林田の歴史   作:林田力

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初代藩主

大坂の陣の論功行賞で、家康は政長の対応を評価し、元和元年(一六一五年)に摂津尼崎藩一万石を与えられ大名となった。石高が一挙に一四倍になった。この経緯から建部家は外様大名であるが、準譜代大名的な存在になり、寺社奉行や大番頭という幕府の要職に就任する藩主を輩出することになる。

 

元和三年(一六一七年)に姫路藩主・池田利隆が亡くなった。幕府は跡継ぎの池田光政が幼く、要衝姫路を任せられないという理由で、鳥取藩三二万石に転封された。これに伴い、摂津尼崎藩は播磨国揖保郡林田への転封が命じられた。

 

尼崎藩には譜代大名の近江膳所藩主・戸田氏鉄が入った。尼崎藩は周辺地域を合わせて五万石になった。幕府には要地である尼崎も譜代大名で抑えようという思惑があった。氏鉄は寛永一二年(一六三五年)に美濃国大垣藩一〇万石へ転封となった。氏鉄は地方知行制を廃止し、俸禄制度を採用した。

 

大垣は政長と薄い接点がある。大垣城は池田恒興が天正一一年(一五八三年)に城主になった。恒興は天正一二年(一五八四年)の長久手の戦いで戦死するため、僅か一年の城主であった。家督は輝政が継いだが、天正一三年(一五八五年)に岐阜城主に移った。輝政の養女が政長の母である。

 

播磨国揖保郡林田への転封によって林田藩一万石が成立した。播磨国にあるため、播州林田藩と称する。林田藩主となった政長は窪山城の跡地を藩庁とし、林田陣屋と称した。林田陣屋は二重堀で囲まれ、石垣も築いた。尼崎城築城時の経験を活かした。政長は灌漑用に西池を築造した。西池を禁漁区にし、鴨に餌を与え、保護したため、鴨池とも呼ばれている。

 

林田は因幡街道の宿場町としても栄えた。宿場町の中核施設に問屋場(といやば)がある。問屋場は人馬の継立の業務を行った。問屋役をはじめ、その助役の年寄、事務担当の帳付、その他、馬指や人馬指が詰めていた。帳付(ちょうづけ)は人足や馬の手配など宿場の運営上必要な事柄を帳簿に書き記す役職である。問屋場では幕府御用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務も行われた。これは継飛脚(つぎびきゃく)と言われる。大名行列の出迎えも行った。

 

林田藩の領地は三〇数村に分かれていた。政長は領地を四つの大庄屋組に分割し、豪農を各組に一名ずつ大庄屋として任命した。その一つが三木家である。三木家は英賀城主・三木氏の末裔と称している。羽柴秀吉の播磨侵攻で、天正八年(一五八〇年)に英賀城が落城した。各地に逃れた三木氏の一族が林田で帰農した。

 

大庄屋は農民ではあるが、名字帯刀を許し、特権を与えた。たとえ家老が来ても大庄屋の屋敷で勝手な真似はできなかった。新田開発によって林田藩は表高一万石以上の石高になった。林田藩では一万石の大名が五人存在する、藩主と大庄屋四人であるまでと言われた。豪農を世襲的に大庄屋として、委任行政事務を執行させる方式は他の小藩でも取り入れられた。

 

林田藩の江戸藩邸の上屋敷は外神田に置かれた。ここには上総久留里藩黒田上屋敷、下野黒羽藩大関家上屋敷、安房勝山藩酒井家上屋敷、播磨林田藩建部家上屋敷、信濃上田藩松平家上屋敷が並んでいた。そのために神田五軒町と呼ばれることになる。

 

林田藩の下屋敷は染井村にあった。ここには染井という名の泉があった。水はけが良かったことから植木屋が多く、桜の染井吉野(ソメイヨシノ)はここで品種改良されて生まれた。明治七年に都営霊園「染井霊園」になった。染井霊園は、岡倉天心、二葉亭四迷、高村光太郎・智恵子など多くの著名人が眠っている。

 

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