豊臣秀頼は兵糧や浪人を集めだした。兵糧米にするために大坂にあった徳川家や諸大名の蔵屋敷から蔵米を接収した。福島正則は、これを黙認した。
秀頼は政長にも命令の使者を出した。
「尼崎代官所の兵粮米を大坂城に運ぶように」
「お断りいたす。政長の家督相続は徳川様のお陰である。恩に報いないならば、我が身は煮えたぎる鍋の中に沈んでしまうだろう」
政長はきっぱりと断った。福島正則とは対照的であった。
豊臣方は大阪城で敵が来るのを待っているつもりはなかった。豊臣方の真木島昭光は一〇月二日に出兵し、幕府の堺奉行を攻めた。これに対して片桐且元が救援の兵を出す。茨木城から堺へは尼崎港から船で移動した。片桐勢は堺に上陸したものの、豊臣方に反撃された。家臣の多羅尾半左衛門が戦死し、残った軍は炎の中の大路を逃げ走った。堺の町は炎の絨毯を敷き詰めたようであった。家財の破片が炎の塊になって吹き上がる。
「何故、片桐且元を支援しなかったのか」
「尼崎の守りを優先しました」
この戦いで政長は片桐且元を支援しなかったことを家康から叱責されたが、尼崎の守りを優先したと弁明して許された。
尼崎を徳川方の政長が抑えていたことは重要である。大阪方では真田信繁が京都に攻める畿内制圧案を提言していた。大野治長の消極主義から信繁の案が却下され、籠城案になったという単純な話ではない。尼崎城のような大阪城周辺の要地を徳川方に抑えられている状況では畿内制圧案は現実的ではなかった。
大坂冬の陣が大阪城の包囲戦に移ると、政長は池田利隆の幕下で戦った。輝政の死後に姫路藩の家督を継いだ利隆は一門を大事にする人物であった。姫路藩は五二万石であったが、利隆の継承時に弟の忠継に播磨国西部の約一〇万石を譲った。
政長は池田勢の下で木津川口の戦いに参戦した。豊臣方は、大坂城から海に至る要衝である木津川口に砦を築いていた。その砦を陥落させた。
大坂冬の陣は和睦になる。しかし、和睦成立後すぐに徳川方は大砲の製造など戦争準備を進めていた。徳川と豊臣の間に火種がくすぶり続ける中、京で大火事が起こる。京都所司代の板倉勝重は慶長二〇年(一六一五年)三月、大阪方の浪人が乱暴・狼藉していると家康に報告した。
家康は豊臣家に、豊臣方に付いた大坂城の牢人達を放逐するか、秀頼の国替えを受け入れるか、どちらかを決断するよう迫る。淀の妹の常高院は両家の激突を食い止めようと駿府で必死の嘆願をするが、家康の心は変わらない。淀のもう一人の妹の江は淀に「江戸で一緒に暮らそう」との手紙を送るが、淀は「もはや引き返すことはできぬ」と拒絶した。
秀頼は再び兵糧米を集めだした。これに対して幕府は大阪への米の輸送を禁止した。米を換金したければ、尼崎を経由して運んだ先の京都や伏見で行うよう指示した。大阪の経済封鎖により、尼崎の経済的地位が高まった。
大坂夏の陣の火蓋が切られる。真田幸村の奮闘で一時は豊臣方が優勢となるが、それでも淀は秀頼の出馬を許さない。真田隊の決死の突撃に徳川本陣は総崩れになる。父を救うために駆け付けた秀忠は、幸村の壮絶な戦死を目の当たりにする。豊臣方壊滅の報を受け、淀は全ての終わりを悟る。大阪城は炎上し、豊臣家は滅亡した。金色の火柱が高く噴き上げ、炸裂の火花を散らした。
大坂の陣で明暗を分けた茶人に古田織部と織田有楽斎がいる。二人は逆の陣営に臨んだが、結末も逆であった。織部は徳川方であったが、豊臣方に通じているとされて切腹した。有楽斎は大阪城にいたが、冬の陣の後に大阪城を出て許された。織田有楽斎の方が古田織部以上に豊臣家に近い立場にあるのに有楽斎の方が生き残った。有楽斎は本能寺の変でも生き延びており、良くも悪くも世渡り上手という見方がある。しかし、単に織田の血筋だから許された面がある。