宇宙世紀0079 11月16日 午後8時40分
物騒な夕食会がアイリスの取りなしで散会した後、レインは自機である陸戦型ジムのコクピットの中で手帳に文字を書き殴っていた。
自らから湧き出た感情が文字となって黒い塊となって具現化していく。感情を文字に書き表すことは自身の今の心のあり様を可視化しているに等しく、感傷的なレインにとってそれは痛みのない自傷行為だった。
「なーにやってるの?」
レインの手を止めたのは天真爛漫な少女、アイリスの声だった。ハッチが開いたコクピットから見える曇りない夜空と少女の笑顔はやけに映えていてレインには絵画的に見えた。
「アイリスか…特に何もしてないよ。」
「ふふっ、また1人で手紙書いてたの?今日の朝もそうだったね。」
レインの見え透いた嘘は少女に微笑と共に看破された。最も彼女の顔には呆れや困惑はなく、優しく穏やかにレインを見つめている。その姿はまるで子どもの悪戯を笑って許す母親の様だった。
「それで、今度は何書いてるの?誰かにラブレターとか?もしそうなら、嫉妬しちゃうなぁ〜あたし。」
アイリスは、ずいっと顔をレインを近づけると頬を風船の様に膨らませる。あと数センチ近づけば顔をぶつけてしまうほどの近さでの視線のぶつかり合いはレインが視線を外したことで終わりを告げた。レインは顔をアイリスから外したまま言葉を続ける。
「べ、別に何を書いていても良いじゃないか。アイリスには関係のない事なんだから。」
至近距離で見つめられた照れを隠すようにレインは少しつっけんどんな態度をとってみせる。それにもアイリスは微笑みを絶やさずに言葉を返す。
「うん、それもそうだね。レインの気持ちがそれで落ち着くなら、あたしはそれで良いと思うんだ。」
「……何となく察しはついてるんだろ、アイリスのことだから。」
「まぁ、何となく分かるよ。あたし、レインの事なら大体分かっちゃうからね♪」
アイリスの冗談なのか本気なのか分からない発言を無視してレインは続ける。そこに突っ込んだところで煙に巻かれるのがオチだ。
「……さっき、チェリッシュが言ってたろ?オレは良い格好をしたいだけだって。その通りだと思ってさ。」
「……」
無言ではあったが、アイリスの瞳は真っ直ぐにレインの横顔を射抜き続けている。その純真な視線がレインには尚のこと痛かった。その瞳の輝きが自身の薄汚れた理想に向けられているのでは無いかと思うことが恥ずかしく辛かった。
「チェリッシュの言う通りだよ。オレはあのヅダを斬る時、人の命を奪う事になると分かっていた。殺すつもりで機体を斬ったんだ。殺意がオレの中には明確にあったんだ。それなのに、オレは南極条約を引き合いに出してパイロットを守ろうとした。オレ自身が殺そうとしたその子を…守ろうとした。これは欺瞞以外の何物でもないさ。」
「結局オレは、命から逃げているだけ。理想を振りかざして現実から、命の責任から逃げてるんだって気付かされた。」
レインは知らぬ間に自身が涙を流していることに気がついた。その涙は自身の行った行為への後悔と懺悔か、はたまた自身の理想を体現出来ていないことに対する憤りか、レインには分かりかねていた。ただその涙に身を委ねて声もなく泣くことしか出来なかった。
しばらく黙って肩に手を回して見守っていたアイリスはその手をレインの両手に優しく包み込むようにそっと握った。
「ううん、違うよレイン。それは違う。レインは逃げてなんてない。レインの顔を見れば分かるよ。本当に逃げてるなら、こんな悲しい顔してるはずないもん。」
「辛いんでしょ、苦しいんでしょ?だから私にだってそんな事言ってるんだよね?」
「それは逃げてるんじゃないんだよレイン。向き合ってるの。レインは今一生懸命、命と向き合ってるんだよ。それはレインが優しい証拠だよ。」
「オレが優しい訳ないじゃないか!オレは彼女を殺そうとしたんだぞ?その事実はどんなことがあっても変わらないし消えない!」
レインの目にはもう涙はない。しかし、泣き方が変わっただけの様に思わせるほどにレインの言葉には悲壮感がこもっていた。自身の罪を自身で断罪する事で必死に自分の罪と向き合おうとしているのだとアイリスは理解していたし、それもまた彼の優しさ故の苦しみなのだと言うことを悟っていた。
「けど、レインは殺してないし、彼女は生きてるよ。コクピットじゃなくてブースターだけを斬ったのだってレインの中の優しさが今でも残ってる証拠だよ。1番戦死する可能性が低くて空中分解を止めることが出来る部位を壊したんだから。」
「今レインが考えることは後悔することでもあの子に謝ることでもないと思う。あの子を守ること、守るために何が出来るか考えることだと思うよ。」
「それはきっとレインにしか出来ない命の責任の取り方はずだよ?」
「……オレにそんなこと出来ると思うか?」
不安げな表情を浮かべてはいるものの、レインの言葉からは悲壮感が消え、瞳にも消えかかりそうではあるが光が灯り始める。その瞳が再度アイリスを捉える。
「あたしは信じてるよ。けど、レイン君は泣き虫だからなぁ〜♪」
アイリスは悪戯っ子の様な笑みを浮かべレインをからかう。
「悪かったな、泣き虫で。」
「そんなレイン君にあたしから一つおまじないをかけてあげましょ〜。レイン耳貸して。」
「ーーーーーー」
訳も分からず、レインは耳をアイリスの方へと向ける。アイリスが言った言葉はレインには全く聞き覚えの無い言葉だった。
「聞きなれない言葉で全然分からなかったんだけど…どういう意味?」
「それ言っちゃったら、おまじないにならないでしょ?内緒だよ、内緒。」
「なんかからかってないか?」
「えへへ、バレちゃった?」
ニコニコしながらアイリスは鼻を人差し指で擦って見せる。反省しているというよりは完全にひけらかしている。
「やっぱりか、アイリスは子どもっぽいこと好きだなー」
そういうレインの顔には笑みが戻って来ていた。
「うん、やっぱりレインはそういう顔の方が似合うよ。ニコニコ優しいレインの方があたしは好きかな。」
「それじゃおやすみレイン。おまじないのこと他の人に言っちゃダメだからね!」
アイリスは、そういうと少し足早にレインの前から立ち去っていった。レインはついさっきまで書き殴っていた手帳のページを静かに破くと軍服のポケットに突っ込んだ。アイリスが何をしに自分のところに来たのかは分からなかったが、彼女の言葉で救われたのは間違いない。心中でアイリスに謝意を伝えるとレインは瞳を閉じる。そしてしばらくして微睡みへと落ちていった。
ーーーーーー
どうして自分の周りには甘い連中しかいないのだろう。チェリッシュは闇夜に隠れて歩を進めながら、自身の環境を恨んだ。自分の行う行為は連邦軍人として正しいことだと強い自負を持っている。敵には制裁を与えなければならない、痛みなくして抑止や先々の平和には繋がらない。その積み重ねで世界は平和を築いていてきたはずだ。平和には犠牲や痛みが少なからず必要なのだ。その礎として自身が果てるならそれもまた軍人として正しい行く末なのだとチェリッシュは考えていた。
(私だけでも連邦軍人としての職責を全うしてやるわ!)
左手で自身の懐にある拳銃に触れる。無機質で冷たい金属の感触がチェリッシュの指先に伝わる。その冷たさが返って彼女を使命への駆り立てる。生半可な緩く温い気持ちでこれに手を触れることは許されない、殺意がより強固になるのを感じていた。捕虜を殺す。必ずこの手で。
もう少しだ。もう少しでシボレーと忌々しい捕虜が寝ているであろう折り畳みの簡易テントにたどり着く。連邦軍が野営用にモビルスーツに備え付けたものだが、そんなところで捕虜を匿うなど明らかに趣旨と反している。そう、私は間違っていない。間違っていないはずなのだ。
「そんなに急いでどこ行くの、チェリッシュ?」
自分の前の方から聞き覚えのある声が聞こえた。予想外の出来事に驚きながら顔を上げてその人物と向き合う。
「アンタこそ、こんなところで何してんのよアイリス。」
「あたしは……監視かな?」
「監視?」
「そう、誰かがシボレーのテントに近づいて悪さしない様にする為に…ね?」
「へぇ、アイリスも随分と暇なのね。こんな時間に見回りなんて。不思議ちゃんここに極まれりね。」
「それ、チェリッシュが言っちゃうの?こんな時間に懐に銃隠して人のテントに向かってるなんてよっぽど不思議な人だと思うよ?」
「まるで…暗殺者みたい。」
夕食の時の同じ強い眼差しがチェリッシュに向けられていた。侮れない女だとチェリッシュは思った。何も考えていない不思議な女に見えてその実、妙に鋭いところがある。この女には他の人間にはない『何か』がある。その何かがチェリッシュには分からない。しかし、だからこそ、その掴みどころのなさが殊更不気味に思える。そんなアイリスを訓練生の頃からチェリッシュは心の底から嫌悪していた。
「あたしのことは嫌いでも構わない。だけど捕虜の殺害は、この一線だけは越えさせない。あたしがいる限り絶対に、越えさせない。」
ほら、またこれだ。人の心を分かっているかのような言葉を傲慢に投げかけてくる。耳が腐る様な理想論だ。戦場で敵に引き金を引くことと野営地で捕虜に引き金を引くことに何か違いがあるとでも言うのか。変わっているのは状況だけで人を殺す行為そのものに変わりはない。現実離れした詭弁ほど腹立たしいものはない。
しかし、ここで強引に突破することも得策ではないと思い直す。味方殺しはしたく無い。それは軍人として恥ずべき事だ。相手がどんなに相容れない相手であっても味方は味方なのだ。白々しくしらを切って退散することにしよう。そう思ったチェリッシュはアイリスからくるりと踵を返して言葉を投げ捨てた。
「なんのこと言ってるか全然分からないけど、さっさと戻って寝たらどう?」
「そうするよ、チェリッシュがここから居なくなった後でね。」
「……おやすみアイリス。」
胸の中にどす黒い澱みが溜まっていくことを自覚しながらチェリッシュは来た道をゆっくりと戻る。一歩遠ざかるごとに、自分がくだらない理想論や悪に屈した様な気持ちが強まっていった。それは彼女にとってジオン公国への殺意をより強く自認させただけだった。
ーーーーーー
アイリスはチェリッシュが去った事を確認するとぐるりと周りを見渡し、暗がりの茂みに言葉を投げかけた。
「さてと…そろそろ出てきても良いんじゃない?あたしがくる前からずっとシボレー達を見守っててくれたんでしょ。チェリッシュが手出し出来ないように。」
「そうだよね、シトラス」
アイリスの声から少し間があり、茂みの中からアッシュグリーンの短髪に青い瞳、そして180センチ近い長身が姿を表した。シトラス・アルグレイその人である。
「ったく、なんで分かんだよ…怖すぎだろ!上手く隠れてたつもりだったんだけどよ。」
「うーん、なんとなく?」
「……あー、それ1番怖い奴だわ。隠し事とか勘で分かっちゃう奴だ。」
アイリスを見るシトラスの顔は少し引き攣っていた。直感でなんでも分かってしまう女性ほど男にとって怖いものはない。シトラスは彼女に将来現れるであろう伴侶に対して勝手に同情した。
「ありがとね、シボレー達のこと守ってくれて。けど…シトラスにそれ似合わないよ?」
そんなシトラスの心中などお構いなしにアイリスは彼の懐から見えている黒塗りのオートマチックの拳銃を指差した。
「……あのままチェリッシュがシボレー達のところに近づいたら、撃つつもりだったんでしょ?」
「じゃあ何か?そうさせない為にアイリスはわざわざチェリッシュを煽り散らかして帰らせたわけ?俺にチェリッシュを撃たせないために。」
シトラスはやれやれと言った調子で肩を窄める。長身で端正な顔立ちのせいか幾らか芝居がかっているようにも見える。
「シトラスは軽そうに見えて、実は周りのことすごーくよく見てるでしょ?チェリッシュがレインとシボレーに食ってかかってる時も、私が止めに入った時も黙って見てた。周りの様子を伺ってたんだよね?それで最悪の事態に備えようとした。違う?」
「……まさかそこまで読まれてるとはな。参ったよ。」
そう言うとシトラスはフーッと深く息を吐き、鋭くアイリスを見つめる。そこに先程の芝居がかった様子ではなく、張り詰めた緊迫感が漂う。
「今、アイリスは俺のことを周りをよく見てるって言ってたけど、それはお前にだって言えることだろう?俺やチェリッシュの動き、何なら心境まで推察してみせた。」
「……」
「ジオンの奇襲を受けた時も、お前はすぐにレイン達を連れて戻って来た。まるで奇襲が分かったみたいにな。」
「お前は周りが見えてる。いや、見え過ぎてる。アイリス・ベルガモット、お前は一体何者なんだ?」
2人の間にしばらく沈黙が訪れる。辺りには夜風が吹いているだけで、物音一つしない。まるでこの世界の住人が2人だけになってしまったかのような不思議な時間が流れていた。その間も2人の視線は決して外れることなくお互いの瞳を射抜いていた。
2人の間を一際強い夜風が吹き荒れた後、アイリスが静かに口を開いた。
「あたしはあたし。連邦軍人で恋する乙女の20歳。ちょーっと勘が鋭いだけのね。」
「色んな面があるかもしれないけど、それもあたし。全部引っくるめてあたしなの。これじゃダメかな?」
「…はーっ、参るよ。深く掘り下げようとしてもはぐらかされちまうんだもん。この調子じゃ本音は聞けそうにねーな。」
「もーっ、全部本音なんだってば!」
「分かった分かった、そう言うことにしといてやるよ。なんか柄にもないことして疲れたわ。もう寝る、おやすみ。」
頬を膨らませてむくれるアイリスに右手をヒラヒラと返しながらシトラスはその場から立ち去った。
(あの微笑み、悪意も敵意も感じなかった。ただ…何かは腹に抱えてんだろうな、あの不思議ちゃんは。その何かはさっぱり分かんねーけどな。)
(あー、やめだやめだ!俺には考えもつかねえ事で悩むのもカッコ悪りぃ。この事はひとまず忘れるか。)
思案しながら人知れずシトラスは爪を噛む。その姿はやはりどこか芝居がかっていた。
こうしてレイン達、連邦軍の新兵の激動の1日は終わりを告げた。
しかし、それは決して安寧を意味するものではない。連邦軍シドニー基地までは遥か遠い。彼らの戦いにまだ終わりは見えていない。
暑かったり、雨模様だったり忙しい天気が続きますね。
体調を崩しやすい時期だとも思います、皆様どうかお気をつけてお過ごし下さいね。