幕末には林田藩から勤皇の志士として大高又次郎と大高忠兵衛の兄弟が登場した。大高家は「大高製の皮具足」と呼ばれる皮具足の製法で有名であった。赤穂四十七士の一人・大高忠雄の子孫を称した。
大高又次郎は文政四年(一八二一年)に甲冑職人・大高六八郎義郷の子として生まれる。忠兵衛は文政六年(一八二三年)に林田藩郷士・常城広介の次男として生まれる。一四歳の時に大高義郷の養子となる。兄弟は甲州流軍学や西洋砲術、勤皇思想を学び、各地の志士達と交流を深めた。
忠兵衛は嘉永元年(一八四八年)に上洛。衣棚押小路入下妙覚寺町で甲冑商「大鷹屋」を営みつつ、政治活動に奔走する。又次郎は安政五年(一八五八年)に脱藩。梅田雲浜宅に住み、梅田雲浜や頼三樹三郎らの志士と交流した。この年に井伊直弼が大老に就任した。
安政六年に萩へ行き、吉田松陰と会談した。安政の大獄で梅田が捕らえられ、それを追って江戸に潜伏した。梅田が処刑され、自らにも幕府の追捕が迫ったため、浅草寺で坊主に変装して江戸を脱出し、京都の長州藩邸に逃げ込む。
その後、大高兄弟は薪炭商・桝屋の店の別棟に移り、勤皇の志士の武具・兵器の調達を担当した。桝屋は桝屋喜右衛門が経営する諸藩御用達の店で、京都河原町四条上ル東にあった。喜右衛門の本名は古高俊太郎で、勤皇の志士であった。桝屋は志士の拠点となっていた。
ところが、桝屋に元治元年(一八六四年)六月五日早朝、新撰組が踏み込み、俊太郎を逮捕監禁してしまう。新選組は武器弾薬や諸藩浪士の書簡を押収した。俊太郎は壬生屯所に連行され、蔵で土方歳三らによって厳しい取調べを受けた。逆さ吊りにされ、足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられた。
その結果、俊太郎は京都大火の陰謀を自白したとされる。強風の日を選び、御所に火を放ち、京都守護職・松平容保を殺害し、中川宮を幽閉し、天皇を長州へ連れ去る計画である。しかし、これは拷問により強要された自白であり、自白の任意性はない。新選組による捏造であり、その後の実力行使を正当化するための冤罪であった。
大高兄弟は新選組が踏み込んだ際に不在であり、難を逃れた。新撰組が俊太郎を逮捕したことは志士達のネットワークを伝播し、その日の夜に奪還の相談を池田屋で行うことになった。そこを新撰組の近藤勇らが襲撃した。新撰組は志士達が京都大火計画を抱いているとするが、これは古高俊太郎が自白したとするが、拷問による自白強要である。
池田屋で又次郎は奮戦むなしく新選組によって討たれた。忠兵衛は一旦脱出したが、捕縛された。事件後の六月七日、大高家は新選組の家宅捜索を受けた。妻とみ、子ども六人、門弟二人らは捕らえられたが、長男の幸一郎は鳥取へ逃げ延びた。忠兵衛は七月四日に六角牢で獄死した。環境の悪い牢獄では汗が額からどっと吹き出し、吐き気が全身を揺さぶった。胃を落ち着けるものが欲しかった。熱いお茶。それすら飲めずに亡くなった。