林田の歴史   作:林田力

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林田隠岐守

林田隠岐守は九州に土着した林田氏の一族の一人であり、肥前国高来郡(たかきぐん)千々石(ちぢわ)の領主である。千々石は島原半島の北西の付け根に位置し、橘湾に面している。

 

鎌倉時代末期、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒に立ち上がった。後醍醐天皇は元弘三年/正慶二年(一三三三年)閏二月、配流先の隠岐島を脱出し、伯耆国の船上山に入った。そこから各地に倒幕の綸旨を発した。

 

九州の武士団にも倒幕への参加を求める綸旨が送られてきた。九州の武士の間で水面下のやり取りがなされた。肥後国の菊池武時は即時挙兵を主張した。九州にも鎌倉幕府に不満を持つ武士は少なくなかった。鎌倉幕府は博多に出先機関として鎮西探題を置いた。独立心ある領主層にとって目障りであった。

 

しかし、この時点での挙兵は消極意見が強かった。鎌倉幕府には不満があるが、それは在地領主として、上から規制する存在に対する不満である。それは後醍醐天皇の綸旨で動くことも同じである。結局、挙兵賛成は菊池武時のみで、三月一三日に単独挙兵した。

 

武時には挙兵という既成事実を作れば他の武将もついてくるという計算があったが、誰も動かなかった。林田隠岐守も当初幼少ということを名目に動かなかった。林田氏は伝統的に中央の政争から距離を置いている。積極的に参戦する理由はなかった。

 

菊池武時は博多の鎮西探題を攻撃したが、鎮西探題・北条英時の軍勢に敗北し、全滅してしまう。討ち取られた二百あまりの首は犬射馬場にさらされた。筑前国守護の少弐貞経も鎮西探題の軍勢として戦った。これは筑前国守護の立場上当たり前のことであるが、菊池武時は貞経にも挙兵を呼びかけであった。菊池氏の主観では貞経は裏切りであり、遺恨を遺すことになった。

 

単独挙兵も失策ではないが、それならば楠木正成の千早城のように長期防衛戦をすべきであった。無謀な戦いに自ら進んで全滅する傾向は、南朝の衰退要因になる。戦前の皇国史観は、そこをきちんと分析せずに美化したために玉砕を素晴らしいことのように喧伝することになる。

 

突撃型は一見すると勇ましいが、あっさり全滅しがちである。楠木正成も赤坂城や千早城の籠城戦は強かったが、湊川の戦いでは敗れた。正成は湊川の戦いの前に京を捨てて敵を誘い込む戦術を提案したが、却下された。第二次世界大戦の日本軍も万歳突撃は笑われたが、硫黄島の戦いはしぶとかった。

 

畿内では足利高氏(後の尊氏)が鎌倉幕府を裏切り、赤松円心や千種忠顕らと共に六波羅探題を攻めた。高氏は源氏の名門である。鎌倉幕府の御家人中の御家人といっていい存在である。高氏の離反はインパクトが大きい。六波羅探題は五月七日に攻略された。これが九州に伝わると情勢が変わった。

「大きな騒ぎになる」

林田隠岐守は思った。現実に少弐貞経や大友貞宗、島津貞久らの武将が幕府から離反して鎮西探題を攻撃した。林田隠岐守も攻撃に加わった。これが林田隠岐守の初陣になった。家臣からは初陣を心配する声が出た。林田隠岐守は答えた。

「誰にだって初めてはある。そうだろう」

 

五月二五日に鎮西探題は総攻撃を受け、探題の北条英時は一族二四〇名と共に自害した。鎌倉幕府が五月二二日に滅亡した三日後であった。鎌倉は新田義貞らに攻められ、得宗の北条高時ら北条一門は自害した。これが林田隠岐守の初めての戦いになった。朝からずっと緊張の連続であった。

 

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