播州素麺は林田を含む播州平野の古くからの特産品である。兵庫県揖保郡太子町の斑鳩寺の寺院日記「鵤庄引付」の応永二五年(一四一八年)九月一五日の条にサウメンが登場する。神社の社殿造営の祝言にサウメンを使ったと記録する。応永二五年は室町時代である。征夷大将軍の足利義持が異母弟の足利義嗣を殺害した年である。
素麺の起源は中国の菓子の索餅(さくへい)である。日本には奈良時代に遣唐使が伝えた。もち米をこねて細く延ばし、縄のようにねじり合わせた。索は太い縄、餅は小麦粉と米粉を混ぜ合わせたものを意味する。鎌倉時代になると麺を延ばす索麺が登場する。室町時代になると細長い麺になり、素麺と呼ばれるようになった。素麺は公家言葉では「ぞろぞろ」と呼ばれた。「ずずっ」と食べる音が反映している。
素麺は夏の涼味である。暑い時期には食欲があまりなくてもスルスルと食べられる麺類が合っている。人間が生きていくためには食べなければならない。しかし、あまりに辛く苦しい目に遭うと、食べる気持ちも起きなくなる。そのような状態でも素麺は食べられる。食欲がない人でも食べられる。
播州素麺は播州平野で採れる小麦や赤穂の塩を原材料とする手延べ素麺である。コシを出すために、熟成を重ねながら麺を徐々に引き延ばして細くしていく。麺がツルツルしていて、喉越しが良い。定番はネギとシイタケで食べることである。婚礼などの祝い事には鯛の塩焼きを盛り付けた鯛素麺が食される。
播州素麺は江戸時代を通じて播州平野全体で盛んになった。林田藩は需要と供給の両面から播州素麺を奨励した。これまで素麺は寺院や宮中の宴会などで食された高級品であった。羽柴秀吉が姫路城を築いた時に祝賀として家臣達に素麺を振舞ったこともある。素麺の高級品イメージは二一世紀にも贈答品として残っている。その素麺を庶民が食べられるものにした。
供給面では素麺の生産を農家の副業として奨励した。素麺は麺を延ばし、ねかし(熟成)を繰り返すことで作られる。天候や温度、湿度の違いによって変化する生地の具合に注意を払いながら生産した。赤穂の塩の搬入や製造した素麺の搬出には揖保川水系の舟運を利用した。
播州素麺の人気が高まると、粗製乱造により産地の信用を落とす生産者も現れた。そのために林田藩と龍野藩、新宮藩の素麺屋仲間は慶応元年(一八六五年)に「素麺屋仲間取締方申合文書」を交わし、品質等について取り決めた。違反者には二両の罰金を科すとした。
新宮藩とあるが、この時代は三千石の旗本寄合である。新宮藩は1万石の藩であったが、寛文一〇年(1670年)に藩主が早世し、末期養子が認められずに断絶した。主家の備前岡山藩主・池田光政らの運動で藩主の弟が新宮に三千石の旗本となった。
林田藩の初代藩主の建部政長の母親は、本願寺僧侶・下間頼龍の娘である。新宮藩の初代藩主の池田重利は下間頼龍の息子である。林田藩と新宮藩は備前岡山藩・池田家を主家とする点でも共通する。建部政長の母親は池田輝政の養女である。下間頼龍の妻は池田恒興の養女である。これに対して龍野藩は老中を出す譜代大名であった。このような藩の事情を超えて、「素麺屋仲間取締方申合文書」が出たことには大きな意義がある。
「素麺屋仲間取締方申合文書」の後も、播州素麺は生産者組合の力が強く、それによって品質が守られている。明治時代になると「揖保乃糸」を商標登録し、「揖保乃糸」のブランドで販売するようになった。製造工程で上下に伸ばして乾燥される麺は純白の絹糸のようである。
素麺の日本三大産地は三輪、島原、小豆島である。四大産地となると三輪、島原、小豆島、播州になる。不思議な偶然であるが、林田隠岐守が活躍した九州の島原半島も素麺の産地である。
素麺と冷や麦とうどんの違いは太さである。素麺は長径1.3mm未満、冷や麦は長径1.3mm以上1.7mm未満、うどんは長径1.7mm以上のものになる。素麺は細いために麺つゆがよく絡み、独特な食感になる。プチプチッと弾けるような強い歯切れがある。
素麺の他の麺類と比べた弱点は、スープやソースを変えて様々なバリエーションを楽しめず、単調になることである。トマトソースで食べるトマトそうめんやイタリアン素麺、フルーツを載せた素麺、コンソメスープ素麺など様々なバリエーションを生み出している。