林田の歴史   作:林田力

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今川了俊

林田隠岐守は防衛を続けて幕府軍を島原半島に進ませなかった。仲秋の戦略目標も大宰府攻略であり、島原半島は優先ではなかった。そのために仲秋は軍を東に進め、筑前で兄の軍と合流する。了俊は薩摩の島津に菊池氏の本拠の肥後を圧迫させることも忘れなかった。幕府の大攻勢によって征西府は四月に博多を失い、八月には大宰府が陥落。征西府は筑後高良山に撤退する。

 

こうなると林田隠岐守が了俊の攻略目標になる。林田隠岐守を叩いておくことは将来の菊池氏の本拠である肥後攻めを考える上でも有益である。島原半島と肥後は有明海を挟んで一衣帯水の関係である。島原半島を押さえれば包囲網が広がるし、放置しておけば後背を突かれる危険がある。

 

林田隠岐守は降伏か抵抗か決断を迫られることになった。征西府の援軍は期待できない。林田隠岐守は、すっかり考え事に没頭した。一体どれくらいの時間、こうして座っていたのだろうか。林田隠岐守は戦いを決断する。今更、降伏したところで、見返りの一切ない不断の奉仕が要求されるだけである。

 

幕府軍には倭寇・海賊として悪名高い松浦党がついている。降伏しても荒らされるだけである。奴らは我らを殺しにやってくる。もともと千々石領主として海賊と戦ってきた関係であった。領内には海賊が憎いという声は多い。海賊が来なければ自分達が荒んだ暮らしをすることはなかったと考える人々も多い。

 

一方で死に場所を探し始める林田隠岐守でもなかった。林田隠岐守の眼には固い決意が浮かんだ。林田領の未来を賭けた一戦が開始されようとしていた。霧が濃かった。空気は冷たく、樹木の爽やかな匂いが肺いっぱいにしみ込んだ。

 

今川了俊率いる幕府軍は千々石浜から進入した。水軍の松浦党を味方にしており、海から攻めることは理に適っていた。次から次へと幕府軍は軍船から上陸し、その度に旗指物や長刀の刃が日にきらめいた。刃は銀色の穂のように輝いた。二つ引両の旗印もある。兵力差は圧倒的であり、鎧袖一触と思われた。

 

林田隠岐守は飯岳城を防衛線とした。城と言っても安土桃山時代や江戸時代の城郭と異なり、野戦陣地のようなものである。何重にも空堀を作り、要塞化した。幕府軍から何百何千本もの矢が放たれる。一本一本の矢が集束して束になったように見えるほどであった。これに対して林田軍は敵を十分に引き付けてから矢を射込む。城の上から大木や大石を落とすなど幕府方を苦しめた。敵陣が乱れ始めると突撃する。敵が逃走しても深追いを避け、味方を引き上げさせて潜ませた。もっと追撃できると思った時も計画に従った。計画は守るためにある。

 

激戦に次ぐ激戦が繰り返された。今川了俊も並みの武将ではない。幕府軍に慎重さを徹底するようになった。そこで林田隠岐守は一計を案じた。一門の林田力泰の部隊を突出させた。その突出は幕府軍からも確認できた。過去の経験から罠と見るべきだが、その部隊の動きは明らかに味方との連携を欠いた行動であるように見えた。

 

今川了俊が尋ねる。

「林田力泰隊をどう見るか」

仲秋が答えた。

「いつまでも消耗戦をしていると向こうの攻撃に対応できなくなります。下手に近づくのは危険ですが、威嚇も兼ねて一度接近して攻撃を加えます」

 

了俊の許しを得た仲秋は、林田力泰隊に向けて部隊を進撃した。この進撃は信じられない速さであったにも関わらず完璧に統制がとれていたため、林田力泰は敵将を称賛しつつ、「これも隠岐守の作戦のうちだ」と言って左後方に後退した。幕府軍は、それを撃つために右に向かう。

 

そこに林田隠岐守の号令で一門衆の林田力則率いる別働隊が幕府軍の左側面に躍り出た。その速さも称賛されるべきものである。気が付けば、幕府軍は完全に前と左からの半包囲にあっていた。了俊は舌打ちして退却の指令を出した。

 

林田隠岐守は的確に指示を出していく。常に先手を取って読み勝つ。合理的で決して無理がない。ことさら勇猛さを見せることはない。旧日本軍のような精神論からは無縁である。従う兵は自然に信頼を深めた。

 

勿論、幕府軍が簡単に負けることはない。兵力は圧倒的に上である。了俊は兵力のアドバンテージを上手に活かして戦列を立て直し、局地的に不利になっても綺麗に対処する。それでも、全面攻勢に出ようとしてもうまく抑えられてしまう。逆に先に綻びを見せ始めてしまう。

 

林田隠岐守の戦いは水際防御ではなく、縦深防御である。これは九州での南北朝の戦いを逆手に取ったものでもあった。九州の南朝方の主力は肥後国の菊池氏である。この菊池氏は野戦に強かった。それを研究した了俊は猪突を抑え、山中に陣を張り、迎え撃つ方針を徹底した。南朝方は山中に籠る幕府軍に痺れを切らし、焦って攻撃し、無理な山岳戦で消耗した。これを林田隠岐守は幕府軍相手に展開した。

 

これは倭寇対策の成果でもある。倭寇は日本の海賊が朝鮮や明の沿岸部を荒らすイメージがあるが、倭寇が日本人とは限らず、日本の沿岸を荒らすこともあった。林田領では倭寇への備えが必要であった。そこでは山岳部に誘い込み、消耗させる戦術が採られた。

 

これは鎌倉時代から南北朝時代の戦闘の転換を反映したものでもあった。鎌倉武士は自らが騎馬に乗り、弓矢で武装して河原や野原で合戦した。これに対して南北町期には山城の攻防を中心とした歩兵の戦闘が徐々に多くなっていく。林田隠岐守の戦いは、その流れに乗ったものであった。

 

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