林田の歴史   作:林田力

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美作国苫田郡林田郷

美作国にも林田がある。美作国苫田郡林田郷である。これは「はいだ」と読む。苫田郡は貞観五年(八六三年)に苫西郡と苫東郡に分割された。その後、苫西郡は西西条郡と西北条郡、苫東郡は東南条郡と東北条郡に分割された。林田郷は東南条郡にあった。

 

鎌倉時代に林田郷は六波羅蜜寺の寺領が成立していた。六波羅蜜寺は智山派の真言宗寺院である。空也上人が天暦五年(九五一年)に開創した。林田郷の清正名は一二三二年に和気盛房法師から六波羅蜜寺灯油所として寄進された。「名」は徴税のために設けられた単位である。林田郷の安寧院は美作国司から一二三八年に不輸(租税を納めなくて良い権利)が認められた。

 

美作国は桃山時代には五大老の宇喜多秀家の領地になった。関ヶ原の合戦で西軍に属した秀家は改易され、小早川秀秋の領地になった。しかし、秀秋は慶長七年(一六〇二年)に早死にした。

「秀秋こそ人面獣心なり。三年の間に必ず祟りをなさん」

これは関ヶ原の合戦で大谷吉継が西軍を裏切った秀秋を呪詛した言葉である。その言葉通りに亡くなってしまった。跡取りのいない当主の死亡で小早川家は取り潰された。

 

代わりに森忠政が慶長八年(一六〇三年)、信州川中島から転封し、美作津山藩一八万六五〇〇石が成立する。忠政は織田信長の家臣の森可成の六男として生まれた。兄に織田信長の小姓になった森蘭丸、森力丸、森坊丸がいる。三人とも本能寺の変で戦死した。忠政も信長の小姓であったが、同僚と喧嘩になり、信長らから「まだ幼過ぎる」と言われて母親のもとに帰された。忠政は意図せず本能寺の変を回避した。

 

森家の家督は兄の森長可が継いでいた。長可は鬼武蔵と呼ばれる勇猛な武将であったが、長久手の戦いで討ち死にした。長可の死後に末弟の忠政が森家を継いだ。長久手の戦いでは播州林田藩と接点のある池田恒興も討ち死にしている。

 

忠政の美作支配は簡単に受け入れられたものではなかった。小早川家の家臣ら三千名は改易に納得せず、森忠政の入国を拒み国境を固めた。これに対して忠政は一部を調略して案内人にすると、裏道を通過して美作に入った。

 

忠政は鶴山を本拠地と定め、慶長九年(一六〇四年)に津山と改称した。鶴は森家の家紋であっため、鶴の字を使うことを避けた。津山藩は城下町を整備し、元和三年(一六一七年)に林田町ができた。ここでは江戸時代から明治時代にかけてつくられた町屋が多く残されている。東南条郡には林田村も存在した。

 

森家は第五代藩主の森衆利の時に改易される。衆利は生類憐れみの令により武蔵国多摩郡中野村の犬小屋の普請総奉行になった。ところが、浪人らが犬を殺害する事件が起き、家臣の若林平内が切腹を余儀なくされた。犬のための法令で家臣が死ななければなない理不尽から衆利は発狂し、幕政を批判した。これによって森家は改易され、津山藩は越前松平家一〇万石となった。

 

明治時代になると林田町は東南条郡津山東町になる。津山東町は一九〇〇年(明治三三年)に西北条郡津山町に編入される。同時に西西条郡・西北条郡・東南条郡・東北条郡が苫田郡になったため、苫田郡津山町になる。東南条郡林田村も苫田郡林田村になる。林田村は一九二三年(大正一二年)に津山東町になる。津山町や津山東町らは一九二九年(昭和四年)に合併して津山市になる。林田町は津山市林田町、林田村は津山市林田になる。

 

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