林田隠岐守は征西府の外交方針を明への朝貢に転換した。この時期、明は積極的に使者を派遣していた。明の日本への要求は二つある。第一に朝貢である。これは日本に限らず、各国に求めていた。朝貢とは本来、周辺諸国の王が中華皇帝の徳を慕って行うものである。それ故に本来ならば使者を送って朝貢を求めことは、おかしな話である。明が異例なことをした理由はモンゴル帝国(元)の支配で傷ついた漢民族の威信の回復があった。
過去にも中国が北方騎馬民族に征服されたことはあった。しかし、漢民族は軍事的には支配されても行政機構・経済・文化面では優位性を保ち、騎馬民族が逆に漢化する傾向にあった。これに対し、元ではモンゴル人第一主義を採り、行政機構・経済・文化面でも色目人(西域出身者)を重用し、漢民族は社会の最下層に置かれた。この元を打ち破った漢民族の王朝が明である。元代に抑え付けられていた漢民族の威信回復が対外プレゼンス増大となった。
第二に倭寇の禁圧である。倭寇は明の沿岸部などを荒らした日本人中心と見られる海賊である。明は現実に被害に遭っており、切実な問題であった。
征西府は当初、使者を斬首するなど厳しい方針を採った。朝貢が屈辱的と感じたためである。隋への国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」からの伝統である。この時代は元寇の後であり、特に抵抗が強かった。
趙秩という名前の使者が来たときは以下のやり取りがなされたほどである。
「貴殿は元の使者の趙良弼と同じ苗字だが、もしかして蒙古の子孫ではないのか。良弼と同じようにたぶらかし、日本を攻めるつもりでないか」
「明国を蒙古と同じくするな。私は蒙古の子孫などでない。斬りたければ斬れ」
趙秩の堂々とした態度に懐良親王は気がくじけ、礼をもって待遇した。
林田隠岐守は倭寇禁圧の観点から朝貢外交への転換を進めた。倭寇禁圧は林田領にも意味があった。林田領は農業が中心である。二十一世紀にも棚田がある。肥前北部は倭寇の根拠地であるが、林田領は倭寇の被害に遭う側であった。
外交史は国と国との関係で見がちであるが、同じ国だからと言って利害を同じくするとは限らない。後に朝鮮が対馬の倭寇の根拠地を攻撃したことがあった。これは倭寇の根拠地が攻撃されただけで日朝間の紛争になることはなかった。日本国内にも倭寇の根拠地が叩かれることを歓迎する人々はいた。
倭寇禁圧は良いとしても、朝貢が屈辱的との問題は残る。しかし、朝貢外交は倭寇の禁圧にとっても必要なことである。朝貢貿易が行われれば倭寇の必要性が減るためである。これまでは中国の品物が欲しければ倭寇から求めなければならなかった。しかし、中国の品物が朝貢貿易で得られれば、倭寇から調達する必要はなくなる。倭寇の社会的必要性を減少することになる。
朝貢そのものにもメリットはある。朝貢することは冊封体制に入ることである。これは国際連合に加入するようなものであった。国際社会で生きていくためには必要なことであった。勿論、冊封体制に入る上では、それなりのルールに従わなければならないという制約がある。それを嫌がる意見もあるだろう。つまり冊封体制に入るか否かは、国際協調主義と一国主義・孤立主義の対立であった。
冊封体制と現代の主権国家間外交の相違は、前者には中華皇帝を主とする主従関係があることである。これは対等な主権国家という建前を持つ現代の外交とは異なる。しかし、現代の価値観で冊封体制を否定しても不毛である。当時の社会には個人関係にしても集団同士の関係にしても平等者同士の関係はほとんどなかった。常に上下関係が存在していた。人と人、集団と集団が関係を結ぶ際に上下関係があることは当たり前であった。
その当時の日本人にも中華への朝貢を屈辱と感じる人がいたことは確かである。しかし、平等思想を持たないにもかかわらず、屈辱と感じることは逆に不思議である。中華と日本の国力の差を認識せず、無根拠に日本に優越意識を持つ「井の中の蛙」の発想だろう。それ故に冊封体制の拒否は一国主義に収斂する問題に過ぎない。
征西府が明から冊封されることは強力な権威をもつことになる。南朝と言っても吉野の朝廷から何の援助も受けていない征西府にとって、これは切実な問題である。
さらに朝貢貿易は朝貢国に多大な実利をもたらす。朝貢国は献上品を献上すると、明は威信にかけて献上品の数倍の価値のある下賜品を与えてくれる。実際、足利義満の勘合貿易は多くの利益をもたらした。
これらの理由から征西府は明への朝貢を進め、懐良親王は「日本国王良懐」の冊封を受けた。使節の供応は林田隠岐守の責任であった。手配は全て行き届いていた。席次は考え抜かれており、皆楽しんでいるようであった。林田隠岐守の念入りな事前準備は完全に報われた。