林田の歴史   作:林田力

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林田村

文禄四年(一五九五年)に生駒親正が讃岐国約一七万石を治めることになった。親正は関ヶ原の合戦に病気を装って不参加。息子の生駒一正を東軍に参加させ、本領が安堵され、讃岐高松藩が成立した。

 

四代藩主の生駒高俊は幼少で家督を相続した。このため、外祖父の藤堂高虎が後見した。高虎は藩士を高松藩に派遣して、藩政を補佐させた。その一人が西嶋八兵衛で、土木や治水で活躍した。八兵衛は慶長元年(一五九六年)生まれ。満濃池の改修が代表的な業績である。

 

満濃池(まんのういけ)は弘法大師空海が弘仁十二年(八二一年)に改修した溜池である。空海は唐で学んだ水利技術を用いて改修した。空海が学んだ唐の技術も外来のもので、仏教僧・法顕がスリランカの技術を中国に伝えたものである。その後、満濃池は決壊や堤防老朽化で四五〇年間以上壊れたままになった。

 

積極的な新田開発によって高松藩は慶長六年の約一七万石の石高が寛永一七年には約二三万石に増加した。この新田開発は綾川河口東岸に開発可能な広い場所を持つ林田村も対象になった。林田村の寛永一六年の石高は一四八六石余。このうち、生駒家家臣が自分用の新田とした石高が九二点五石であった。

 

生駒家は、お家騒動の生駒騒動が起きる。藤堂高虎が生駒家を後見した際、一門譜代の力を弱めるために、外様家臣の前野助左衛門と石崎若狭を家老に加えた。ところが、この二人が藩政を牛耳り、専横を極め、一門譜代の家臣が反発する時代になる。幕府が取り上げた結果、寛永一七年(一六四〇年)に改易されてしまう。

 

八兵衛は対立が深刻化する前に高松藩から手を引き、津藩が生駒騒動に巻き込まれることはなかった。八兵衛は津藩でも雲出井用水開削などの水利事業で活躍した。津市丸之内商店街には西嶋八兵衛の銅像がある。

 

寛永一九年(一六四二年)に松平頼重が一二万石で入封し、高松松平家が幕末まで続く。高松藩の舟番所は林田浦に設置されていたが、享保七年(一七二二年)に坂出浦八軒屋に移転された。寛保三年(一七四三年)には林田沖での漁業に従事する丸亀御供所の漁民が船一艘につき一〇匁の運上銀を出している。弘化四年(一八四七年)に綾川が決壊し、林田村は洪水被害を受けた。

 

林田村は砂糖生産が盛んであった。林田村は、元治元年(一八六四年)には六七%もの甘藷作付け率を誇り、一七〇挺の砂糖車(さとうぐるま)を持っていた。砂糖車はサトウキビの圧搾装置で、明から琉球に伝わった。

 

サトウキビは元々、南西諸島に栽培地が限られていたが、高松藩では砂糖作りを研究していた。お遍路の途中で病気にかかり、藩内で行き倒れになっている人を治療して助けた。その人物は薩摩藩奄美大島出身で砂糖作りをしたことがあった。命の恩人の頼みとして、藩外へ持ち出し禁止のサトウキビを讃岐地方で育てた。これが讃岐和三盆の始まりである。

 

明治時代に入り、一八九〇年の町村制施行で阿野郡林田村となる。一九四二年に坂出町に編入され、その後に坂出市となった。林田の名前は坂出市林田町として残っている。沿岸部には塩田が広がっていたが、塩業整理で廃止された。代わりに林田工業地帯が造成された。埋め立てが進んでおり、歴史時代の海岸線はもっと内陸寄りであった。

 

林田港は釣り場である。カレイやカワハギ、コブダイ、サヨリ、タチウオ、チャリコ、ハゼ、メバルが釣れる。四国随一の心霊スポットとも指摘される。海面から無数の手が出てくるという噂がある。岸壁は釣りができる。

 

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