林田の歴史   作:林田力

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レオ林田助右衛門

室町幕府軍を退けた林田隠岐守は、その後も領主としての独立性を保ち続けた。しかし、後の世代になると戦国大名有馬氏の被官になる。有馬氏は島原半島南部の国人から島原半島一帯を支配する戦国大名に成長した。

 

大村氏は肥前国杵島郡を拠点とした国人で、やはり戦国大名に成長した。この大村氏の配下にも林田衆が登場する。衆は在地の小領主によって構成される地縁・血縁集団である。兵農未分離の段階であり、農民兵が多かった。

 

有馬氏と大村氏は文明六年(一四七四年)、中岳合戦で激突する。この戦いで有馬氏が勝利し、大村領の長崎や浦上が有馬領になる。文明一二年(一四八〇年)に和睦し、長崎は大村領に戻されたが、大村氏は有馬氏に従属する傾向が強まった。

 

有馬晴純は大村氏を完全に従属化に置くため、次男の純忠を大村純前の養子にした。純忠は天文一九年(一五五〇年)に大村氏の家督を継承した。純忠は永禄六年(一五六三年)に日本最初の切支丹大名になった。洗礼名はドン・バルトロメオである。

 

大村氏は、伊佐早を拠点とした西郷純堯(すみたか)から度々侵攻を受けた。熱心な仏教徒でキリスト教を激しく嫌ったことが影響している。純堯は有馬氏の配下であったが、永禄六年(一五六三年)に離反した。佐賀の龍造寺氏が勢力を増しており、龍造寺氏に乗り換えた。純堯は天正二年(一五七四年)に大村領に侵攻した。大村純忠は触れを出して配下の林田衆を動員した。林田衆の活躍で大村方が勝利した。

 

純忠は天正八年(一五八〇年)に長崎の地をイエズス会に寄進した。ここには純堯らの侵略に対する避難場所を設けるという積極的意味があった。主権国家の感覚で植民地になるというような見方は一面的である。逆にイエズス会側に寄進を受けることに反対意見があった。清貧に反すると。イエズス会による長崎の統治も実質的にはイエズス会と商人代表との共同統治であり、植民地というよりも自治都市に近い。

 

有馬晴純の息子が有馬義貞である。義貞の代になると有馬氏は大友宗麟や龍造寺隆信、西郷純堯の圧迫で衰退していった。義貞の息子が有馬晴信である。義貞も晴信も切支丹大名である。晴信は当初、父の反発もあってキリスト教を弾圧する側であった。しかし、ヴァリニャーノから洗礼を受けて熱心な切支丹になった。そこには龍造寺隆信の勢力拡大への危機感があった。

 

晴信は龍造寺と対抗するために島津とも連携した。有馬と島津連合軍は沖田畷の戦いで、龍造寺軍を迎撃した。イエズス会が晴信に提供した大砲も威力を発揮し、大軍の龍造寺軍を撃退し、隆信を討ち取った。この恩賞として晴信は天正一二年(一五八四年)に浦上村をイエズス会に寄進した。

 

有馬氏の家臣や領民にもキリスト教信者が多かった。家臣のレオ林田助右衛門の一家も切支丹であった。豊臣秀吉は天正十五年(一五八七年)に伴天連追放令を出し、長崎や浦上の教会領を没収した。その後も、有馬氏の領内の信者はキリスト教信仰を続けた。

 

ところが、岡本大八事件によって状況が一変した。岡本大八事件は本多正純の寄力の岡本大八(洗礼名パウロ)が、恩賞斡旋を名目に有馬晴信から多額の金品を詐取した収賄事件である。晴信は甲州に配流された後に自害させられた。大八は駿府阿倍河原で火刑に処せられた。晴信も大八も切支丹であり、江戸幕府のキリスト教禁教の動きが加速化した。

 

有馬藩は晴信の息子の直純が藩主になった。直純は江戸幕府の禁教令に従って改宗し、領内の切支丹弾圧に転じた。セミナリヨや教会、修道院は没収・破壊された。レオ林田助右衛門はアドリアノ高橋主水、レオ武富勘右衛門と共に棄教を拒否した。

 

レオ林田助右衛門と妻のマルタ林田や娘のマグダレナ林田一九歳、息子のディエゴ林田一二歳らは慶長一八年(一六一三年)一〇月七日に有馬川の中州で火刑にされた。

「子よ、天を仰ぎなさい」

マルタ林田は燃え上がる炎と煙の中で子ども達を励ました。

ディエゴ林田は「イエス、マリア」と唱えつつ息絶えた。

マグダレナ林田は火刑に際して自ら燃える薪を手にして頭にやり、右手で頭を支え神にその身を捧げた。林田一家らの殉教は集まった人々に感銘を与え、逆に人々の信仰心を強くした。江戸幕府は慶長一八年一二月一九日(一六一四年一月二八日)に直轄地に適用されていた禁教令を全国に拡大する。ここには林田一家らの殉教への反応も一因になった。

 

この殉教はイエズス会士による報告書(年報)でも伝えられ、ヨーロッパにも知られた。ローマ教皇庁は二一世紀に入り、レオ林田助右衛門らの殉教者を「ペトロ岐部と一八七殉教者」として福者に列した。列福式を二〇〇八年一一月二四日に長崎で開催した。日本国内初の列福式であった。近世日本の切支丹弾圧はグローバルな関心事である。レオ林田助右衛門は世界的に見れば最も著名な林田氏になるだろう。

 

有馬直純は慶長一九年(一六一四年)に日向国延岡に転封になるが、旧領では新しい領主・松倉重政や勝家が切支丹弾圧を続け、年貢の厳しい取立てなどの苛政も加わった。これが日本最大規模の内戦・一揆である島原の乱の原因である。有馬家は幕府軍として出陣した。家臣の林田弥野左衛門が討ち死にした。

 

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