四国にも林田がある。讃岐国阿野郡林田郷である。南西を綾川、北西を瀬戸内海に面している。古くから塩田が発達していた。讃岐国は縦に十一の郡に分けられている。西から刈田、三野、多度、那珂、宇陀、阿野、香川、山田、三木、寒川、大内郡である。
阿野(あや)郡は綾絹の産地であり、渡来人の漢部(あやべ)が織物に携わっていたことが名前の由来である。山本郷、松山郷、林田郷、鴨部郷、氏部郷、甲知郷、新居郷、羽床郷、山田郷から構成される。阿野郡には讃岐国府があった。
林田郷は保元の乱で敗れて讃岐国に流罪になった崇徳院が三年間過ごした場所である。保元の乱は平安時代末の皇室や摂関家の争いである。保元元年(一一五六年)の鳥羽法皇の死を契機として起きた。後白河天皇と関白藤原忠通、崇徳院と藤氏長者・藤原頼長の争いであるが、戦争の中心は武士が担った。武士の時代の始まりを示す事件であった。
結果は崇徳院側が敗れ、崇徳院は剃髪して讃岐国に配流となった。崇徳院は七月二三日に鳥羽から船で下り、讃岐国の松山の津に到着した。しかし、讃岐国では御所の準備ができておらず、国府役人の綾高遠(あやのたかとお)の館を仮の御所とした。崇徳院は都を懐かしんで歌を詠む。
「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」
この歌から仮の御所は雲井御所と名付けられた。雲井御所近くに流れる綾川を鴨川と呼んだ。現在でも綾川は鴨川と呼ばれる。その後、崇徳院は鼓岡木ノ丸御所に移った。
鎌倉時代に守護が置かれると、讃岐国守護の下に林田守護代が置かれることがあった。三浦光村が讃岐国守護の時に長雄二郎左衛門胤景(ながおじろうざえもんたねかげ)が林田守護代を称した。三浦光村は鎌倉幕府評定衆の有力御家人であったが、宝治元年(一二四七年)の宝治合戦で滅亡した。真言宗の僧侶の道範が大伝法院焼き討ちの責任を問われて林田守護代のところに配流された。
讃岐国御家人の沙弥円意は弘安元年(一二七八年)に阿野郡林田郷内と梶取名内の潮入新開を祇園社へ寄進する。分国主の亀山上皇は弘安二年(一二七九年)に阿野郡林田郷内と梶取名内の潮入新開を祇園社領と認めた。御家人が荘園を神社に寄進している。中世は武士の時代とされるが、宗教権力の強さを示すものである。
南北朝時代には細川清氏と細川頼之の白峯合戦の舞台になった。林田郷は守護大名・細川氏のヘゲモニー下にあった。阿野郡は国人の香西氏の勢力が強まった。香西氏は細川氏との結び付きを強め、細川四天王の一人にまでなる。応仁の乱後は細川氏の勢力が弱まり、讃岐国は小勢力の群雄割拠状態になる。阿波国では細川氏の重臣の三好氏の勢力が強まり、讃岐にも勢力を伸ばした。
戦国時代末期には長宗我部元親が四国の覇者になった。元親は土佐の領主の若君であったが、「戦知らずの姫若子」と呼ばれ、侮られる日々を過ごしていた。しかし、それは才能を隠す擬態であった。これは「うつけ」の織田信長に重なる。
元親の躍進は信長の躍進と重なるところがある。しかし、当の信長からは「鳥なき島」の蝙蝠と低い評価であったことは皮肉である。信長の本質は中世的な体制を壊す近世大名であり、中世的な要素の強い長宗我部家を高く評価できなかったのだろう。しかし、この長宗我部軽視は本能寺の変の動機になり、信長の痛恨事になった。
元親の強さは一領具足の兵士を編成したことにある。一領具足は半農半武の兵士である。突然の召集に素早く応じられるように、農作業をしている時も、常に一領(ひとそろい)の具足(武器と鎧)を田畑の傍らに置いていたことから一領具足と呼ぶ。
一領具足は信長の職業軍人政策とは一見すると真逆に見える。その後の歴史から遡って見ると一領具足は後進的な制度に見えるかもしれない。しかし、一領具足は単なる半農半武ではない。農作業中でも即座に出陣できるように武器と鎧を準備しており、戦争に集中できるように最適化されている。信長の職業軍人が平時は消費者か事務作業をしているところ、一領具足は農作業しているという違いがある。土佐は貨幣経済が普及しておらず、消費者として職業軍人を維持できないという違いによる。
四国統一を目指した元親は讃岐国にも侵攻した。ところが、羽柴秀吉が天正一三年(一五八五年)に四国攻めを行う。讃岐国には備前・美作の宇喜多秀家、播磨の蜂須賀正勝・黒田孝高が屋島に上陸した。秀吉の四国平定では、その差が明らかになる。元親は降伏し、土佐一国のみが安堵された。阿波国と讃岐国、伊予国は割譲された。
戦後の四国国分で仙石秀久が讃岐国の大半約十万石を治めることになった。秀久が讃岐に入った時に激しい農民弾圧を行った。秀久は一揆の首魁を捕らえて煮殺した。農民は恐怖して安住せず、離散する者が多かった。秀久は秀吉の最古参の家臣で、前線で戦い続けた。そのため、武備優先で領国を豊かにする余裕はなかった
秀久は天正一四年(一五八七年)、九州征伐の先陣の軍監になる。秀吉は持久戦を命じたたが、秀久は攻撃に出た。同じ先陣の長宗我部元親・信親父子は反対したが、秀久が強行した。訴その結果、戸次川の戦いで島津家久に大敗する。しかも、軍監として撤退の取りまとめをせず、自己の家臣団だけで領国に引き上げてしまった。「仙石は四国を指して逃げにけり 三国一の臆病の者」と詠まれた。これが秀吉の怒りを買い、秀久は改易となった。