林田の歴史   作:林田力

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福島正則の改易

政長は元和四年(一六一八年)には明石城普請手伝を務めた。その前年の元和三年(一六一七年)に小笠原忠真が信濃松本藩主から明石藩主に移った。徳川秀忠は譜代大名・明石藩十万石の居城として明石城の築城を命令した。政長は普請奉行となり、築城費として銀一千貫が支給された。宮本武藏が城下町の町割図を作成した。

 

明石城は瀬戸内海を望む六甲山系の西端に位置する人丸山(人麿山)に築いた。本丸を中心に二の丸、東の丸(三の丸)、稲荷曲輪を設けた。本丸の四隅に三重櫓を築いた。天守台を造ったが、天守閣は築かなかった。政長は天守閣が無用の長物になることを見越していたためである。城を守るならば外郭の櫓を強化すべきである。天守閣まで攻め込まれる事態になったら、末期的状態である。これは大坂夏の陣で丸裸になった大阪城の落城から明らかである。

 

政長は元和五年(一六一九年)、福島正則改易による広島城受け取りを命じられた。正則は台風による水害で破壊された広島城を修繕したが、それが無断修繕であり、武家諸法度違反とされた。武家諸法度は城郭の改修には事前の許可を必要としていた。正則は二ヶ月前から届けを出していたが、幕府からは正式な許可が出ていなかった。正則は、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけと抗弁した。

 

広島城は毛利家の居城であったが、関ヶ原の合戦の論功行賞で正則が安芸国と備後国の太守として入封した。広島城は太田川の河口に広がるデルタ(三角州)の上に築かれている。堀や川で瀬戸内海とつながっていた。正則は内堀・中堀・外堀という三重の堀に囲まれた広大な城郭に改修した。家康は慶長一四年(一六〇九年)に広島城が過剰と指摘する。正則は西の毛利の抑えと正当化した。

 

福島正則の改易は有力外様大名を潰したい江戸幕府の難癖という面があった。正則がキリシタンに融和的であることも一因になった。慶長一〇年(一六〇五年)には広島で約百名がキリスト教の洗礼を受けた。浅野氏になってからの広島藩になるが、寛永一一年(一六三四年)二月一日に林田太兵衛がキリスト教徒として処刑された。林田というキリスト教徒では慶長一八年(一六一三年)に有馬家家臣のレオ林田助右衛門が棄教を拒否して火刑にされた。

 

江戸幕府内の権力闘争も影響している。正則が届け出た相手は、本多正純であった。正則は正純の反応から正式な許可が出なくても問題ないと判断したが、正純は権力を失いつつあった。正純を信頼し過ぎた失敗であった。後に正純も宇都宮城の無断修築などを理由に改易されたことは皮肉である。

 

徳川秀忠は広島城の本丸以外(二の丸、三の丸、惣構え)を全て破却することで、正則を赦免する方針とした。これを受けて正則は、本丸の壁を取り、土や石を取り除いた。これに対して秀忠は破却が不十分として、正則を改易した。改易時に正則は江戸に留め置かれた。これは正則が領地で家臣と反乱を起こすことを防ぐためであった。

 

政長は幕府から広島城受け取りを命じられた。この時は正則の叔父の福島丹波守治重が城代に任じられていた。治重は家中をまとめて籠城の準備を行っていた。政長は治重に城明け渡しを申し入れたが、治重に突っぱねられた。

「この城は主君より預けられた城であり、主君の墨付が無ければ明け渡すことはできない」

 

これを伝え聞いた正則は感激して号泣し、間違いが起こらぬようにと急いで墨付を書いて使者に渡した。これによって広島城は平和裏に明け渡された。この時の作法は大名改易時の城受け渡しの前例となった。福島家の家臣達は城内をくまなく清掃し、ちり一つ、ほこり一つ残さなかった。城の調度をそのままにし、目録も書き残した。

 

福島正則改易後の安芸と備後には紀伊和歌山城主の浅野長晟が転封した。長晟と徳川家康の娘振姫との婚姻関係が重視された。

 

政長は池田騒動にも関わった。池田騒動は播磨山崎藩の御家騒動である。藩主の池田輝澄池田輝政の四男。兄弟の死により所領が急激に拡大したが、それによって新たに召抱えた家臣団が古参の家臣団と対立するようになった。輝澄は江戸住まいで、国元は古参の上席家老・伊木伊織が預かっていた。

 

池田騒動の発端は寛永一五年(一六三八年)の小頭と足軽が金銭問題の対立である。これが古参の伊木と新参の家老・小河四郎右衛門の対立にエスカレーションした。輝澄が新参の家老を重用し、古参の家老が反発する図式である。輝澄の側近の菅友伯が主君輝澄に事実を伝えず、偽書まで作成し小河家老に加担したことが騒ぎを拡大させた。

 

政長は調停を試みたが、失敗する。元のように伊木を上席家老とするように申し入れたが、輝澄は聞き入れなかった。そのために伊木派の物頭衆らの藩士が多数脱藩した。幕府の裁定により伊木伊織以下二十名が切腹、輝澄は寛永一七年(一六四〇年)に家中不取締りを理由に改易された。政長が城受け取りを務めた。

 

政長は寛文元年(一六六一年)一二月二八日に丹波守に叙任する。寛文七年(一六六七年)八月二八日、家督を三男の建部政明に譲って隠居した。寛文一二年(一六七二年)四月一八日に没した。

 

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