何か見間違いでもしているのでしょうか。
気に入らない、認めない、絶対に認めたくない。
荒々しくエレベーターのボタンを叩く。
一つ、また一つと近づいてくる数字を見ながら唇をかみしめる。本当は分かっているのだ。五月があれほどなついている時点で悪い人ではないなんてことは。
でも、言葉巧みに騙されている線がないとは言い切れない。いや、ちゃんと見るまでは絶対にそうだと決めつけてかかっていたが、見ているうちにそんなことはないことくらいは嫌でも理解させられた。
──悪い人どころか、いい人、お人よしに分類されることだって本当はもう分かっているのだ。
そこまで分かってなお反抗の姿勢を見せるのは、つまらない意地のようなものだった。
どんなものだろうと、誰だろうと自分たち五人の中に入ってくることはできない、そんなことは許さない。そんな意地だった。
どこか抜けている姉、そして世間知らずで可愛らしい妹たちを近づいてくる不逞の輩から守らなければ、そう決意して、のこのこやってきた家庭教師には睡眠薬を飲ませて追い返し、その後も徹底的に反抗を続けた。
そのことで妹に何と言われようと、それが彼女たちのためになるんだと信じて、そう自分に言い聞かせて。
───そして、いつの間にか引き返せないところまで来てしまっていた。
気がつけば、私は一人だけ置いて行かれてた。
家に帰ると、リビングでの勉強会はまだ続けられていた。…勉強会というには教えている一人以外の目が死んできているので違うような気がしないでもない。強いて言うなら地獄のしごき、とでも言うべきだろうか。
まぁそんなことは大した問題ではないのだ、問題なのはなぜこんな時間になってもあの家庭教師は図々しく居座っているのか、ということと、家には居るが、自分と同じく授業への参加を拒み続けているものだとばかり思っていた三玖がそこにいたことだ。
「なんっっでっ……。」
脇目もふらずに自室に駆け込んだ。いや、逃げ込んだといったほうがいいかもしれない。実際に二乃はその光景から逃げ出したかったのだ。だってそれは、自分が一番恐れていたものだったから。
自分が、自分の行動のせいで決してそこには入ることができなくなってしまった光景だったから。
中野二乃という少女は、周囲に見せる苛烈な性格とは裏腹にその本質はとても弱いのである。姉妹を、自分の家族たちを大切に思うあまりに家族に近づいてくるものには過剰反応をしてしまうが、自分が大切だ、と思った相手に嫌われることを極端に怖がる少女なのだ。
今までは彼女の姉妹たちも、その二乃の過剰と言えるほどの対応を気にしていなかった。近づいてくる者たちは彼女たちにとってどうでもいいばか者ばかりであったし、何より実際ろくでもない奴らが多かったから。
だが今回は、仕掛けた相手が悪かった。風太郎にはもともと五月が尋常ではないレベルで懐いており、それに加えて直ぐに一花、四葉も懐いた。特に、五月と四葉は詳しくは話してくれなかったが、風太郎の家に泊まってから四葉は以前のように笑うようになった。
きっと彼のおかげなのだろう。そう誰でも思うだろう。でも、そう気づき、お礼を言わなければと思ったのはあれだけ反抗して、いやなことを言って、果ては睡眠薬まで飲ませてしまった後だった。
引くに引けない、その状況を一言で表すならこれだろう。
ただ、ずるずるとその状況を引きずってしまう彼女は大切なことに気づいていなかった。その彼女の“強さ”を振るう目的が、家族を守るためからいつの間にか自分を守るために変わってしまっていたことに。
「あれ、二乃帰ってきたね。」
先程まで死んだように机に突っ伏していた一花が組んだ腕の上に自分の顎を載せる、というだらけ切った姿勢でそう切り出した。もうすっかり勉強する気はないらしい。まぁさっきまでは真面目にやっていたし良しとするか。…この後もあるしな。
「二乃、やっぱり出ないんだね。
…呼んでこようかな。」
「ほんの数日前まで参加してなかったお前からそんな言葉が聞けるとはな…?」
「う、うるさいもん。フータローのバカ。」
今日は試験前最後の土日を前日に控えた金曜日。風太郎としてもここで追い上げておきたいという思惑があったこともあり、一花が急に言い出した“泊まっていかない?”という提案にのっている。言い出した本人は早速その軽はずみな提案を後悔し始めているところであるが。
段々と一花も察し始めた通り風太郎には“これで今日はみっちり勉強ができるぜ!”という思考しかない。さすがのフータロー君も少しくらいは遊んでくれるんじゃないかな?という甘い考えはこのままでは実現することなく散るだろう。
とにかく、今日はいつもならもう帰ってる時間になっても中野家に残って勉強を教えられる日なのだ。だから、今日はいつもは顔を合わすことすらしてくれない二乃と話すことが出来る、そしてあわよくば勉強に参加させようと思っていた。
…その目論みは初っぱなから躓いたわけだが。
それでも、“部屋に行っちゃったなぁ、じゃあ諦めるか”というわけにはいかない。とにかく今日がテスト前に二乃とまともに話ができる最後のチャンスかもしれないのだ。限界まで食い下がってやろう、と思い立つ。
「二乃は俺が呼びに行く、疲れただろうし暫く休憩にしよう。」
休憩の一言に思いっきり脱力する者や、まだあるのかと文句を垂れる者、そしていそいそとお菓子を取り出す者…、おい、夕飯入らなくなるぞ。
さて行こうかと腰を上げると、机の上に伸びていた四葉もい、一緒に行きます!と言って立ち上がった。
一人で行くつもりだったがまあいいか、二乃は俺に対してのあたりが強いから、四葉がいてくれたら多少ましになるかもしれない。
さて、行きますか。
今度はどんな断り文句と罵倒が飛んでくるんだろうか。小学生だから言い負かすのは簡単なのだがそんなことはしたくない。
…取りあえず今日はまともに話を聞いてくれることを祈るとしようか。
コンコン、と部屋のドアをノックする。
「二乃、いるか?」
「…なによ、気安く呼ばないで。」
ドアを開くこともせずに中から声が返ってきた。心なしかその声にいつもよりも勢いがないように感じる。
「なあ、授業に参加───
「しないわ、早く帰って。」
バッサリ切られた、取り付く島もないとはこのことだろう。横にいる四葉がむっとしたような顔をして口を開こうとしたがそれを手で制して言葉を重ねる。
「なあ二乃、なにが気に入らないんだ?言ってくれれば直して──
「うるさいっ!!」
叫び声とともにドアが勢いよく開かれる。それをなした本人は唇をかみ、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけていた。
「なんでまだここにいるのよっ!早く出ていきなさいよっ!!」
そういって俺のことを思いっきり引っ張って一階に向かわせようと、自分の部屋から遠ざけようとする。どうにも、見たことのない姉の様子に戸惑っている後ろの四葉の存在にも気づいていないようだ。
「あんたが来たからみんなおかしくなった!五人だけの家族なのに!ここにいていいのはママだけなのにっっ!」
「おい二乃、」
「うるさいっ!あんたが悪いのよ!あんたが──」
癇癪を起こしたように喚く二乃。標的にされているのは自分だ、完全に理不尽なのでここは怒るべきなのだろうが、なぜだかそんな気にはならなかった。代わりに、“それ以上言わせてはいけない”という直感めいたものが浮かんでくる。
「おい、──」
だめだ、とそう言おうとしたが間に合わなかった。ダメもとで伸ばしてみた手だって間に合わない。そしてその言葉は放たれる。
「──あんたなんていなければ良かったのにっ!」
「…二乃?」
俺の横からかけられた声に二乃の動きがピタリと止まる。そうせざるを得ない程の迫力と重みがその一言には籠められていたのだ。
二乃は恐る恐る、といった風にそちらを向く。そちらには目に怒りをいっぱいに湛えた四葉の姿があった。
「なんで、そんなこと言うの?」
「……」
「風太郎君に謝ってよっ!」
二乃の表情が痛みに耐えるようにくしゃりと歪む、いつの間にか五月も四葉のそばに来ていて、二乃を非難するようにそちらを見ている。そして階段のほうからは一花と三玖もこちらを見ている。
空気としては最悪だ。今日はもう二乃を参加させるのは無理だろうと思い、ともかく今はこの場を収めることを最優先にして口を開く。
「四葉、五月落ち着け。大丈夫だから、な?」
なにが大丈夫なのか自分でもよくわからないが、そう口にする。俺も思っているよりもずっとこの状況に動揺しているらしい。
家族ではない、言い方は悪いが部外者の自分でこうなら、こいつらの動揺はどれほどだろうか。
「風太郎君、でも…。」
「そうですよ上杉君!二乃は…」
言い募る二人の頭に手を置き、頼むからと、そういうと二人のまとっていた剣呑な空気が少し和らいだ。
しかしそれにほっとしたのもつかの間、事態はそれでは終わらなかった。
「なによ…、皆そいつの味方ばっかして!」
その一言に、落ち着きかけていた四葉と五月のまとう空気が再び険しいものに変わる。
「に、二乃落ち着いて。ほら四葉と五月ちゃんも、ね?」
流石に見かねたのか間に一花が割って入る。だが、そのフォローが功をなすことはなかった。
「…うるさい、うるさいうるさいっ!
皆…、みんな嫌いよ!」
「二乃っ」
「うるさいっ!もうこんな家出て行ってやる!」
そういうと、二乃は一花の制止も聞かずに横をすり抜けて本当に出て行ってしまった。バタンと勢いよく閉められたドアの音だけが家の中に響いた。
「どうしよう…」
大分日が長くなってきている季節にもかかわらず、辺りはもう夕闇が迫ってきている。それと自分一人であるということが余計に不安をあおる。これで寒い時期だったなら最悪だっただろう。
少しでも気を抜けば泣いてしまいそうになるのを必死にこらえて歩く。勢いよく飛び出してきたのはいいが、行く当てなどないのだ。友達の家に行こうにも徒歩圏内にはないし、何も考えずに出てきたので財布の類は何も持っていないのだ。なお悪いことに携帯まで置いてきてしまった。
「もう…、帰れないし。」
途方に暮れて立ち止まる、もう周りを気にせず思うまま泣いてしまおうか、そう普段の彼女ならば絶対に考えないことを考えてしまっている。
しかし思うがままに、と行動に移そうとしたとき、二乃に声がかかった。
「あれ、五月さん?」