林田の歴史   作:林田力

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林田氏

播磨国揖保郡林田郷を根拠とした武士の一族が林田氏である。林田氏は清和源氏満季流である。清和源氏は清和天皇の経基王が源姓を賜ったことに始まる。父は清和天皇の子の貞純親王である。当時は平安時代中期で、律令制度が崩壊し、武士が台頭しつつあった。

 

経基は承平天慶の乱に鎮圧側として関わった。経基は承平九年(九三九年)に武蔵国に武蔵介として赴任した。朝廷の官位は藤原北家が独占していたことと、経基王の代までしか皇族でいられないため、現地で勢力を伸ばそうと考えた。

 

現地の郡司と対立し、現地の有力者の平将門の介入を招いた。将門は父親が早世したために所領を伯父の平国香に押さえられていたが、承平五年(九三五年)に平将門は国香を討ち取った。将門の介入に対して経基は朝廷に平将門が謀反を起こしたと告発した。しかし、この時は将門の主張が認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁された。

 

その後、将門は天慶二年(九三九年)に常陸国府を襲撃し、印綬を強奪した。腐敗した都の貴族社会に失望し、民衆のため坂東に独立国を築こうとした。当時の民衆は国司からの重税や労役に苦しめられていた。平将門は公を否定する。自分達が当たり前のものと思っていた支配体制として朝廷を否定した。

 

それまでも将門は一族や他の豪族と私闘を繰り返していたが、朝廷への明確な反乱は国府襲撃からである。瀬戸内海の藤原純友も、それに呼応した。朝廷への反乱は天慶年間からであるが、それ以前の争いも含めて承平天慶の乱と呼ぶ。

 

経基は将門が反乱を起こすと釈放され、過去の報告が功績と評価されて従五位下に叙せられた。経基は平将門の乱と藤原純友の乱の鎮圧のために出兵したが、どちらも現地に着くまでに激戦は終わり、それほど大きな活躍をしていない。

 

清和源氏と言えば源頼朝が有名であるが、こちらは頼信流(河内源氏)である。頼信は経基の孫である。父は経基の嫡男の満仲である。頼信の子が前九年の役を戦った頼義であり、その息子が八幡太郎義家になる。頼朝にとって武家の棟梁の地位は義家の子孫という点が重要であった。逆に頼義の上の系図への関心は乏しかった。逆に源実朝は「将門合戦絵」を描かせており、平将門を武家政権の祖として肯定的に位置付けている。

 

経基が清和源氏初代として政治的に重視されるようになったのは室町時代からである。源氏の嫡流は義家の子の義親の子孫である。これに対して足利氏は義親の弟の義国の子孫である。足利氏も義家の子孫であるが、鎌倉幕府のように義家を強調すると源氏の傍流であることも強調されてしまう。源氏の嫡流の鎌倉幕府と差別化するために経基、満仲・頼信を崇敬の対象とした。

 

これに対して林田氏は経基の三男の源満季の子孫である。その子孫が各地に土着して武士団となった。源満季は検非違使となり、安和二年(九六九年)の安和の変で藤原千晴・久頼の親子を捕らえた。藤原千晴は藤原秀郷の子であり、清和源氏と武家の勢力を競っていた。この安和の変で左大臣源高明が失脚した。藤原氏による他氏排斥事件の最後になる。安和の変以降、摂政・関白が常置され、摂関政治の時代になる。藤原氏の他氏排斥は終了したが、今度は藤原氏内部での権力争いが始まる。

 

源満季の家督は猶子の致公(むねきみ)が継いだ。致公は源高明の長男・忠賢の子である。安和の変で失脚させられた人物の子孫が失脚させた側の家督を継ぐことは皮肉である。源高明は醍醐天皇の第十皇子で、醍醐源氏の祖である。林田氏は清和源氏であるが、血統的には醍醐源氏になる。

 

源致公の子孫は致任、定俊、高屋為経と続く。高屋為経は近江国高屋荘を拠点とした。高屋荘は現在の近江八幡市にある。高屋氏は為貞、為房、実遠、定遠と続く。定遠の四男が岸本(平井)遠綱(重綱)である。岸本遠綱は林田氏の初代・林田肥後守泰範の祖父である。遠綱は建久二年の強訴に巻き込まれた人物である。これによって歴史上に名前を残すことになった。

 

遠綱は近江国愛知郡岸本(滋賀県東近江市岸本)を本拠とした武士であるが、近江国守護・佐々木定綱の被官であった。鎌倉時代後期から顕著になった守護の国人被官化、守護大名化の先駆となるものである。

 

佐々木の被官であったことが建久二年の強訴に連座した原因である。これは近江国守護・佐々木定綱と比叡山延暦寺の紛争である。佐々木氏の本拠の近江国蒲生郡佐々木荘の千僧供料の貢納を巡って起きた。

 

佐々木荘の千僧供村は千僧供養の料田であり、延暦寺に千僧供料を貢納していた。貞観17年(875年)頃に疫病が流行した際、千人の僧による病魔退散の祈祷供養が行われた。ここから「千僧供養村」の地名になった。その後、平氏が亡き平清盛の菩提のために佐々木庄内の千僧供村の徳分を千僧供料として延暦寺に寄進していた。今も滋賀県近江八幡市千僧供町という地名がある。

 

建久二年(一一九一年)は前年の水害による不作で千僧供料が未進になっていた。怒った延暦寺は配下を定綱邸に乱入させた。塀を壊し、家中の男女に乱暴を働き、侮辱した。これに対して次男の定重が応戦したが、その際に日吉社の神鏡を破損させた。この際に遠綱も応戦し、延暦寺から下手人の一人として告発された。

 

この紛争では佐々木氏側が処罰された。長男の広綱は隠岐国、三男の定高は土佐国、定綱は薩摩国へと配流となる。定重は対馬国への配流となったが、途中で斬首された。遠綱は禁獄を言い渡された。定綱は建久四年(一一九三年)三月に召還され、近江守護に復帰した。

 

この事件は一一八五年の守護・地頭の設置が武家勢力の伸張にとって重要なことであったことを物語る。源頼朝が征夷大将軍に任命される前年に「地頭の荘園侵略」と後に呼ばれる紛争が起きている。鎌倉幕府の成立を一一九二年の征夷大将軍任命ではなく、一一八五年とする所以である。また、鎌倉時代が武家支配の時代ではなく、旧勢力と幕府の多元的支配構造にあったことも示している。

 

岸本遠綱の子が御園範広である。この御園範広の次男が林田泰範である。これが林田氏の初代である。播磨国揖保郡林田郷を本拠としたため、林田氏を名乗る。泰範の長男が林田宗泰、次男が林田長泰。宗泰の長男が林田泰國である。

 

泰範は肥後守を任官し、肥後国に赴いた。一族の多くは九州に土着し、林田郷以上に栄えた。今でも林田は九州に多い名字である。家紋は三つ蛇の目、入り山形、右三つ巴などが多い。筑前国下座郡林田村という地名がある。

 

林田氏は特に肥前に進出した。肥前と肥後は地続きではないが、有明海を挟み、関係が深い。元々は火国(肥国)という一つの国で、それが分割された。特に肥前の島原半島は有明海を挟み、一衣帯水の関係にある。

 

江戸時代に島原・天草の乱が起きるが、肥前の島原と肥後の天草が一体性を持った地域だから起きたことである。また、島原大変肥後迷惑との言葉がある。島原の雲仙・普賢岳が噴火すると、有明海で火山性津波が起き、肥後にも被害が発生する。

 


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