林田の歴史   作:林田力

4 / 37
多々良浜の戦い

鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、建武の新政を始める。これは在地領主には評判の悪いものであった。建武の新政は公家中心の政治の復活と見られ、多くの武士には面白くなかった。これは林田隠岐守には許せた。林田隠岐守は林田肥後守泰範という受領の子孫が在地領主になったものであり、律令政治を否定するものではない。

 

しかし、建武の新政の本性は公家政治の復活ではなく、中国のような皇帝専制を目指すものであった。故に建武の中興ではなく、建武の新政である。後醍醐天皇は「今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と述べた。復活ではなく、文字通り新政を志向していた。中央集権的な皇帝専制は分権意識の強い在地領主の肌に合うものではなかった。

 

無駄な公共事業も建武の新政の失敗原因である。後醍醐天皇は天皇の権威を誇示するために、大内裏の造営を発表した。莫大な経費を必要とする大内裏造営は民衆の負担になり、民衆の反発は増大した。建武の新政への不満は武士だけではなかった。

 

建武の新政への不満を背景として、建武二年(一三三五年)に北条氏の残党の北条時行が信濃から蜂起し、鎌倉を占領し、足利直義を追い出した。これに対して足利尊氏は時行を討つために自分を派遣することを後醍醐に再三要請したが、尊氏の自立を怖れた後醍醐は許可しなかった。業を煮やした尊氏は無断で関東に出兵し、中先代の乱を鎮圧した。後醍醐は追認で尊氏を征東将軍に任じたものの、後に尊氏を討伐する宣旨を新田義貞に出した。尊氏は義貞率いる建武新政軍を箱根の箱根・竹ノ下の戦いで迎撃して勝利した。

 

その勢いで西上し、建武三年(一三三六)正月十一日に上洛した。後醍醐天皇は直前に新田義貞らとともに比叡山へ逃れた。奥州から北畠顕家が大軍を率いて上洛すると敗北し、正月三十日、丹波から摂津へ逃れた。再び京へ攻め上ろうとしたが、豊嶋河原の合戦(てしまがわらのかっせん)で建武新政軍と対峙し、楠木正成に背後から襲われ、敗北した。

 

尊氏の反乱は中先代の乱を契機とした成り行きに乗っかったものであり、確固たるビジョンを持ったものではなかった。兵庫まで退いた尊氏は九州へ落ちることとなり大友軍の船に移った。五百人程度の軍勢で九州に向かって落ち延びた。途中の二月十五日、備後国の鞆の浦で光厳上皇の院宣を受け、朝敵の汚名を逃れた。

 

建武の新政に不満を持っていた肥前国の少弐貞経は尊氏に味方し、息子の少弐頼尚に兵を率いて合流させた。頼尚は二月二十日に長門国の赤間関で尊氏一行を出迎え、九州に行く。筑前国の宗像氏範も尊氏を合流した。これによって尊氏の軍勢は合わせて二千人程度になった。

 

これに対して肥後国の菊池武敏や阿蘇大宮司惟直らが尊氏追討に立ち上がった。菊池武敏には戦う積極的な理由がある。少弐貞経は武敏にとって博多合戦で父の武時を殺した仇であった。

 

九州の多数の武士も味方したが、菊池武敏のような戦意はなかった。むしろ建武の新政には不満があった。周囲が宮方一色の中で、仮に尊氏に味方したらフルボッコとなってしまうという消極的選択であった。関ヶ原の合戦で西軍になった多くの大名のような感覚であった。

 

これは林田隠岐守も同じであった。義理のようなものである。宮方は菊池武敏ら肥後国の武将が中心である。林田氏初代は林田肥後守泰範であり、林田隠岐守の家も肥後を故地という意識がある。

 

それでも宮方の軍勢は総勢二万に膨れ上がると壮観である。気持ちも大きくなる。瞬く間に少弐氏の本拠の大宰府を襲撃し、有智山城を攻略した。有智山城は宝満山の中腹に位置する山城である。少弐氏の主力は息子の頼尚に率いられて尊氏と合流し、手薄になっている隙を突いた。それでも有智山城は要害で中々陥落しなかった。林田隠岐守が調略を行い、内応者を出すことで二月二九日に陥落し、少弐貞経は自害した。菊池武敏は親の敵を討つことができた。

 

この勝利に驕る宮方の武将は多かったが、林田隠岐守は空しさを感じていた。少弐貞経は尊氏を支援するために大宰府に大量の武具や馬具を蓄えていた。それが宮方の襲撃で灰燼に帰してしまった。林田隠岐守は資源の消失に、もったいなさを覚えた。林田隠岐守は酒を飲まない。それは勝利の宴でも変わらなかった。酒飲みは泥酔した後、最悪の気分になるという。実際はどうか、林田隠岐守は知らなかった。知りたくもなかった。

 

宮方は大宰府陥落の勢いで北上し、三月二日に多々良浜で尊氏の軍勢と激突する。宮方二万に対し、足利勢二千と兵力差は歴然だった。開戦前に彼我の兵力さを見た尊氏は絶望した。

「切腹しよう」

ステレオタイプな感覚では指導者失格の発言であるが、マイナス情報を正面から認識する稀有な才能である。精神論根性論で何とかしようとする方が愚かである。

 

「敵は大勢ですが、本来は味方として参る者共です。菊池自身は三百騎にも達しません。頼尚が御前で命を捨てて戦えば、敵は風の前の塵も同然です」

尊氏の弱気発言に対して、少弐頼尚は反論した。

 

戦が始まると、宮方で真剣に闘う武士は少なく、裏切りが続出して敗北した。馬が怯えて立ち上がり、振り落とされる騎馬武者もいた。林田隠岐守にも生き残りのために率先して裏切る選択肢もあった。しかし、最初から尊氏の味方になることと同じく、これも肥後に近い千々石という地政学上悪手になる。宮方は多々良浜の戦いで敗北したものの、その後も肥後の菊池党らは宮方として抵抗を続けた。九州から南朝が一掃された訳ではない。

 

林田隠岐守は最初から悪い予感がしていたため、味方からも離れて布陣した。陣を固めてカウンター攻撃に徹した。戦の帰趨が明らかになると速やかに撤退した。負け戦は死なないことが目標となる。戦場は、どこをどう見ても楽しいものではなかった。この時の経験は嫌になるほど心をかき乱される。苦しくなる。のどかな風景にパクリと開いた、とてつもなく大きな傷であった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。