として夫の言葉に従った訳ではない。忠興の真心に接したガラシャは忠興の妻として生きることを決意し、それが壮絶な最期につながった。細川家に殉じるという封建的な行動でありながら、愛を原理として主体的に意思決定する女性であった。
三成の挙兵は上杉征伐に従軍している諸大名のロジスティックスにも問題を生じさせた。西軍は大阪を掌握しており、九州の黒田長政や四国の藤堂高虎、加藤嘉明のように領地が大阪の先にある大名にとって敵地を通る輸送は絶望的である。それどころか、細川家は領地が西軍に攻め込まれた。このような状態ではロジスティックスを大名任せにできない。徳川家が差配せざるを得なくなった。
それでも豊臣家のように奉行衆が諸大名のリソースを一元管理して差配することは採り得ない。奉行衆に匹敵する事務処理能力を持った家臣団はいないし、そのような方法自体が朝鮮出兵への破綻から反感を抱かれている。そこで家康は斜め上の解決策を採る。
東海道の諸大名の領地を徳川家が預かることでロジスティックス問題を解決した。自分の領土のことであり、徳川家が一元的に管理できる。これは山内一豊が小山評定で、真っ先に自分の居城の掛川城を家康に提供すると発言したことで実現した。単なる心意気を示す精神論ではなく、ロジスティックス上の意味があることであった。
ロジスティックスを大名任せとする方針は江戸幕府の方針になった。例えば参勤交代がある。その代わり幕府は街道という各大名のロジスティックスのためのインフラを整備した。徳川家光と大名の関係は家康の頃以上に専制君主的なイメージがあるが、間接支配という点は本質的に共通する。豊臣政権と徳川幕府を比べると、前者の方が中央集権的で、後者の方が間接支配的である。それはロジスティクスの点から説明できる。