忠順は文久二年(一八六二年)に勘定奉行に就任する。この時に上野介の官位を賜る。上野介は忠臣蔵の吉良上野介が悪名高い。縁起が悪いという声があったが、例え惨殺されようとも国のために命を失うは本懐と受け入れた。義父の建部政宇は内匠頭である。林田藩の三代藩主・建部政宇も内匠頭であった。政宇は浅野内匠頭と同時代人であった。
慶応四年(一八六八年)に戊辰戦争が始まり、徳川慶喜が江戸に逃げ戻ってきた。忠順は慶喜の行動に驚き呆れた。鳥羽伏見の戦いで敗北しても大坂を抑えていれば薩摩藩や長州藩と京都の連絡を絶ち、京都の新政府を孤立させることができる。それをむざむざ放棄して敵に引き渡したことになる。
それでも忠順は幕府の最善手を考えた。箱根で薩長軍を迎撃することを主張した。ところが、一月十五日に忠順が登城したところ、御役御免を申し渡された。慶喜は恭順一直線であったために主戦派の忠順が邪魔であった。
忠順と慶喜の関係は元々、微妙であった。慶喜は孝明天皇の信任を基礎として京都で幕府からも半独立の権力を持っていた。一橋と会津と桑名の一会桑政権と呼ぶ。忠順は慶喜を江戸に戻し、幕府兵力が直接京都を抑えるようにすることを画策していた。
忠順が徹底抗戦を主張し、慶喜が恭順であったことには、忠順が知行地を持つ旗本であり、慶喜が領地をもたない御三卿・一橋家出身であったことも影響している。一橋家は十万石の石高でありながら、領地を支配した訳ではなかった。
自分の領地を持ち、それを守ろうとすることが武士の原点である。領地のために懸命になるから一所懸命である。領地の御恩があるから主君に奉公する。これが承久の乱で朝廷を打ち破った鎌倉武士の原動力であった。
ところが、江戸時代の武士は蔵米取りが普及する。蔵米取りの武士は報酬として米を受け取るだけである。石高は領地を持つ武士の基準でもあるが、領地は各々個性があって同じものではない。ここでは石高は重要な指標になるが、あくまで指標である。これに対して蔵米取りで何百石取りの家ということは、年収何百万円という肩書をぶら下げて生活するようなものである。これは異常な世界である。
蔵米取りは武士の変質になる。ところが、戊辰戦争で幕府が腰砕けになったことには尊王思想が普及したというだけでなく、領地を持たなくなったことも影響しているだろう。
慶喜から罷免された忠順は、小栗家の知行地の上野国群馬郡権田村に引っ込むことにする。主戦派幕臣が会津藩など東北の藩と合流し、抵抗する動きがあったが、忠順は同調しなかった。あくまで忠順は徳川幕府中心主義であった。朝廷や薩摩藩や長州藩が幕政を左右することを好まなかったが、会津藩などの佐幕藩が幕政を左右することも好まなかった。
忠順は権田村で水路を整備したり、塾を開いたりしたりするなど静かな生活を送っていた。ところが、明治政府軍に捕縛され、取り調べもなされぬまま、慶応四年閏四月六日に家臣三名とともに斬首された。冤罪である。
翌七日に養子又一も高崎城内で家臣三名とともに斬首された。明治政府軍は小栗家の家財を全て没収し、高崎・嶋屋で競売に付して売上げを軍資金として持ち去った。明治政府の強盗殺人である。明治政府にとって忠順が都合の悪い人物であったかが分かる。