林田の歴史   作:林田力

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関ヶ原の合戦

安濃津城を落とした秀元軍は決戦の地である関ヶ原に向かう。関ヶ原の合戦は大垣城に籠る石田三成らを野戦の名手の徳川家康が引きずり出した戦いである。西軍の本来の戦略は石田三成ら上方勢と上杉景勝で徳川家康の軍勢を挟撃することであった。

 

ところが、家康が上杉征伐を止めて西に反転しても、景勝は追撃しなかった。直江兼続は追撃を進言したが、景勝は「敵を背後から討つことは義に背く」と応じなかった。二人三脚で歩んできた主従の意見が対立した瞬間である。

 

ここには景勝の建前と本音がある。建前は、上杉家は家康に売られた喧嘩を買っただけというものである。会津を攻める気のない家康を追撃して奥州を混乱に陥れることは義の精神に反する。

 

本音は領土の平面的な拡大を狙い、家康の追撃よりも最上攻めを希望した。上杉家の領地は会津と庄内であったが、両者は最上家の領地で分断されていた。最上家を併呑すれば上杉領の飛び地を解消できる。本音には義という倫理性は後退するが、戦国武将らしさがある。現実に上杉家は家康を追撃せず、最上を攻めた。この結果、家康は上杉の追撃を恐れずに関ヶ原に専念できた。

 

秀元軍は九月七日に南宮山に着陣した。建部光重隊は南宮山の東端、名束正家隊の近くに布陣した。建部光重の陣に東軍の池田輝政から密使が来た。光重と輝政は縁戚関係にあった。光重の母親は本願寺僧侶・下間頼龍の娘で、池田輝政の養女であった。下間頼龍の妻は輝政の父の池田恒興の養女であった。

 

密使の話は「この戦は東軍が勝つから積極的に動くな。家康には輝政からとりなす」であった。建部家は元々、好んで西軍についたのではなく、上方にいたため、西軍につかざるを得なかった。また、西軍は指揮系統が一元化しておらず、東軍が勝つ可能性が高いためである。

 

九月一五日に天下分け目の関ヶ原の合戦になる。一五日の早朝は深い霧に包まれていた。東軍の松平忠吉と井伊直政の部隊が卯の刻(午前六時)過ぎに西軍の宇喜多軍に鉄砲を放った。これが開戦のきっかけになった。

 

建部光重隊の前には東軍の池田輝政隊が布陣した。これはやりにくい。建部光重隊は関ヶ原の合戦を傍観することになる。池田輝政隊も抑えとして布陣しており、積極的に攻める意思はなかった。

 

関ヶ原の合戦は、まるで新型コロナウイルス感染症(COVID-19; coronavirus disease 2019)パンデミックのNew Normalを反映したような戦いになった。西軍は軍議の参加率が低かった。外出自粛のためか、連絡が不安定なのか、それとも離反を決意したのか。

 

石田三成の家臣の八十島助左衛門はソーシャルディスタンスに配慮して島津義弘に馬上から伝令したが、逆に怒らせてしまい、心の距離をディスタンスさせてしまった。これに対して徳川家康のソーシャルディスタンスは成功した。小早川秀秋への寝返り催促は、感染対策に万全を期したためか声を出さず、距離のとれる鉄砲を発砲した。この結果、小早川ら西軍の武将がGo To東軍キャンペーンに参加した。

 

総大将の毛利輝元は外出自粛で大阪城から出てこない。毛利家先鋒の吉川広家は宅配業者に弁当を注文した。これによって南宮山の毛利秀元隊は吉川広家が動かなかったために参戦できなかった。結局、南宮山布陣組は戦争に参加することなく、勝敗が決すると無傷のまま戦場を離脱した。

 

小早川秀秋は松尾山に陣取ったまま動かなかった。家臣からどちらで参戦するか迫られたが、「どちらとも戦いたくない」と答えた。家康による鉄砲の一斉射撃後にようやく東軍で参戦した。ここから秀秋には卑怯な裏切り者や優柔不断の日和見というイメージがある。しかし、それは正しくない。朝鮮出兵では猛将と言える活躍をした。秀秋には元々、西軍に属する理由がなかった。石田三成には讒言によって領地を没収された恨みがあり、徳川家康には取りなしてもらった恩義がある。高台院も家康を支持していた。

 

それ以上に西軍とも東軍とも戦いたくないが本音になる。東西両軍とも昨日までは同じ豊臣政権の家臣だった。それが互いに戦わなければならないことが異常である。秀秋は戦国武将とは次の世代である。僅か七歳で丹波亀山城十万石の大名になっている。最初から豊臣政権の中の大名であった。豊臣政権の権威を当然として育った立場には敵味方に分かれて戦うことが信じられないことだった。秀秋は裏切りや日和見が東軍の武将からも軽蔑された。そこには世代ギャップもあっただろう。

 

三成は秀秋を味方にするために関白就任という餌を提示した。秀秋は関白に魅力を感じて、裏切を躊躇したとする説がある。しかし、秀秋にとって関白は必ずしも嬉しいものではなかった。秀秋と同じく秀吉の養子になった関白秀次は無残な最期になった。

 

秀秋は元々、秀吉の養子になったが、秀吉と淀の間に拾(後の秀頼)が生まれたことで事実上厄介払いされた過去がある。秀吉は当初、秀秋を毛利家の養子にしようとしたが、老獪な毛利輝元は上杉景勝に押し付けた。

 

秀秋は景勝の前で養子に出される悲しみを吐露した。一度養子に入った家から厄介払いのような形で養子に出される悲哀がにじみ出ている。その秀俊に景勝は自分も養子だったと語り、運命を受け入れるように諭した。普段は無口な景勝の説得は迫力があった。

 

景勝は実父・長尾政景を暗殺したかもしれない相手である上杉謙信の養子になった。謙信の養子になることには大きな葛藤があった筈である。この過去の重みがあるために「自分だって苦労した」という年寄り的な繰言とは一線を画す発言になった。

 

関ヶ原の合戦後の論功行賞は西軍に厳しいものになった。建部氏は所領を没収された。しかし、義父池田輝政の取り成しで許された。池田氏との関係が建部氏の力になった。ここから建部氏は池田氏の藩屏的な存在になる。

 

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