林田の歴史   作:林田力

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天明の打ちこわし

七代藩主・建部政賢は建部政民の四男。天明の大飢饉に見舞われる。天明三年(一七八三年)七月六日に浅間山が噴火した。浅間山は天空に向かって火炎や噴煙をぐんぐん吐き出し、各地に火山灰を降らせた。大気中に噴き上げられた大量の微粒子は冷害の原因の一つとなった。この影響は日本だけでなく、北半球に広がり、一七八九年のフランス革命にも影響を及ぼした。

 

天明の大飢饉は異常気象で米が不作になったことを直接の原因とするが、人災でもある。幕府や各藩による過剰な新田開発は洪水や土砂崩れを頻発させ、農業生産性を逆に落とした。

 

より目に見える問題は大商人の買い占めや売り惜しみである。米価が異常に高騰し、続いて味噌や乾物も争って買い占められた。庶民の生活は苦しくなり、満足に食事をすることもできなくなった。

 

「米の値段が途方もなく上がって、おいら達は満足におまんまも食えない」

「仕入れ値が高いから仕方ないのです。お気に召さなければどうぞ他所でお買い求めください」

大商人の手代は威張って説明する。他所と言われても、消費者には選択肢がない。営業の自由がない社会であり、新規参入業者が登場する訳ではない。大商人への怒りが打ちこわしに発展する。

 

天明七年(一七八七年)五月に大坂と江戸で打ちこわしが発生した。それが枯野を焼く炎のように全国に波及した。林田藩でも大規模な打ちこわしが起きた。髪結や左官、棒手振(ぼてふり)など店借の下層民が主体になった。

 

棒手振は担ぎ売りの商人である。店を構えるのではなく、家の近くまで販売に来る。良いものを安く素早く販売する消費者の味方である。江戸時代は産業革命こそ起きていないものの、商品経済は浸透していた。これが近代に資本主義が発達できた要因である。

 

最初は米屋が襲われ、酒屋や質屋などにも広がった。店舗を破壊し商売道具を壊し、金銭や商品、帳面などを川に投棄した。取り残される不安や動きに遅れまいとする焦りを吞み込み、途方もない暴動になった。林田藩は独力では対処できず、姫路藩と龍野藩の力を借りてようやく鎮圧した。

 

林田藩を最も悩ませた民衆の抵抗は百姓一揆よりも、無宿の動きであった。百姓一揆は村や家に所属し、領主の御仁政にあずかるべき正統性のある運動であった。言わば既得権擁護の運動である。藩主が悪政をしなければ百姓一揆は起きない。

 

これに対して無宿は封建体制そのものを動揺させ、変革させる力を持つ。

「困っているおいら達に何もしてくれないお上なんざ、いらない」

農村が立ちいかなくなり、流人化して無宿になる農民が多かった。封建的束縛を逃れるために、あえて無宿を選択する人々も出てきた。身分秩序が厳格と思われがちな江戸時代であるが、実はもっと流動的であった。無宿の世界はカオスであった。少数の支配階級と圧倒的多数の被支配階級という戦後日本で流布した通俗的マルクス主義的な世界観は現実社会の多様性を説明できない。

 

幕末には世直し一揆が頻発する。これは既得権擁護型の従来の一揆と比べて、世直しを志向する点に新しさがあった。そこには無宿など異端の人々の活躍があった。勤王の志士の活躍がなくても幕藩体制は行き詰まっていたことが理解できる。むしろ世直しの動きが薩摩藩や長州藩の権力闘争に取って代わられたことが近代日本の不幸だろう。

 

幕末の「ええじゃないか」では空から札が降る現象が起きたと言われている。札をばら撒いて煽った倒幕勢力がいただろう。神社の札をばらまいたことは神社信仰を強め、幕府が保護していた仏教勢力を殺ぐ目的もあった。廃仏毀釈に通じる動きである。

 

政賢は寛政六年(一七九四年)に藩校の敬業館を創建した。「敬業」は『礼記』の「敬業楽群」に由来する。講堂、聖廟、練武場、文庫などがあった。士族の子弟は八歳になると入学し、一六歳で卒業した。庶民でも志願者は入学を許され、授業は身分の区別なく行われていた。「士庶共学」は敬業館の特徴であった。

 

敬業館の講堂は一八七一年(明治四年)に敬業小学校となる。一九〇二年(明治三五年)に敬業尋常小学校が林田尋常小学校に改称される。この年が林田小学校の創立年となる。一九四一年(昭和一六年)に国民学校令施行により、林田村立林田国民学校と改称された。一九四七年(昭和二二年)に学校教育法施行により、林田村立林田小学校と改称された。

 

八代藩主・建部政醇は、政賢の四男である。文化九年(一八一二年)一一月二二日に藩主になる。文政二年(一八一九年)一一月に藩札として銀札と銭匁札の発行を始めた。銭匁札の額面は銭十匁、五匁、一匁、五分、三分、二分、五厘であった。兌換紙幣の発行は問題なかったが、不換紙幣の発行は失敗であった。一度発行を許すと、倍にも二倍にも増えていった。貨幣価値が低下し、物資が不足した。物の値段が毎日のように上がり、店を閉める小商人が続出した。

 

江戸時代が進むと幕府も藩も運営が厳しくなった。武士の収入は年貢米が基本であるが、商品経済の進展により、支出が増える。このため、幕政改革でも藩政改革でも質素倹約が改革の一丁目一番地になることは当然である。武士が陣屋から退勤する途中で、酒亭や茶屋に立ち寄るのは品が悪いと禁止することもなされた。飲みニケーションの昭和の日本型組織よりも先進的である。

 

質素倹約を時代に逆行する消極的政策と低く評価する向きもある。しかし、質素倹約には身分や格式で贅沢をする既得権を否定する積極面があった。藩主自ら木綿の服を着るということに意味がある。現代に置き換えれば重役の社用車廃止など健全なコストカットに繋がる。

 

勿論、自分は贅沢して人々に規制を押し付けるだけの公務員的な質素倹約は有害である。現代でも緊急事態宣言やまん延防止重点措置で飲食店を規制しながら、公務員は宴会している。兵庫県警神戸西警察署では居酒屋で歓迎会を開催し、新型コロナウイルス感染症の集団感染が起きた。警視庁尾久警察署では署長は十数人の懇親会参加後に新型コロナウイルスに感染した。

 

埼玉県警では上尾警察署地域課の二〇代の男性巡査が同僚六人と会食後に新型コロナウイルスに感染した。埼玉県警大宮署のパワハラ警察官は「まん延防止等重点措置」下で会合自粛が求められた2021年5月12日、さいたま市大宮区の居酒屋に部下の男性警察官を呼び出し、暴行した容疑で書類送検された。

 

質素倹約を掲げる藩政改革が抵抗に遭うことがある。抵抗の理由は名門意識である。当家は伝統ある名門名家であり、名門には格式が必要という論理である。例えば米沢藩上杉家は一五万石であるが、上杉景勝時代の一二〇万石の大藩意識が抜けきれなかった。

 

これも二一世紀の日本に引き寄せることができる。今や日本は世界第二の経済大国でも、アジア唯一の先進国でも、世界唯一の有色人種のサミット参加国でもない。それなのに未だに昭和の感覚を持ち続ける人々も多い。その昭和の感覚がダウンサイジングの障害になっている。

 

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