九代藩主・建部政和は建部政醇の子。嘉永四年(一八五一年)に河野鉄兜(こうのてっとう)を招聘した。鉄兜は文政八年(一八二五年)に医者の子として生まれた。五歳から漢籍を学ぶ。一五歳で一夜にして詩百篇を作り、神童と呼ばれた。本屋では立ち読みで内容を覚えてしまい、本を買わなかった。そのため、本屋の店主は鉄兜が来ると新刊書を隠した。
その後、上洛して梁川星巌について詩を学ぶ。松本奎堂や頼三樹三郎らの勤王の志士と交わった。本草学、仏教、絵画、和歌にも通じ、博学多能で知られた。鉄兜の名前は豊臣秀吉の播磨攻めで各地に散らばった河野氏の正統であることを示すため、鉄製の兜をその証として継承していたことから取られたものである。
林田藩の招聘に際して鉄兜は「西国の高名な文人達と交流したいので、旅行のための休暇をいただきたい」との条件を付けた。政和は承諾して旅行費用も出した。
林田に居を移した鉄兜は嘉永五年(一八五二年)、二八歳で林田藩に仕官した。藩校致道館の教授になり、尊王攘夷を説いた。全国から多くの志士・文人・学者が河野に会うために林田を訪れた。
政和は安政三年(一八五七年)、大番頭となり二条城を警備した。文久三年(一八六三年)に詰めていた二条城で亡くなった。
十代藩主・建部政世は建部政和の長男として誕生した。祖父の建部政醇の三男とされ、兄・政和(実は父)の養嗣子となった。文久三年(一八六三年)四月一八日に藩主になる。
徳川慶喜は慶応三年(一八六七年)一〇月一四日に大政奉還を奏上した。これは薩摩藩や長州藩の倒幕の動きを止める策であった。慶喜は天皇の下で新しい政府の首班となることで実を取るつもりであった。もともと慶喜の権力の根拠は天皇から命じられた禁裏御守衛総督であった。征夷大将軍の地位への執着は少ない。
しかし、薩摩藩や長州藩は逆襲の機会を狙っていた。一二月九日に王政復古派公卿が集まり、王政復古の大号令が出される。その日の夜に小御所会議が行われ、徳川慶喜の官位(内大臣)辞退と徳川領の削封(辞官納地)が決定された。王政復古のクーデターである。政世は一二月二〇日に上洛し、新政府に恭順した。ここには林田藩の宗家と言うべき備前岡山藩池田氏との連携がある。
慶喜は京都を離れ、大阪城に入った。大坂を抑えていれば京都の新政府は立ちいかなくなるとの思惑があった。それは困る薩摩藩は江戸に浪人を放って放火や押し込み、殺人など暴挙の限りを尽くして幕府を挑発した。この結果、慶応四年(一八六八年)一月三日に鳥羽伏見の戦いが勃発する。戊辰戦争の初戦である。兵数は旧幕府軍が優勢であった。しかし、官軍に錦の御旗がひるがえると浮足立って敗走した。
戊辰戦争は不思議な戦争である。旧幕府軍の敗因は色々と分析できる。指揮命令が統一されておらず、旧式の装備が多かったなどである。とはいえ榎本艦隊や伝習隊、庄内藩のように装備では勝っている面もあった。大きな敗因として旧幕府軍は殺すか殺されるかの戦争をする感覚よりも、朝廷に嘆願するという意識が強かったことである。この敗因は戊辰戦争全体につながる。後に五稜郭を占領した榎本武揚でさえ右大臣岩倉具視に宛てて、旧幕臣による蝦夷地開拓を歎願していた。承久の乱のように朝廷と真っ向から対決して屈服させるという武士の意識はなくなったのだろうか。
鳥羽伏見の戦いでは津藩の土壇場の裏切りが悪名高い。津藩の初代藩主の藤堂高虎は何度も主君を変えた人物として知られている。土壇場の裏切りは、さもありなんという印象を与えた。しかし、高虎には先物買いの一途さがあった。土壇場の裏切りは高虎らしくないと言えるだろう。
会津藩の存在が大きいため、藩祖の精神が幕末まで脈々と継承されるものというイメージがある。しかし、会津藩の方が例外的ではないか。幕末の藩の行動が藩祖と体質と異なることは驚くことではない。幕末の徳川幕府の行動も徳川家康の粘りとは懸け離れている。高虎は所属組織への滅私奉公が流行らなくなった二一世紀に評価されて良い人物だろう。
林田藩は新政府から一月一五日、華頂宮博経親王の警備を命じられた。博経親王は伏見宮邦家親王第十二王子であるが、万延元年(一八六〇年)八月に孝明天皇の猶子となり、同年一一月に親王宣下を受けた。
新政府は鳥羽伏見の戦いを幕府軍として戦った姫路藩を朝敵とし、林田藩にも姫路城攻略を命じた。姫路城は元々、林田藩の宗家ともいうべき池田家の城であった。その城を攻撃する立場になるとは林田藩にとって不思議な感がある。姫路城接収の主力は備前藩池田家である。池田家の幕下で戦うという建部家の伝統は幕末まで貫徹された。
姫路藩主の酒井忠惇は老中を務め、将軍徳川慶喜に従って大阪城に入った。姫路藩は井伊直弼の暗殺で凋落した彦根藩に代わって幕府を支えていた。慶喜は鳥羽伏見の敗戦後の一月六日に大阪城を退去し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。そこに酒井忠惇も同行した。藩主不在の姫路藩では家臣によって一月一七日に無血開城された。
明治政府は明治元年(一八六八年)に銀遣いを禁止する。林田藩では両・分・朱を額面とした金札を発行した。
林田藩は一八七一年(明治四年)四月の廃藩置県で林田県となる。廃藩置県に際しては想定された武力抵抗は生じなかった。既に江戸時代から藩の中には経営がたちいかなくなり、幕府に領地返上を願い出ることを検討するところも存在していた。破産を回避しようと借金を続ける経営者や一度立てた計画に固執する公務員より健全である。廃藩置県が比較的すんなり行われたが、藩運営の行き詰まりが背景にあった。
林田県は藩を県に置き換えただけであった。この時点で三府三〇二県もあった。林田県は一一月二日に姫路県に統合された。姫路県は播磨国一円を領域とした。一一月九日に播磨県に改称される。一八七六年(明治九年)に兵庫県に合併し、兵庫県揖保郡林田村となる。
林田村と伊勢村は一九五五年(昭和三〇年)三月二五日に合併して林田町になる。林田町は一九六七年(昭和四二年)三月五日に姫路市に編入されて自治体としては消滅した。その後も姫路市林田町として地名は残っている。